映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」と現代のコミュニケーション
先週土曜日の夜、映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観た。
この作品は、1969年に行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会のドキュメンタリーである。作品の感想とともに、そこから現代のコミュニケーションに感じていることを記述する。
この討論の内容は、このリンク先で読めます。
おことわり:記事を書いた私は、三島由紀夫、東大全共闘、両者に関する知識が全くといっていいほどありません。
感想の要約
「とても頭がいい人どうしが手加減なしで討論するとどうなるのか?」それが分かるドキュメンタリーだ。
コミュニケーションに興味がある方に、おすすめの作品である。
もうとにかく、すげーのなんのって。高次元のコミュニケーションにぶったまげた。
映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」の重要な要素
以下の3点に分けて記述する。
1. 高次元のコミュニケーション
2. 当時の全共闘を伝えたメディアの状況
3. 「言葉が力を持っていた最後の時代」
1. 高次元のコミュニケーション
某深夜の討論番組でたまにみる、ギャースカギャースカ言い合いになっている討論とは次元が違う討論だった。
討論で交わされる発言は、哲学的であり、非常に難解である。
討論者が発する言葉は、(一般人のつもりである)私には意味が分かる部分が少なく、10%〜20%程度しか分からなかった。(全く意味が分からない発言も少なくなかった…。)
ただ、映画には、著名人による、その発言の解説が入る。なので、一般人の私も「あー…。なるほど…、そういうこと話してたんスね…。」(笑)のような状態になり、後付けで理解してついていけるように配慮されていた。
スクリーンの中で、三島由紀夫と東大生全共闘は、討論というコミュニケーションをしていた。そしてそれは、高次元のコミュニケーションだった。
その具体例を上記のリンクの記事から引用する。
全共闘A
「人間というものが他人を切り離して存在しうるか。これは存在し得ないわけですね。三島さんにお聞きしたいのは、人間にとって他人というのはどういうものであるのか」
三島
「対立というものが他者というもののイリュージョンを作っていかざるを得ない。それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたんです。これは主体性ある他者というふうに考えているわけです。」
このようなやり取りが、とても面白いと感じた。
この高次元のコミュニケーションから、一般人でもコミュニケーションに生かせると感じたことがあった。以下の3点にまとめる。
・東大全共闘の、切れ味鋭い話の切り返し
・三島由紀夫のユーモア溢れる語り口
・(討論であっても)相手の話をきちんと聞き、真摯に回答する。相手をリスペクトするコミュニケーション(この態度を、内田樹さんは「三島由紀夫は1000人の学生を本気で説得しようとしていた。」と話していた。)
2. 当時の全共闘を伝えたメディアの状況
当時、テレビが東欧各国の共産主義革命を伝えていた。このことが、当時の学生が「日本でも本当に革命が起きるかもしれない」と、リアルに感じていた背景にあった。(映画の中では、東大全共闘の木村修さんの言葉として表現されていた。)
3. 「言葉が力を持っていた最後の時代」
映画の中で、東大全共闘の芥正彦さんが当時を回想しながら語る言葉である。
(芥正彦さんは討論会に娘さん(赤ちゃん)を連れてきている。娘さんをマイクに近づける場面がある。この言葉を聞いたとき、その場面を思い出した。)
かつては、言葉が力を持っていた。
映画は、最後に(現存する)討論の舞台となった東京大学教養学部900番教室を映し、現代の社会に生きる我々が「言葉を大切にし、(言語化する必要性に迫られるほど)思考しているのか」と問いかけて終わる。
現代のコミュニケーション
上記したように、映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」では、「現代は言葉は力を持たなくなったのではないか」との問いかけがなされていた。
私は、現代のコミュニケーションで「(他のOUTPUTの方法の台頭により)言葉は(相対的には以前ほどは)力を持たなくなった。」「しかし、言葉は完全に力を失ったわけではない。」と考えている。
私が以前から感じていることは以下のとおりである。
コミュニケーションを、「INPUTの方法」と「OUTPUTの方法」に分けて考えると、以下のように分けられる。
コミュニケーションのINPUTの方法
・聞く
・読む
・見る
コミュニケーションのOUTPUTの方法
・話す
・書く
・可視化する(具体例:絵・写真・動画で表現する。)
映画では「討論」であった部分を、ここでは「会話」に置き換えて考えてみたい。
「会話」の、INPUTの方法は「聞く」、OUTPUTの方法は「話す」である。
「可視化する」スキルが優勢になった背景
現代は、「聞く」「話す」以外のコミュニケーションの方法が優勢な時代になった。それは、スマートフォンなどのコミュニケーションツールが発達したためである。
前述したように、映画の中では、テレビの影響が描かれていた。その時代、一般の人々はメディアから情報を受け取ることしかできなかった。
しかし現代では、SNSを通じて、一般の人々はメディアに情報を送り出すこともできるようになった。
現代における一般の人々のコミュニケーションは、双方向に進化した。これがいわゆるWeb2.0以降の変化である。
2010年代、常に持ち運んで使用する情報端末が、携帯電話(いわゆるガラケー)からスマートフォンに移行した。
その結果、「読む」「見る」「書く」「可視化する」これらの表現として扱える情報量は、以前より格段に上がった。
「百聞は一見に如かず」という。人間は最も多くの情報を視覚から得るという。
いうまでもなく、視覚は「見る」「可視化する」に対応する。このうち、送り出す(OUTPUT)する方法は「可視化する」である。
つまり現代は、情報を送り出す側は「可視化する」スキルが最も重要な時代になっている。
この「可視化する」表現方法のほうが「話す」よりも、スマートフォンとの親和性が高いのである。
これを補強する事実として、スマートフォンが普及して以降も、スマートフォンが「フォン」(=電話)の用途で、使用される時間は減り続けている。
このような時代背景から、「見た目重視の風潮」も生まれたのではないかと思っている。
それでも「言葉は力を持っている」
各評価を見ると、映画は概ね好評のようだ。
このような、たぎる想いをぶつけ合う討論のドキュメンタリーが好評を博している。この討論から、心からの感動を覚えた人も多いようだ。
だから私は、相対的には以前ほどの力を持たなくなったとはいえ、言葉はまだまだ力を持っているのだと思う。
三島由紀夫と東大全共闘が日本の行く道について、討論というコミュニケーションをしてから50年、実に半世紀が経った。
私たちは、言葉以外でも頻繁にコミュニケーションを取る社会を生きている。
今日のテーマに合う曲の紹介
本日は、現代を表す曲として、Have a Nice Day! の「僕らの時代」をご紹介します。
このPVは、有志の方から募った映像で作成されたそうです。
とても良い曲だと思いますので、ぜひ聴いてみてください。
全歌詞へのリンク
http://j-lyric.net/artist/a060a07/l04e2a8.html
じゃあ、また。
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