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匂いが感情をかき乱す

 大寒の朝、起き抜けの洗面所は底冷えしていて、
手を洗うと指先が凍るようだ。
棚に並んでいる幾つもの化粧瓶の中のハワイ旅行で買った
トロピカルなラベルの香水に目が止まった。
遊び心が湧いてシュッとひと吹き撒いてみた。
 
 それは、決して高貴な香りなどではなく、
花花花のまぜこぜの安っぽい香りだが、底抜けに明るい。
もうここは常夏のハワイになった。
匂いが寒さに勝ったのである。
 
 臭いが記憶を呼び覚ます現象はフランスの小説の中で扱われたことから
作家の名前を拝借してプルースト効果と呼ぶ。

嗅覚は五感の中でも飛び抜けて感度がよく
脳の記憶や感情を司る海馬や扁桃体に直結している。

太古の人間にとって夜の闇で頼りになるのは鼻と耳で、
確かに察知できないと獣に襲われ生き残れなかった。
現代人は鼻がよく利く人種の末裔に違いない。
嗅細胞は1000万個もあるという。

 コロナ感染第3波、強毒アルファー株に感染したときのことだ。
発熱して二日後に嗅覚が無くなった。
その理由はいくつかあって定かではないが、気に入っているのは
ウイルスが脳に侵入しないように、鼻の粘膜細胞もろとも溶かして
防御してくれたというもの。
これを知ったとき自分の身体に「グッドジョブ!」と指を立てて褒めた。

 それから1ヶ月くらい全く臭いのない生活を余儀なくされた。
食べ物のうまい、まずいが分からないなんて些細なことで、
恐ろしかったのは、まるで世間がガラスの向こうにあって
生々しい感覚も匂いの記憶もまっさらになったことだ。
 
 酒席で聴いた話を思い出す。
彼女から辛い別れ話をされたときに香っていたのは、
艶めかしい「タブー」で、男として奮い立つ場面ではないので
残酷さが増幅したよと寂しげに笑いながら言った。
「あの香水はタブーだなあ」

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