エコ商品が拡がらない深層心理
欧米先進国でエコロジー・エシカル市場が拡大している。
わが日本は先進国でありながら微増に甘んじている。何故なのか?
衣食足りて礼節を知る日本人なら、もっと地球のこと、自然環境のことを
考えた消費への関心が高まってもいいのではないか?
その答えは日本人の自然観と自己意識のありかたに関係していないか
考えてみた。
中学生だったか図工の授業で「遠近法」を習った時、不思議に興奮して、 しばらく遠近法の絵ばかり描いていた記憶がある。
中心に無限遠点を決めて放射状に線を引き、その線に沿ってビルや街灯を
描いてゆくと、見た目どおりの絵になるのが面白かった。
近代の西洋画の大きな特徴のひとつは、この「遠近法」が取り入れられた
ことである。
遠近法の出現は単に新しい画法の問題ではなく、近代的自己の意識の変化の表れでもあった。
15世紀の終わり頃までの中世は、キリスト教支配の社会で、一般市民は 魔物や悪霊といった宗教的な呪縛の中にあった。
魔女狩りも盛んに行われ、罪もない多くの女性が魔女として処刑され、 その数なんと5万人というから狂気の沙汰である。
その女性たちを傷めつけたやり口は、まさにキリスト教徒が古代ローマ人から受けた迫害・仕打ちそのものだったといい、人間の執念深さのおぞましさを感じる。
宗教の支配で、自由な思考が許されない暗黒時代が終わって、近代が
始まり、ガリレオ、ニュートンが天体の仕組みや地球の物理現象を解き明かし、「科学」の扉をこじ開けた。
神を否定するこの「科学」は、宗教界から強い反発があったことは
言うまでもない。
王政から民衆法治国家となり18世紀、産業革命が起き、西欧は新しい
時代を迎えた。それまでの神に盲従した不幸の反動から、神の存在すら疑うという方向に勢いよく振り子は振れて行った。
近代の思想はデカルトやカント、フッサールが唱えた主体主義で
始まり、それは人間の主体の置き所、自我を突き詰めることだった。
世界は神の化身などではなく物体の集まりでしかない。
全ては客体で、主体はあくまでも「私だ」とした。
絵画の分野では幾多の様式、厳格な決まり事に従って描かれた宗教画は、近代になって新しい精神を手に入れ、興味は神への畏敬から人間の知覚そのものに向いていった。
五感の中でも視覚への興味はことさら大きく、主体である自己から
どう見えるかの表現に嬉々として取り組み始めたのである。
このような時代背景から遠近法が始まった。
「私」を主体にすると、自分を中心とする客観的な遠近法的な世界が眼前に広がっていなければならない。
例えば、舞台で演じられる演劇を観客席から見ている場合は、演者との
距離は一定で、遠近法的で分析的で論理的で対称性がある。
これに対して映画では登場人物の眼差しでさえ映像化され、登場人物と
一緒に観客もそのストーリーの中に入り込んでしまう。
これはトポロジカル的(位相幾何学)で、非対称性、形態的、知覚的に
なる。
トポロジカルな空間感覚は日本画によく見られる。
日本画には、きっちりした遠近の奥行感覚はなく、描きたいもの、
強調したいものを前後関係、距離感に縛られず、児童の絵のように自由に
展開してゆく。
西欧で遠近法絵画が当たり前になり、そろそろ堅苦しさを感じ始めた頃、遠近法に縛られない日本から送られてくる浮世絵の斬新さに触発され、
パリの画家たちの熱狂から「ジャポニズム」という一時代を迎えた。
哲学者メルロ・ポンティは、セザンヌの絵画が西洋画の中で特異な存在であることを語っている。「合理的な遠近法を逸脱して、セザンヌの眼差しがそのまま自由に移動し、トポロジカルな絵画となっている」
ジャポニズムの香りは、印象派の画家たちを魅了し、近代的合理主義を
嫌い精神の自由を求める気風と相まって、それまでの形式から解放されて、あくまでも画家の主観で描くようになった。
モネは、最晩年についに憧れの日本庭園を造り、名画「睡蓮」を完成させている。まさに視点があいまいで自身が庭園の自然と一体化する心地良さを
楽しめる。
パリのオランジュリー美術館の「睡蓮」の展示はその一体感を最大限に
持てるように工夫を凝らせて、わざわざ湾曲した壁の部屋を造り、見る人を囲む様に展示されている。
日本人が特にモネの絵画を好むのは、日本的トポロジカル絵画だからなのだろう。
葛飾北斎の富嶽三十六景にあこがれて、エッフェル塔三十六景を描いた
フランスの画家アンリ・リヴェールの絵を見るとほとんどが遠近法のままで、自己認識を変容させるというのは至難の業だということがわかる。
主体のあり方について、西欧の庭園と日本の庭園でもその違いは
明白である。
西欧の庭園は、王様がお城の高い窓から見下ろして楽しむため、左右対称の均整のとれた植栽にデザインされた。
これに対して日本庭園は、六義園などに見られるように回遊式で
鑑賞者である主体が庭園を歩き、庭園空間に馴染んでゆく。
見る主体が景色の外にあるか、中に含まれてしまうかの違いを
みることができる。
西欧と日本人の主体、客体の関係は、言語表現でも見られる。
川端康成の雪国という小説の冒頭の有名な一節に
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とあるが、これを英語的に文章化すると「私の乗った汽車が国境の長いトンネルを抜けた。そこは一面雪景色であった」となる。
日本語的には、主人公の視線をそのまま読者も感じて、窓の外の雪景色を
思い浮かべ、主客一体化して気持ちよく小説の世界に入り込んでゆく。
これは、日本語の特質で文章に主語がなくても成り立つ仕組みがあるからできる芸当である。文章から受ける印象は、主語にこだわらないので縦横に
移動でき自由なのだ。
英語的には、主語がないと一歩も前に進めない。その汽車に乗っているのは誰なのかを重視する。読者の視点はあくまでも汽車の外にあり、汽車が
トンネルから出てきて、雪の景色の中を煙を吐いて走る姿を
想像しているのである。
この原稿に取り組んでいるとき、居間でテレビを見ていてハッとした。
テレビの報道番組やトーク番組などの背景である。
生活の雑多な物が棚に雑然と置かれている。または窓の障子から外の
日本庭園が垣間見えていたりする。まるで見ている側の生活空間とひと続きのように背景装飾されていることに気付いた。
視聴者が同じ空間に馴染む工夫なのである。
欧米の番組にはまずこのような背景を見ることはない。
スタジオと視聴者の立場の違いをはっきりとさせている。
ここにも日本独特の主客一体化を見ることができるのである。
主体をどこに置くかでこれほど受け取る印象が変わるのだ。
主体が遠近法的にみているか、トポロジー的に見ているか
この違いがエコロジー意識の違いに表れている。
欧米諸国はいち早くエコロジー意識を持ち、エコビジネスを成長させた。
これに対して先進国でありながら、わが日本はなかなか本格的な市場に
育たないのはなぜなのかと考えてみると、日本人はエコロジー・地球環境というものを遠近法的に見ることをしないからではないか。
人間も大自然の一部であり、対峙するという感覚を持ち合わせていないのではないか。
西欧では自分の考え、視点をはっきりと持って、自然環境をどうすべきか
判断して生活用品を購入する人が多くなり、エコロジー商品が巨大な市場に育っていった。
一方、わが日本では、確固たる自分の視点はなく、他人の視点や世間様の
価値観を見計らって物事の価値判断をする傾向が強く、買い物も売れているものを競争で買い、並んでいる人気のラーメン屋さんに好んで行く。
「みんなで渡れば怖くない」という言葉が日本人の行動様式をよく表しているようだ。
日本絵画スタイルと同じでトポロジカルな相対的価値観で生きている。
相対的な価値観は、人との違いを嫌い、目立つことを嫌い、平穏を望む。
販売サイドも相対的で、市場の趨勢を見て品揃えする。
これはいいと分かっていても、難しい説明の要るエコロジー商品を
敬遠しがちで、定番として当たり前にお店に並べようとはしない。
1993年からかれこれ30年近くオーガニックコットンの普及活動をしてきて
広がりの遅さに焦れてきたが、このところ「個の確立した意識の高い
消費者」が増えてきて、オーガニック市場は順調な成長を続けている。
オーガニックという言葉の響き、イメージはかなり良いもののようで、
最近色々な場面でオーガニックという表現を見掛けるようになった。
「オーガニックマインド・心が軽くなる人生のサプリ」とかマンションの
広告には「オーガニック&シンプルライフ」とあり、
「オーガニックカラー」、「オーガニックサウンド」、
「オーガニックな香り」、「オーガニックテイスト」、
「オーガニックタッチ」等々知的で最上級の形容詞になっている。
もっともっと普段の生活感に馴染んで、オーガニックが当たり前という
普及段階が来ると、みんなが買ってるから自分もというトポロジカルな
日本的な消費市場は急速に拡大するのだろう。
兆しは、あちこちに現れてきつつある。
オーガニックコットンの普及に長年係わってきた者として、
ズッシリと重かった扉がやっと少しずつでも開いてゆくのを
見るのは嬉しいことだ。