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短編小説『追憶の秋』

私を育ててくれたのは、狐の大妖怪でした。

・総字数約30000文字。40〜45分程度で読めます。
・狐の妖怪に育てられた女の子の話です。


 りんと鈴の音が鳴った。終わりの見えない鳥居の列に、陽光が優しく射し込んでいる。秋の太陽に染められた鳥居の下を、真っ赤な着物を纏った一人の少女が駆けていった。

「楓、待ちなさい」

 りん、りん、と涼やかな音を立てて、紺色の着物を着た男が足早に少女を追いかけた。楓と呼ばれた少女は足を止めて振り返り、ぷっくりとしたほっぺたを赤く染めて笑い、あどけない声で男を呼んだ。

「パパ、はやく!」

 父親はその姿を愛しそうに眺め、早足で駆け寄ったかと思うと、「つかまえた」と言って少女をひょいと抱き上げた。少女の手首からぶら下がる千歳飴の袋が、乾いた音を立てて宙を踊った。

「パパ、ぎゅうってして」

 少女はくりくりした目をさらに丸くし、父親を見下ろして甘えた声を出した。父親は少女の望み通り、ゆっくりと腕を下ろしてそのまま彼女を抱きすくめた。彼の着物の内側から香る沈香が、少女の全身を優しく包み込んだ。

「かえで、このにおいすき」
「そうかい。じゃあこうしてやろう」

 父親はそう言うが早いか、さらに力を込めて少女を抱きしめた。少女はそれがなんだかおかしくて、きゃはははと笑い、両手を父親の頭にぴんと伸ばした。鼻から上を狐面で覆っている彼の頭には、毛並みの良い黄金色の大きい狐耳が生えている。その立派な耳は、少女の小さな手に触れられ、ぷるぷると小刻みに震えた。

 秋の鳥居の下で、親子はいつまでも笑いながら抱き合っていた。少女は父親の低く優しい声と上品な香りに包まれ、悲哀や不幸など知らぬ顔をして笑った。

 この秋の日が、少女の中に残る、最も幸せな記憶の一つだった。


 チチチ、と小鳥のさえずる声で楓は目を覚ました。視界には見慣れた天井が映っている。欄干から射し込む白い朝日が、天井の木目をくっきりと照らしていた。

 楓はごそごそと音を立てて布団の中でうつ伏せになり、枕元に置いた時計で時間を確認したあと、ゆっくり起き上がって障子を開けた。縁側越しに見える庭で、二羽の白い小鳥が何やら楽しそうにチッチッと声を上げている。楓はそれを見てまだ寝ぼけている頭を覚まし、障子を閉めて朝の支度を始めた。

 居間に行くまでの廊下で、尻尾だけが生えた白い毛玉のようなものが三つほど並んでもぞもぞやっていた。

「おはよう、もふもふ」

 楓が声をかけると、毛玉たちは一斉に振り返り、全身の毛をふわふわさせて細い声で鳴いた。

「むすめ」
「たまき、の、むすめ」

 何の生き物かはわからないが人語を話し、何より見た目がかわいいので、楓はこの毛玉が小さい頃から好きだった。いくら自分の名前を告げても頑なに「環の娘」と呼ぶので、名前を呼んでもらうのはとうに諦めていた。一度、彼らの名前を父に尋ねたことがあったが、「考えたこともなかった」と言われてしまったので、結局「もふもふ」と見たままを呼んでいるのだった。

 居間に行くと、食卓に二人分の朝食が用意してあり、その向こうで縁側に座っている父の背中が見えた。今日は藍色の着物を着ている。豊満な尻尾を左右にゆっくり動かすたびに、腰元につけている赤と金の飾りがしゃらんと音を立てて揺れた。この妖怪が毎日食事を作って自分を待っている朝の風景は、すっかり楓の日常になっていた。

 楓がそっと近寄り、「お父さん」と声をかけると、呼ばれるのを待っていたかのように環はゆっくりと振り向いた。

「おはよう楓。よく眠れたかい」
「おはよう。なんか、懐かしい夢見た気がする」
「ほう、どんな?」

 食卓につきながら環は尋ねたが、楓は大半の記憶を夢の中に置き去りにしていた。

「うーん、七五三? の夢だったと思うんだけど……忘れちゃった」
「七五三か。ついこの前のように思えるな」

 何とはなしに放たれた環の言葉に、楓は栗ごはんを頬張りながらえぇっと声を上げた。

「ついこの前って、もう何年前だと……」

 そう言いながら楓は茶碗を置いた手で年数を数え、「十三年前だよ」と言って湯飲みを掴み、お茶をごくりと飲み干した。

「十年や二十年なんて、私には一瞬で過ぎてしまうよ」

 そう言った環の唇は柔らかい弧を描いていたが、声色の端々に沈んだような調子が薄く混ぜられていた。楓は、父親の素顔をついぞ見たことがない。まだ幼かった自分をあやすときも、寝るときも、彼は必ず狐の半面をつけていた。そのおかげで彼の顔を見なくとも、声の調子や口元でなんとなく何を考えているのか予想できるようになってしまった。

 環は、もう千年近くも生きているという。そう聞いたのは楓が小学校に上がった頃だったが、気の遠くなるような年月を生きている彼の人生を想像することは、彼女にはできなかった。うちのお父さんは千年も生きてるんだよと友達に自慢して嘘つき呼ばわりされてからは、楓は人間の友達に環について話すことを控えていた。

「お父さ……」

 何か悲しませるようなことを言ってしまったかと、黙って魚に醤油をかけている環に楓が声をかけようとした瞬間、外からカアという大きな鴉の声が聞こえた。

「環、いるか」

 真っ黒な羽をバサバサと散らしながら庭に降り立った鴉は、楓が乗れそうなほどの大きさがあった。楓が慣れた様子で、舞い散る黒い羽越しに「おじさん!」と声を上げて手を振ると、「おう、楓」と鴉も片翼を上げて返した。

 彼はそのまま縁側からひょいっと跳んで居間に入り、のしのしと食卓まで歩いてきて二人の朝食を覗き込んだ。

「栗と米に焼き魚か。朝からいいもん食ってんなァ」
「何の用だ、影郎」

 楓から栗を一粒もらって満悦気味な影郎に、面白くなさそうな声で環が尋ねた。影郎は器用に栗を飲み込み、随分甘いなこの栗は、と呑気に感想を述べた。

「別に、朝の挨拶だよ。おう楓、もう学校の時間なんじゃねェのか」

 そう言われた楓は、時計を見た途端、残りの栗ごはんをすべてかっ込んだ。

「今日一限あるんだった! ありがとうおじさん! ごちそうさまお父さん!」
「慌てるなよ、落ち着いて準備しなさい」

 環の声に、準備をしながらはーいと返事をする楓の声が廊下の向こうに消えていった。

 静まり返った居間の中で、環が箸を置いて静かに影郎に目を移した。狐面の奥から覗く鋭い眼光が、黒い羽に埋もれた影郎の目を射貫いている。平和な朝の風景に似つかわしくない妖気をこぼす環に、影郎はおお怖いと大袈裟に体をふくらませて見せた。

「愛しい娘との朝食を邪魔されてご立腹か? そんな怖い顔すんなよ。お前も聞いてるだろ、山の声を」
「……ああ」

 影郎は悪びれた様子もなく、食卓の上に置いてある木の実を勝手に一つ取って食べた。

「大きくなったなァ、あの娘も。今年でいくつだ?」
「もうすぐ二十歳だ」
「人間としては成人だな。あんなに小さかったのに、もうお別れとはねェ」

 その言葉を聞いて、環がまた激しい剣幕を見せた。影郎は臆することはなかったが、もう茶化すこともしなかった。環は自分に言い聞かせるように、目線を落として呟いた。

「まだ決まったわけではない。あの子次第だ」

 そのとき、ぱたぱたと廊下から足音がして、薄手のコートを着た楓が荷物を持って小走りで駆けてきた。

「おじさん、朔は?」
「まだ家で寝てるよ」

 そっか、会いたかったのに残念、と楓は眉をハの字に曲げたが、すぐに気を取り直して環の方を向いた。

「行ってきます、お父さん」

 環は先ほどまでの不穏な空気を一瞬で消し、わざわざ食卓から立ち上がって、にこやかな笑みで愛娘を見送った。

「行ってらっしゃい、楓」

 父親に見送られた娘は満足そうに一度振り返り、玄関から門まで続く長い長い鳥居の下を足取り軽やかに走って行った。


 二十年前、とある神社の目の前で、二台の車が正面衝突する事故があった。元来、この神社は神主も祀るべき神もとうに去った、荒れ果てた廃神社であった。特殊な妖術がかけられており、現在も人間の目には廃神社としか映らない。前を通る道は曲がりくねっていて大変見通しが悪く、神社から道路に突き出た無数の竹も視界を塞ぐ一因となっている。しかしこの道は地元民でもほとんど誰も通ることはなく、車の通りも限りなくゼロに近かった。それ故に、誰もこの道が孕む危険を咎めず、忘れられた田舎道として、人間の手を離れていたのだった。何の因果か、その道にたまたま二台の車が同時に通り、果ては死人まで出てしまったのである。

 衝突事故によりどちらの車の乗員も全員がほぼ即死だったが、片方の車に乗っていた一人の赤ん坊だけが母親の腕に守られ、奇跡的に無傷だった。もくもくと黒煙が立ち上る凄惨な事故現場に、赤ん坊の激しい鳴き声だけが秋のよく晴れた空に吸い込まれていく。人家すら近くにないために、誰も赤ん坊の泣き声に気づきはしなかった。

 ところが、ふいに廃神社の社殿の戸が開き、中から狐の半面をつけた男がぬっと姿を現した。彼こそがこの辺りの山で最も強大な力を持つ狐の大妖怪、環だった。彼は眼前の惨たらしい有様を見たかと思うと、地に降りてゆっくり近づいて行った。歩くたびに、りん、りん、という透き通った鈴の音がした。

 環は黒煙をものともせず、無残な姿となった車の残骸から泣き声を頼りに赤ん坊を探し当て、ゆっくりと抱き上げた。大声で泣き叫んでいた赤ん坊は自分を抱いている男を見ると次第に泣き止み、真っ黒のくりっとした目で不思議そうに彼を見つめた。

「……かわいそうに。俺の子になるがいい」

 哀れみとも同情とも言えないような声色で、環はそっと赤ん坊を胸元に抱きかかえた。

 この赤ん坊が、楓だった。


 山からバスと電車を乗り継ぎ、またさらにバスに乗った先に楓の通う大学はある。本棟の四階以上の教室からはちょうど遠くに実家である山が見えるので、授業中に山を見てぼうっとするのが楓は好きだった。

「ねぇ楓ってさ、あの山に住んでるってほんと?」

 一限目が終わり、教科書やらノートやらを鞄にしまっていると、隣の席に座っていた英子が声をかけた。後ろの席の翔太も、興味があるのか二人に注目していた。楓は二人と入学式で意気投合して以来、ほぼ毎日のように共に行動をしていた。

「な、何? 急に」

 明確な答えを出す前に質問を質問で返した楓に、英子が無邪気に畳みかけた。

「えー、だって噂になってるよ。あの山って妖怪が出るって言うじゃない? もしそこに住んでて妖怪見たこととかあるんだったら話聞きたいって思って」

 英子は子どものように目をきらきらさせて楓に迫った。小学生のときに嘘つき呼ばわりされてから、楓は自分があの山の神社に住んでいることや妖怪と暮らしていることを誰にも話したことがなかった。しかし、気心の知れた仲間であること、何より彼女が妖怪に好意的なことを見てとり、しばらく考えたのちにゆっくりと口を開いた。

「じゃあ、昼休みに話すよ。それまで待ってて」

 えーやっぱり本当なの? と、英子は輪をかけて興奮しているようだったが、二人の様子を後ろから窺っていた翔太は無表情で楓をじっと見つめていた、それが、楓の心に少しの不安を植え付けた。

 せっかくだからあの山が見えるところで食べようよという英子の提案で、三人は食堂二階のテラス席にめいめいの購入した昼食を運んだ。翔太のカレーうどんから立ち上る湯気が、木枯らしを受けて真横になびいている。

 楓は、誰にも口外しないという条件付きで、二人に自分の生い立ちを話した。小さい頃のことだから覚えていないが、両親はあの山の神社の前で交通事故に遭って亡くなったこと、その神社に住んでいる狐の妖怪が自分を育ててくれたこと、今も山の妖怪たちに見守られながら、彼と一緒に住んでいること。英子は興味津々に楓の話を聞き、「羨ましい!」と感嘆の声を上げた。

「そんなこと本当にあるんだ! いいなあ、わたしも妖怪に育てられてみたかったー」

 英子はそこまで言うとはっと口を噤み、ごめん、ちょっと不謹慎だよね、と両親を亡くした楓の様子を窺いつつ謝った。

「いいよ、全然覚えてないから実感もないし、わたしのお父さんは今のお父さんだけだし」

 本当に優しくしてくれるんだ、と幸せそうに話す楓の顔を、英子はよかったねぇと笑顔で見つめた。その横で、ずっと黙っている翔太が眉間に皺を寄せていた。


 満月がひんやり白い光を放っている。山の方面に向かうバスの中で、楓と翔太は一番後ろの座席に座り、お互い黙って窓の外を見つめていた。夕方の授業が思った以上に長引いてしまい、楓が大学を出る頃には、夜闇がとっぷりと大気を覆っていた。たまたま一緒の授業を取っていた翔太が、もう遅いから家の近くまで送ると言ってくれたのだった。楓は彼の申し出をありがたく受け取ったが、今日一日の彼の妙な様子の答えを得られるかもしれぬと期待していないわけでもなかった。しかしバスに乗ってから彼は黙りこくったままで、楓はついに痺れを切らして単刀直入に切り出した。

「翔太、今日なんか機嫌悪くない? どうしたの?」

 翔太はそれを聞き、ようやく楓の方を向いたかと思うと、眉間に皺を寄せたまま間を置いて、少し躊躇うように口を開いた。

「お前の家のことだけどさ」

 その瞬間、ガタンとバスの車体が大きく揺れた。舗装されていない田舎道の感触を直に感じられるような走り心地だが、バスはものともせずに速度を落とさず進んでいく。楓と翔太はお互いとっさに前の座席の背もたれを掴み、顔を見合わせた。そうしているうちにまたバスが大きく揺れた。

「降りたら言うよ。家、あとどのくらい?」

 翔太に問われ、楓は車内の電光掲示板を見た。

「あ、次だ。次で降りるよ」

 バスを降りた瞬間、夜に冷やされた草と土の香りが、二人の体を通り抜けていった。時刻は既に八時半を回っている。外灯は数十メートルおきにしか設置されておらず、光の届かない道端では闇が泥のように溜まっていた。両脇の茂みからは、何匹いるのだかわからないほどの虫の声が聞こえてくる。人気はない。自然が夜を支配している。夜気に混ざる枯れ草の匂いが、季節が走り抜けていくことを告げていた。少し前まであった夏の残り香は、いつの間にか姿を消してしまっていた。

 楓はとことこ歩きながら、少し後ろを歩く翔太を振り返った。

「帰りのバス、大丈夫? 町の方に戻るやつ、まだあったかわからないけど」
「さっき時刻表見たら九時に最終が出るって。それに乗って帰るよ」

 そっか、と返すと、再び沈黙が訪れた。楓は少しじれったそうに、「で、わたしの家が何だって?」と足を止めて翔太に尋ねた。翔太は何か言い淀んだあと、少し困ったような様子でようやく本題に触れた。

「いや、お前、妖怪に育てられてるってさ、危ないんじゃねえの」

 翔太の口から出た言葉は、まったく楓の想定外だった。彼女はそんなことを、一度も考えたことがなかった。

「何それ、どういうこと」
「妖怪ってさ、たいてい人間の味方じゃねぇじゃん。お前の父さんは優しい奴みたいだけど、こんなとこにいたら、いつ何が起こるかわからない」

 翔太は人気の少ない田舎道と、大きな夜の影のようになっている山裾を見渡してそう言った。

「なんで翔太にそんなこと言われなきゃなんないのよ」

 楓がむっとして言い返した。翔太は困ったように眉をハの字にしている。

「お前のこと心配して言ってるだけだよ。それともずっとここで暮らしていくつもりなのか? 大人になっても?」
「それは……」

 楓が言葉に詰まって思わず下を向いた瞬間、彼女の立っている周りだけが真っ黒い海になったように、月の柔い光を飲み込んだ。巨大な影だった。その影はみるみるうちにもぞもぞと大気に立ち上り、楓をひょいとさらって夜空を泳ぐようにして飛んでいった。飛び立つ瞬間、りんという鈴の音がした。

「お父さん!」
「遅かったな、楓」

 環の声で喋った影はいつの間にか巨大な狐の形になっており、楓はその背に乗る姿勢になっていた。

 楓がふと振り返って地面を見下ろすと、翔太が呆気にとられてこちらを見ているのが見えた。

「ごめん翔太! また明日!」

 楓が大声で叫ぶと、環の耳がぴくりと動き、ドスのきいた低い声が影から発せられた。

「あれは誰だ? 何かされたのか?」
「え、ううん、友達だよ。遅いから送ってくれたの」
「ふうん、そうか。何か気にくわない人間がいればいつでも言うんだぞ。私がいつでも消してやるから」

 今夜食べたいものがあれば気軽に言うんだぞ、というような日常を切り取った口調の環に、楓は「大丈夫だってば」と慣れた様子であしらうように返した。

 楓を乗せて走る環は影のように真っ黒だが、背を触ってみるとふかふかで、楓は前方に倒れ込んで思う存分柔らかさを味わった。ほのかに沈香が香り、ああ、お父さんだ、と安心して目を閉じた。

 翔太の真剣な目と声が、楓の頭の中にこだまする。これだから、誰かに言うのは嫌だったのに。そう思って楓はまた心を山と妖怪の日常に戻そうとしていたが、どうしても胸に違和感がつっかえて仕方なかった。ずっとここで父と暮らしていたいという自分の願いは、おそらく叶わないのだろうとわかっていたし、何よりも、二人の寿命の差が、この先に悲哀を運んでくるのだろうという言いようのない予感が、数年前から楓の心を少しずつ浸食し始めていた。

 ひゅうと風を切って飛ぶように空中を走る環を、秋の白い満月が照らしている。人気が全くない夜の山々にじっと目を懲らすと、あちらこちらで赤く光る獣の瞳が見え、妖怪たちの小さな声が無数に聞こえた。父親の背の温もりに包まれた楓は、そのまま夜の闇の中に消えていった。


 ある日の昼下がり、楓は山を少し登ったところにある丘の上の草原に腰を下ろしていた。肩には影郎の息子である朔が留まっている。一般的な鴉と変わらない大きさだが、彼も立派な妖怪である。朔は楓の手から南天の実を一粒ずつ取り、美味しそうに食んでいた。

「それ、いつも食べてるけどおいしいの?」

 楓が尋ねると、朔は今食べている一粒をごくりと飲み込み、くちばしと小さな舌で器用に人語を操った

「おいしいよ。でも人間が食べたらまずいんじゃないかな」

 楓がふーんと返すと、朔はまた彼女の手から南天をついばんだ。楓はぼうっとしながら、遙か彼方の山々を見つめた。遠くの方に青い影のようになって見えるのは、県境をまたいだ先にある山だという。こちらの山ではもう紅葉が始まっており、左右を見渡すと緑の中に赤や黄色が巨大な花のように点在していた。最も色が多くなるこの季節の山が、楓は好きだった。どこかで焚き火をやっているのか、葉が燃える秋の匂いがした。

 手のひらの南天がなくなったタイミングで、楓はふいに立ち上がって見晴らしの良い場所まで小走りで駆けていった。楓の肩に乗ったままの朔は、不思議そうに彼女を見ている。丘の端から見る景色は、どんな命も笑って包み込んでくれそうなほど雄大だった。秋の天は高く、広く、朝の湖のような淡い水色の空いっぱいに羊雲が並んでいる。目線を下に移すと、田んぼや人家が立ち並ぶ小さな町が見えた。遠くの方に大学の校舎の先っぽも見える。町と山の間にはがっしりとした巨大なハイウェイが一本通っており、あの道をずっと行くと東京に行けるのだと、英子が言っていたのを楓は思い出した。

「わたし、町で暮らした方がいいのかなあ」

 独り言のようにぽつりとこぼれた楓の言葉を聞いて、朔は目を見開いた。

「えっ、なんで。楓、ここ出て行っちゃうの?」
「いや、決まったわけじゃないけど……」

 楓の頭に数日前の険しい顔をした翔太がよぎり、大学や町に暮らす人々がよぎり、最後に、ここ最近の父の様子がよぎっていった。

「お父さん、なんか最近変なんだよね」

 何か知ってる? と朔に聞くも、彼も何も知らないようで、小さな頭を楓の方にこてんと傾げた。

「変って、どう変なの」
「なんか、元気ないっていうか、いつも通り優しいんだけど、距離を感じるっていうか」
「心当たりとかないの?」
「うーん……あ、この前、七五三の夢見たんだけど、それを話したときが特に元気なかったかな」

 楓は、つい先日環と交わした会話を朔に話した。朔は丸い瞳をぱちぱちさせて、困ったように口を開いた。

「環おじさん、寿命のこと気にしてるんじゃないの」
「え……」

 楓の心臓が、どきんと一瞬強く鳴った。心の中で認めてはいながらも、なるべく考えないようにしていたことが、首をもたげて自分を見ている気がした。親は子より早く死ぬのが命の順番だが、楓はどうしたって環より早く死ぬことが決まっている。環は、あと何百年も生きるのだ。

「そっか、そうなのかな……」

 楓が力なく呟いたのと同時に、木々の間から小さな妖怪たちがわらわらと丘に向かって駆けてきた。住処を移動している最中らしかった。そのうちの黒い兎のような形をした妖怪が、佇んでいる楓を見つけて大きな声で彼女を呼んだ。

「あ、環のとこの人間! おーい」

 楓と朔は驚いて振り返った。黒兎の妖怪はただ楓を呼びたかっただけらしく、楓と目が合ってからは楽しそうに手を振っているだけだった。そのうしろを通りすがった白い猿のような妖怪たちが、兎の妖怪を咎めた。

「おい、これ以上山に居座られたらどうするんだよ。さっさと出て行ってほしいのに」
「出て行けとか言うのやめろよ、あの大妖怪に目付けられたらどうするんだ」
「勝手に人間なんか連れ込んで……」

 妖怪たちがガチャガチャと騒ぐ声は、風に乗って楓の耳にもしっかり届いていた。やがて彼らはああでもないこうでもないと小声で揉めながら、木々の間に姿を消してしまった。少し寂しそうな目で彼らを見送る楓を見て、朔はチッと小さく舌打ちをした。

「楓、あんなの気にすることないよ。彼らは小物で力がないから、ああやって陰で好き放題言うことしかできないんだ」
「……うん、ありがとう」

 楓は、妖怪たちが去って行った方角を見つめ、これまで自分を育んでくれた山々を仰いだあと、朔の方を向いた。

「でももう、わたしはここにいちゃいけないんだと思うよ」

 楓のまっすぐな目を見た朔は首を胴にうずめ、悲しそうな声を出した。

「環とは、ずっと一緒にいればいいじゃないか。彼は強いから、それこそ楓が死ぬまで守ってくれるよ」

 楓は、うん、と上の空で返事をした。父と同じように、自分も寿命の違いを恐れているのだと、正面から認めざるを得なかった。

 きっと、いつか忘れられてしまう。もし仮に、本当に自分が死ぬまで環と一緒にいたとして、自分が死んだあとも環は生きていく。自分の寿命はせいぜいあと数十年だ。彼はその後も数百年生きていく中で、自分の記憶が薄れない保証がどこにあろうか。こんなに大切にしてくれるのに、いつか彼の記憶から自分が消えてしまうのが怖かった。一緒にいればいるほど、彼への愛情が深まれば深まるほど、その恐怖も大きくなる気がした。それに何より、彼を置いて逝ってしまうことがひどく恐ろしい罪のように思えた。それなら、いっそのことさっさと別れてしまった方がいいのではないかとさえ思った。

 ふいに、楓の肩の上で朔がぶるっと身を震わせた。

「楓、何か」

 来るよ、と彼が言い終わる前に、楓にもわかるほど大気にピリッとした緊張が走った。恐ろしいほど濃い神気があたりに漂っている。楓が山の方を見ると、何か巨大な影が木々の奥で蠢くのが見え、やがて見えなくなってしまった。しばらく固まったまま警戒し、何も怒らないことを確かめ、何だったんだろうと肩の力を抜くと、背後から声をかけられた。

「お前か、あの狐が拾ってきた人間というのは」

 楓が慌てて距離を取って振り向くと、そこには白い面を付けて羽衣のような薄い布を纏った妖怪が二体立っていた。背丈は楓と同じくらいで、そのうちの一体が詰め寄るように話しかけてくる。

「本来、この山に人間がいるというだけで、神気が乱れるのだ」

 楓の肩の上でずっと呆気にとられていた朔は、我に返ってこっそり楓に耳打ちした。

「こいつら、山神の眷属だよ。たぶん、さっきの大きい影みたいなやつが山神だったんだ……」

 この山に来てから、環や影郎や朔、それと小さな妖怪たちとしか関わってこなかった楓は、山神の眷属を前にして動けなくなっていた。恐怖とはまた違う、体の最深部から急激に大量の泡が湧き起こってくるような、今までに感じたことのない居心地の悪さだった。彼らは纏う神気が違う。環も相当な妖気を常に放っているが、それとはまた別の種類の、人間が関わってはいけない類のものなのだと、楓は本能で感じていた。

「まだ幼いと聞いていたから大目に見てやっていたが、もう成長しきっているではないか」

 眷属は続けた。片割れの方は、何やら錫杖のようなものを持って黙っている。丘一帯には先ほど山神が発した神気がまだ残っており、だんだん他の妖怪たちも何事かと集まってきた。

「出て行け。さもなくばここで消してやる」

 楓に詰め寄った眷属がそう言うと、彼の手の周りが奇妙に歪み始めた。生まれて初めて、自分に対する明確な殺意を感じた楓は、指一本たりとも動かすことができなかった。本能は今すぐ逃げろと警報を鳴らしているのに、体が動かない。朔が楓の名前を呼び続けているようだったが、ほとんど耳に入ってこない。体の中で生まれた得体の知れない泡は今や、次々に恐怖で弾けて割れていた。

 そのとき、ドオンと雷鳴がつんざくような音がして、地面に激しい振動が走った。目の前を真っ白な光が覆い、楓は思わず目を瞑った。草が焼けるような臭いを感じて恐る恐る目を開けてみると、目の前にいたはずの眷属が跡形もなくなっており、彼の立っていた部分の草が少し焼けていた。そこから幾筋もの煙が立ち上り、燻ったような臭いを発している。よく目を凝らして見ると、眷属の足跡が少しだけ黒く焼き付いていた。

 何が起こったのかわからないままでいると、楓の背後から環がぬっと現れた。

「俺の娘に何をしている」

 今まで聞いたことのない低い声で、環は残ったもう一体の眷属を狐面越しに睨み付けた。怒気で彼の周りの空気が痛いほどに尖っている。これほどまでに怒った環を、朔も、楓も、見たことがなかった。

「山神の眷属を殺すとは、何と罰当たりな」

 今まで黙って立っていたもう一体の眷属が、静かに声を出した。環は全く臆さなかった。

「山の守護をかけられているこの子を勝手に殺そうとしたのはそちらだ。文句があるか」

 再びパチパチと音を立てて妖気を滾らせた環に、「お父さん!」と慌てて楓が抱きついて止めに入った。環はびくともせず、ただ目の前の眷属だけを冷たい炎のような剣幕で見つめている。

「我らは、その娘が憎くて申しているのではない」

 眷属がゆっくりと話し始めた。環は少しも表情を変えなかったが、凄まじい妖気を一度引っ込め、楓も彼の言葉を注意深く聞いた。

「その娘の生い立ちには同情する。まだ何の力も持たぬ子供だったので目を瞑り、山の守護の力も分けてやったのだ。だが、もう立派な成体になっているではないか。その娘が何か悪意を持ってこの山に害をもたらすとは言わん。しかし、本来は人間が混ざっているというだけで、この山の神気に影響が出る。それだけでない、力の弱い小妖たちも、自らの住処が侵されないか不安なのだよ」

 いつの間にかわらわらと集まっていた妖怪たちは、眷属の言葉を聞いて複雑そうな目で楓と環を見つめた。その中には、先ほど楓に手を振ってくれた兎のような妖怪もいた。皆、申し訳なさそうな、しかし切実そうな顔をしている。楓はその数多の妖怪たちの声なき声を確かに聞いた。じんじんするような冷えた痛みが、心臓を駆け抜けていく。

「そちらの言い分はわかった。こちらもちゃんと考えて結論を出そう。だが、二度と楓に手を出してみろ。ただじゃ済まさない」

 環はそう言い放ったあと、「帰ろう」と楓に声をかけ、彼女の背中に手を回してゆっくり歩いて行った。広場には、彼らを見送る眷属と妖怪たちが残された。先ほどの環の攻撃により焦げた草から出る煙は、まだ少しだけ空に向かって立ち上っていた。

「怖かっただろう? すまないね、もっと早く来ていればよかった」

 丘を背にして歩く途中、いつもの穏やかな声で環が楓と朔に話しかけた。朔は環の本気の怒りを目の当たりにしてすっかり畏まっていたが、楓は少し心配そうに環を見つめ、「ううん、ありがとう」と言うので精一杯だった。

 楓は正直、眷属や妖怪たちよりも、環の方が怖いと思った。しかし、そう言ったらきっと彼は悲しむだろうとわかっていた。あんなに強大な力を持っているのに、ただの人間である自分の言葉一つで、元気をなくしてしまうこの大妖怪の姿がありありと目に浮かんだ。そして本当に怖いのは、妖怪たちに殺されることでも、父の圧倒的な力でもない。そんなものより、この狐の妖怪を自分のせいで悲しませてしまうことの方が、よっぽど恐ろしい気がした。


 その晩の丑三つ時、楓がすっかり眠った頃、環は影郎と神酒を飲み交わしていた。頭上には満月よりも少し欠けた下弦の月が浮かび、一匹と一羽をふんわり照らしている。月は環の手にするお猪口の酒の中にも、笑うようにゆらゆら揺らめいていた。

「聞いたぞお前、やったんだってな」

 影郎がさもおかしそうな顔で環を煽るように笑った。環はしれっとした顔でお猪口の酒をぐいっと喉に流し込んだ。

「大事な愛娘を殺されかけたんだ。あのくらいの罰は当然だろう」
「まァ、確かにあの眷属が勝手にやったことらしいからな。今回はお咎めなしだ」

 影郎は、そばに置いてあった青色のノブドウをひょいとついばみ、美味しそうに口の中でころころ転がしたあとごくりと飲み込んだ。木でできたテーブルの上には、緑や紫、青などの、色とりどりの宝石のようなノブドウが転がっている。環はそれをぼうっと見ていたが、実のところ全く別の景色を見ているようだった。狐面の奥で虚ろに光る彼の瞳が何を見ているのかは、影郎にもわからなかった。影郎が五つ目のノブドウをくちばしにくわえたとき、環がぽつりと話し始めた。

「やっぱり、人は人、妖怪は妖怪の世界で生きていくべきなのだろうな」

 影郎はノブドウを飲み込み、黙って彼の話を聞いていた。環は続けた。

「私があの子を拾ってきたことは、間違っていたのだろうか」

 環が珍しく殊勝なことを言うので、影郎は茶々の一つでも入れてやろうと思ったが、彼の表情を見てすぐにやめた。

「嬢ちゃんを見ていれば、そんな風には思わないがね」

 お前があのとき引き取っていなけりゃ、あの子はあそこで泣きながら死んでいたのかもしれないんだぜ。影郎はそう付け足した。環はお猪口に神酒を注ぎ、再び中に浮かび上がった月を見つめていた。

「私は、楓が幸せに生きてくれれば、それでいいんだ」
「でも本当はずっと一緒にいたいんだろ」

 すかさず影郎に本意を見抜かれ、図星の環は困ったような声を喉から絞り出して項垂れた。

「仕方ないんだ、私はあの子の何倍も長く生きるから。いずれにせよ別れは来る」
「まァ、子はいつか親から離れていくものだしな」
「ああ。だが、あの子が大人になるのがこんなに早いとは思わなかったよ」

 秋の虫たちの鳴き声が夜に溶けていく。影郎の食べるノブドウの芳醇な香りが、夜気に混ざって漂っていた。環は俯いたまま、酒に浮かぶ小さな月をじっと見つめている。まだ小さかった楓が月を見て喜んでいた記憶が思い起こされ、環の胸はいっぱいになった。

「あの子とずっと一緒にいて、あの子が死んでいくのを見るのも耐えられない。かといって、ここから出て行ってしまうのも、とてもつらいんだ」

 ぽつりと吐いた言葉は、酒の中に溶けていってしまうように弱々しかった。夜の静寂が、環の体を蝕むように迫った。

「大妖怪がざまァないな」

 そんな様子を横目で見つつ、月を仰いだ影郎の言葉に、環は何も返せなかった。


 丘の上の事があってから数週間後の晴れた日の朝、楓はある決意をして居間へ顔を出した。

「おはよう、お父さん」
「おはよう、楓。今日は早いんだな」

 環は、ちょうど朝食ができたぞと言いながら二人分の湯飲みに茶を注いでいた。いつもの朝の風景を見て楓は喉が詰まるような感覚に襲われたが、深呼吸を一度して、意を決したように環に告げた。

「お父さん、わたし、ここから出て行く。一人暮らしするよ」

 もう大学の近くに家も見つけたんだ。そこまで言って楓は環の反応を待ったが、彼は特に驚きもせず、微笑んでただ一言、

「そうか、寂しくなるな」

 そう言って、コポコポと音を立てて急須にお湯を足した。

「え」

 楓は何か約束が違ったように、反応の薄い父を凝視した。彼のことだから、もっと大袈裟に驚いて悲しんで、最悪の場合怒って「出て行くな」などと言うかもしれないと予想していたというのに、まるで今自分が立っている床に急に穴が開いて急降下していくような、そんな心許なさを覚えた。

 環はいつもと変わらぬ様子で朝食の準備をしている。縁側から覗く庭には今日も赤い紅葉がよく見える。南天の木の下では、よくわからない妖怪たちがわいわいやっている。いつも通りの朝の居間の中で、楓は自分だけが異質のような気がした。いつもと同じ風景が、知らない場所に見えた。

 もしかしたら、自分の存在は父の中であまり大きくないのかもしれない。そう考えた楓は、それ以上何も言えず、黙って環の作った朝食を食べた。あまり味がしなかった。


 次の日の朝、楓がいつもと同じように居間に行くと、環の姿はなかった。部屋の中は静まり返り、十一月の空気が肌寒い。机の上には作り置きの食事と一緒に一枚の書き置きがあり、楓はそっと手に取って読んだ。環の字だった。

『少し出かけてくる。食事は置いてあるから食べなさい』

 環がこうして楓を置いてどこかに行ってしまうことなど、今までに一度だってなかった。これがもし何でもない日だったなら、そんなこともあるのだろうと楓は呑気に構えていられたかもしれない。しかし、昨日あんな話をした翌日にこんなことが起きたとあれば、無関係とは思えない。楓は気が気でなかった。

 庭をいつものもふもふ達が通り過ぎていくのを見た楓は、慌てて縁側に出て彼らに環の行き先を尋ねた。

「ね、ねぇ! お父さんがどこに行ったか、知らない?」

 もふもふ達はきょとんとした様子で楓を見ると、彼らにしかわからない小声で何やらざわざわ話し始めた。そして、すぐに三匹とも楓の方に向き直り、いつもの高い声で質問に答えた。

「たまき、いま、いない」
「やまから、でていった」

 それを聞いて、楓は体の内側からひゅっと冷気が広がっていくのを感じた。山から出て行ったのなら、彼の行き先など全く予想できない。ありがとう、と彼らに礼を告げた楓は、柱に寄りかかって座り込み、力が抜けたように視線を庭の隅に放り出した。古ぼけた鉢植えに、赤い風車が何本か差してある。まだ楓が小さい頃、よく環がどこからか持ってきてあやしてくれたものだった。風車は秋風を受け、カラカラと乾いた音を立てて回っている。しんとした家の中に響くその音はいつもより大きく聞こえ、楓の耳にやけに残った。

 ずっと家にいても仕方ないし、山のどこかに出かけようかと思った楓は、先日の出来事を思い返して踏みとどまった。自分に良くない感情を向けている妖怪たちがいるのは知っているし、また文句を言われないとも限らない。何より環が山神の眷属を殺して間もない今、彼がいない状況で単独行動をするのはあまりに危険に思われた。

 この山で、一人でいては何もできない。無力で空虚な自分の存在を直視した楓は、しばらく縁側から動けなかった。風車の回る音だけが、からっぽの居間に響いた。


 あれから三日が経ったが、環の帰ってくる気配は全くと言って良いほどなかった。楓は毎日、朝起きたときと大学から帰るときに「今日は帰っているんじゃないか」と期待して居間を覗いたが、半日前に自分がいた様子と何も変わっておらず、薄暗くて寂しい風景が広がっているのを見るだけだった。

 いい加減に痺れを切らした楓は、昼過ぎに影郎の家を訪ねた。彼の家は大樹の上にある。木の根元で楓がおーいと呼ぶと影郎は下まで降り、楓を背に乗せて家まで運んでやった。木の上の家の中は、草の匂いとノブドウの甘酸っぱい匂いで溢れ返っていた。影郎も、環の行き先は何も聞いていないようだった。

「そういやこの前は大変だったな、朔から聞いたぜ」

 影郎は羽をゆっくり伸ばしながら、首だけ楓の方に向けてふっと笑った。朔は止まり木の上でうとうとしている。楓はしょんぼりした様子で視線を床に落とした。

「そういえば、あのときもお父さん変だった。口調も違ってたし……急に自分のこと俺とか言い出して。いつもと全然違った」

 影郎はそれを聞いてカカカと笑い、その声で朔が目を覚ましてぱちぱちと瞬きをした。

「あいつはな、自分の切実なことになると本性を出すのよ。普段はすかしてるだけだ」
「そうなの?」

 知らなかった、と独り言のように呟きながら視線を落とす楓の様子を、影郎はしばらく黙って見つめていた。その沈黙に耐えられない様子で、楓は俯いたままぽろぽろと言葉をこぼし始めた。

「やっぱり、長年の付き合いは違うね。わたし、二十年もお父さんと一緒にいるのに、お父さんの考えてること、今は全然わかんないよ。二十年なんて、お父さんやおじさんにとっては、一瞬なんだろうけど」

 三日間の不安が楓の口から溢れ出てくる。彼女は唇をかみしめ、丸っこい目と小さな口を歪ませ、迷子になった子供のように泣きそうな顔をして拳を固く握っていた。完全に目を覚ました朔が、慌てて飛んできて楓の肩に止まり、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。この世の誰にも必要とされていないような絶望の冷たさが、じわじわと楓の中に迫っていく。涙が落ちてしまいそうだった。

「俺だってわかんねェよ、あいつの考えてることなんて」

 影郎がぶっきらぼうに言い放った。楓は涙をこぼさぬよう一生懸命引っ込めながら、驚いた様子で彼の方を見た。

「種族の違いをやたらめったら気にしてるようだがなァ、同じこの星に生きている以上、大した差はねェんだよ。それよか、俺にはお前らがそっくりに見えるけどね」
「そんなの、誰にも言われたことないよ」

 楓が少しいじけたような様子で影郎に言い返すと、彼は気分良さそうに笑い、大きな黒い翼で楓の頭を撫でた。羽の一枚一枚が自我を持ったような、艶やかで力強い感触が楓の頭部に残った。

「ちょうどいいや、これから丘の上で宴会があんだよ。楓、お前も来い。酒飲めんだろ」
「えっ……」

 戸惑う楓を尻目に、影郎はてきぱきとその辺に転がっていた物を片付けて、「ほら、乗れ」と翼を広げて振り返りざまに楓をちらりと見た。厳密にはまだ二十歳ではないとか、自分が丘の上に行くと良くないのではないかとか、色々と言いたいことはあったが、有無を言わさない影郎の勢いに、それらを言うのは諦めた。楓は肩に乗った朔ごと影郎の背に乗り、彼の家を後にした。黒い羽につかまって浴びる秋の風は、少し冷たかった。


 楓にとって数日ぶりとなる丘の上は、おびただしい数の妖怪たちで溢れ返っていた。今回は力を持たない小さな妖怪たちだけでなく、楓よりうんと体の大きな妖怪たちもいる。皆、夕暮れを背にして早々と酒盛りを始めており、仲の良い者同士で輪を作って陽気に宴会を楽しんでいるようだった。濃い酒気があたり一面にぷんと漂っている。

「すごいね……こんなにたくさんの妖怪、初めて見た」

 楓が呆気にとられて丘の上を見渡すと、影郎はその辺に置いてあった酒壺を器用に掴み、大きな木の下にバサバサと飛んでいった。

「妖怪は酒好きが多いからなァ。この山のほとんどが来てんじゃねェかな。ま、あいつはこういうの嫌いだから滅多に来ねェけど」

 影郎の背中から降りた楓は、慣れない様子で周りをキョロキョロ見回しながらゆっくり草の上に座った。先日揉めた山神の眷属の片割れの姿はいないようで、安心してほっとため息をついた瞬間、背後から聞こえた別の妖怪の大笑いに楓は飛び上がらんばかりに驚き、その妖怪が自分の方を向いていないとわかると、安心したように力を抜いた。その様子を見て、影郎が眉間に皺を寄せて楓を咎めた。

「そうやってビクつくからいけねェんだ、お前は」
「で、でも……」

 影郎はチッと大きな舌打ちを一つしたあと、何か薄茶色い紙のようなものを羽の間からおもむろに取り出し、天まで通るような大声をいきなり張り上げた。

「皆聞け! ここに宝がある。ボロ紙のように見えるがただの紙じゃねェ。特別なことが書かれている」

 酒盛りをしていた妖怪たちは、影郎の声を耳にするとどんちゃん騒ぎをやめ、杯を持ったまま影郎の方を向いて彼の言葉を聞いた。丘の上はあっという間に静かになった。それを見て影郎はにやりと笑い、紙を高々と掲げてさらに続けた。

「もしこれを手に入れられれば、この山を支配できるかもしれんなァ」

 そう言って影郎が大空に紙を飛ばすのと、妖怪たちが目の色を変えて紙に群がったのは同時だった。つい先ほどまで奪い合うようにして呑んでいた酒壺はそこら中に投げ出され、草の上に飛び散った酒が混ざって異様な臭いを放っている。

 影郎の投げた紙はよく見ると封筒のようなものに入っており、うまい具合に風に吹かれ、あっちに行っては妖怪の頭上をかすめ、こっちに行っては別の妖怪の手をひらりとかわすように宙を流れていく。

「欲に忠実な奴らだな、ほんと見てて面白ェ」

 少し小馬鹿にするように笑いながら、影郎は酒を飲みつつその光景を見ていた。横で呆気にとられている楓を見ると、「お前は行かねェのか」と翼の先っぽで小突いた。

「わたし、別にあんなのいらないし……」
「いいのか? あれは環の大切なものだぞ」

 それを聞いた楓はぴたりと動きを止め、何を言っているのか飲み込めないといった顔で目を見開き、口を小さくぽかんと開けて影郎の真っ黒な目を見つめた。

「あれが他の奴の手に渡れば、もうあいつはここにいられねェかもしれんな」

 楓は堰を切ったように立ち上がり、全力疾走で宙を舞う紙の下まで駆けていった。楓がたまに乗る満員電車の中身をぶちまけて全員妖怪に変えてしまったのではないかと思えるほどのおしくらまんじゅうの中を、楓は細い腕で必死にかき分けて薄汚れた紙に手を伸ばした。しかしすぐに腕っ節の強い妖怪たちに突き飛ばされ、挙げ句の果てには罵声を浴びせられた。

「何だよ、人間! 邪魔だよどけ!」
「やっぱりこの山から俺たちを追い出す気なんだな」
「狐と親子ごっこなんかしてんじゃねぇ!」

 髪を引っ張られたり足を引っかかれたり、楓の体には一瞬で無数の生傷ができたが、彼女はまったく意に介さず、ただ一点、ふよふよと落ちてくる紙だけを見つめていた。別の妖怪の長い腕が紙を掴みそうになったとき、楓は咄嗟に叫んでその腕を押しのけた。

「それは、お父さんの大切なものなの!」

 楓の大声に驚いた妖怪は体のバランスを崩し、地面に落ちて「あ痛っ」と情けない声を上げた。その隙に朔がぴゅうと飛んできて、また舞い上がりそうになっていた紙に向かって風を送った。朔の作った風は周りの気流にうまく乗り、紙を楓の頭上に飛ばした。楓がそれを視線で追うと、薄茶色の封筒が暮れなずむ真っ赤な空を背に滑空するのがよく見えた。楓はとっさに手を伸ばし、全身を傷だらけにしながら、やっとの思いで父の宝物だという紙を手に入れた。

「やった……」
「これで楓が山の支配者だ!」
「いや、ならないけど、ありがとう朔!」

 嬉しそうに飛んできた朔に礼を告げ、影郎の元に戻ろうとすると、楓の前に紙を取り損ねた妖怪たちが立ちはだかった。西日を横顔で受けている彼らの顔は陰影が深くなり、一層恐ろしい顔に見えた。皆かなり不服そうな顔で楓を睨み、口々に「よこせ」「人間に渡せるか」など野次を飛ばしている。

 ふいに東の方から、もの寂しい秋の風がぴゅうと吹き、楓の前髪を優しく揺らした。楓の瞳の奥には不思議と、目の前で騒ぎ立てる妖怪たちではなく、父の背中が映っていた。あんなに強い父が、自分だけに見せる背中は、どうしてあんなに寂しいのだろう。その答えも、彼の孤独に触れるための愛も、今の自分の中にすべてあるような気がした。

 楓は深呼吸をし、封筒に入った紙を左手でぎゅっと胸に当てた。右手は力を入れずに下ろし、堂々と胸を張り、まっすぐな眼光で妖怪たちを睨み返した。

「わたしは、確かに人間よ。ここにいちゃいけないのかもしれない」

 その言葉を聞いて、妖怪たちはさらに彼女を責める口実ができたとでも言うように野次の声を大きくして騒ぎ立てた。しかし、楓はその喧噪の中を突き抜けるようなよく通る声を、力いっぱい張り上げた。

「でも、誰がなんと言おうと、わたしは環の娘よ!」

 腹から出たような楓の渾身の宣言は、あたりを一瞬で静かにさせた。何も武器など持たず、細い体ひとつで妖怪たちの前に堂々と立つ彼女の気迫が、そこにいるすべての妖怪たちの首根っこを押さえるようにその場を支配した。それ以上、誰も何も言うことができなかった。日が暮れゆく丘の上には、風の吹き抜ける音だけが通り過ぎていく。

「よく言った、楓」

 沈黙を破って楓の元に飛んできたのは影郎だった。彼は満足そうな顔をして、楓を守るように彼女のそばに降り立った。

「おじさん……」

 楓が少しほっとしたように影郎を見上げると、彼はにやりと笑い、再び妖怪たちに大声を張り上げた。

「さァ、これでこの紙はこの娘のものだ。こいつはもうお前たちに物怖じなどしない。わかったらとっとと散れ、宴会の続きでもしていろ」

 妖怪たちは不満そうな声を上げ、散り散りになって倒れた酒壺などを拾い上げ、鬱憤を晴らすように再び酒を飲み始めた。

「その手紙はお前のものだ、楓」
「手紙……?」

 影郎に促されて封筒から中身を取り出すと、そこにはあちこちが日に焼けて染みになっている、年季の入った手紙が何枚も何枚も入っていた。一番上の表紙らしき紙には、上品な字で小さく「わが娘へ」と書いてある。

「手紙だが、まァ半分は日記みたいなものさ、あいつの」
「お、お父さんの日記?」
「昔、あいつと賭け事をしてなァ。もちろん俺が勝ったんだが、あいつの弱みを握ってやろうと思って、それを手に入れたんだよ。ま、中身は読んじゃいないさ。そこまで無粋じゃないんでね」

 まだ事態が理解できていない楓は、影郎と手紙を交互にぱちくり見つめ、
「た、大切なものって、これ?」と確認するように影郎に尋ねた。

「おう。それが他の奴の手に渡れば、あいつは恥ずかしさのあまり、もうここにはいられなくなるだろうさ」
「そ、そういうことかあ……」

 楓は一気に体から力が抜け、へなへなとその場に座り込んだ。草の青っぽい香りが鼻をくすぐり、余計に彼女の心を安堵させた。手紙を封筒ごと両手で握りしめ、もう離すまいと胸に当てている彼女を見て、影郎と朔は穏やかに笑った。

「さ、帰るぞ。傷の手当てもしてやる。俺のせいだと知られたらあいつに殺されるからな」

 本当なのか嘘なのかわからない影郎の冗談に、楓はうんと頷いて、来たときと同じように彼の背に乗った。二羽の鴉は夕暮れの中を滑空するように飛んでいく。西日はようやく沈み、東の方角から夜がゆっくりと空を飲み込み始めている。温かい晩秋の匂いを、楓は羽毛の中で感じていた。


 その手紙は、環が楓を拾ったという日から書き始められていた。表紙の「わが娘へ」という文字は、表紙をめくって二枚目に書かれている日付の筆跡よりもだいぶ新しく、紙もさほど汚れていなかった。きっと、最初は日記のつもりで書いていたものを、後から自分への手紙にしたのだろうと楓は予想した。和紙に書かれた一枚目をめくるクシャッという音を合図に、楓は過去の環に会いに行った。


「筆というものを、初めて執った。人間は滑稽なことをするものだと馬鹿にしていたが、これがなかなか面白い。己の中にあるものがするすると墨を伝い、形あるものとしてこの世に生まれていく様は見ていて愉快だ。人間はこれで日記というものを書くのだったか。

 四季の移ろいはめまぐるしく、いちいち感傷に浸ってなどいられない。この長すぎる生のほとんどに意味はない。日輪が東から昇り、南の空を通って西に沈んでいく。ただそれだけのことを書いてもつまらない。

 だが、私の余生に一つの流星が落ちてきた。これは彼女と私との記録だ。人間のように毎日筆を執ることはしないが、思い出したときにでもこの頁を埋めることにする。いつかこの日々を忘れても、後から読み返せば暇つぶしくらいにはなるだろう。

 十一月二十日、人間の娘を拾った。まだ産まれて一年も経っていないように見受けられる。我が家の目の前で起きた凄惨な事故で生き残ってしまった、哀れな娘だ。

 冷たくなった両親の腕の中で、あのまま事切れる様を見ていても良かったのだが、泣き叫ぶ姿があまりにも悲痛なので、どうにも放っておけなかった。幼子が悲しい声を出すのは良くない。私に人間の子育てができるとは到底思えなかったが、あのまま死んでいくよりは、妖怪に引き取られて生きていく方が幾分か良いだろう。哀れな者同士、共に生きてみるのも面白いかも知れない。ちょうど楓の葉が燃えるように赤く染まりきっていたので、楓と名付けた。

 十二月十五日、楓をあやしていると影郎の奴がやってきて、また子育てか、懲りていないのか、しかも今度は実の子ではなく人間か、どうなっても知らんぞなどとガアガア騒ぎ立てたので追い出してやった。

 我が子を充分に育てられなかった身でこうして人間の子を育てていることに、罪悪感がないわけでもない。しかし同時に、今度こそはという欲があることも事実だ。楓は、我が子の代わりに育ってくれればそれで良い。それが贖罪になるのなら、人間の子だろうが何だろうが立派に育ててやるつもりだ。

 今でも忘れない、あの絶望の光景を。憎き憎き人間の手で殺された我が息子の、力なく横たわる姿を。もう命が宿っていないのだと一目でわかる、投げ出された四肢を。その足を乱暴に掴んで悪態を吐きながらどこかへ運んでいった蛆虫のような人間どもを。黒く燃えたぎる憎悪の炎は少しも燻らないのに、年月だけが無情に過ぎていく。

 思い返せば、息子が殺されたのはもう千年近く前のことだったのだと気づき、戦慄してしまった。随分と年を取ったものだ。我が息子が人間どもの餌食になどならなければ、私は何の害もない、何の力も持たない、ただの野狐として短い一生を終えていたのであろう。自分が憎しみのあまり妖怪になり果てていると気がついたのは、息子を屠った人間どもを惨殺したあとだった。

 あの日から幾星霜を経ても、世が太平に染まっても、この身を染めきった憎悪の色は全く薄まることがない。私は強大な力を手に入れたし、その気になれば人間どもを皆殺しにすることも可能だと確信していたが、あまりにも虚しかった。息子の足を掴んだあの男の汚い手を引き裂いたとき、言いようのない悲しみが体の内に流れ込んできた。もう息子は、どこにもいない。

 楓も憎むべき人間であることは間違いないが、この何も知らない天使のような寝顔を見ていると、あの汚らわしい蛆虫どもと同類とはとても思えなかった。種族で一括りにすることはあまりに愚かだと、ここ百年ほどでようやく理解できるようになってきた。

 この太平の世で、強大な力のもとで、今度こそこの人間の娘を育てきってみせる。何者からも守りきってみせる。そうすれば、天の国で眠るあの子も、笑ってくれるのではないかと思ったのだ。

 一月二十七日、初雪が降った。今年は例年よりも少し早い。楓に見せてやろうと思い、玩具で遊んでいたところを抱き上げて庭に出ると、不思議そうな顔で雪を掴もうと手を伸ばしていたのが可愛らしかった。雪は楓の小さな手のひらに触れた瞬間、音もなく溶けていったが、それを不満そうな顔で見つめているのが面白い。「ぱぱ、あれほしい」と雪を溶かさずに捕まえるようせがまれたが、私にもできないことはあるのだと諭したら顔を真っ赤にして膨らませていた。

 そういえば、雪は息子も喜んでいた。雪原を駆け回り、雪の窪みに飛び込んではすぐにまた飛び出し、銀世界を小さな体で駆け回っているのが愛おしかった。まさか父親が人間の子供と一緒にこうして雪を見る日が来るとは、彼も思わなかっただろう。

 この体になってから、雪などただ寒く煩わしいだけだったのに、楓といるとそういった自然の移ろいさえ見直してみる価値があるのではないかと思えてくる。春になったら桜を見せてやりたい。きっと大喜びして花びらを掴もうとするだろう。

 七月七日、山神のところに楓を連れていった。本来、人間をこの山に住まわせることは禁じられているが、あの山神はなんだかんだ私に甘いので、すぐに許可が下りるだろうと踏んでのことだった。事実、楓を引き取ってから三年間、私が厳重に家の中に彼女を隠していたというのもあったが、奴から文句の一つも言われなかったのだ。

 無論、予想は的中し、楓の山の滞在が許可された。これで楓もこの山を堂々と駆け巡ることができるし、周りの妖怪も手が出せないはずだ。神の類を初めて目にした楓は、不思議そうな目をして山神を見つめていた。「あなた、だれ?」と無邪気な声で問うので奴がどう答えるのか見物だったが、奴め、何も答えずに黙って楓に守護の術をかけた。楓は急に自分の周りが光り出したのが怖くなったのか、泣きべそをかいてすぐ私の元に走り寄ってきた。私の着物を小さな手で必死に掴む力が思いのほか強かった。いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。

 山神の守護は、楓が成人するまでという条件付きだった。人間の成人年齢は確か二十歳だったか、十八歳だったか、とにかくそこらだ。二十年など、短すぎる。今思えば、たった二十年で済むことだから、あいつも楓を大目に見てくれたのかもしれない。楓が成人してここを出て行ったあとは、また別の人間の子供を探してきて育てようかという気にさえなってきた。人間はすぐに育つので、育児は思っていたよりも楽しかった。

 四月二十日、近くの小学校に通い出した楓にようやく友達ができたらしく、その子の家に呼ばれたと言って喜んで出かけていった。女の子供の喜びそうな服を見繕ってやったが、楓はあまり興味がなさそうに、そわそわした様子で家を飛び出して行ってしまった。喜んでくれると思っていたのだが。

 夕方五時までには帰るように言ってあったのに、六時になっても帰って来ない。人攫いに遭ったか、獣に食われてしまったか。五時を過ぎてからずっと鳥居の外で待っていたが、一向に帰ってくる気配がない。気が気でなくなったので、事前に楓から聞いていた友達とやらの家まで歩いて行った。春の夜道は酒飲みが多い。あちらこちらで、酔っ払った小妖どもが月に向かって杯を掲げている。あんなものに楓が捕まってしまった日には悔やんでも悔やみきれぬと、しまいには走って田舎道を進んだ。息を切らせて走ったのは何百年ぶりだっただろうか。

 楓の泣き声が聞こえたのは、走り出してから五分も経たないうちのことだった。急いで声のする方に駆け寄ると、もう今日の運行が終わっている寂れたバス停の屋根の下で、小さな野ウサギの死骸を抱いたまま大泣きしている楓の姿があった。よく見ると膝にすりむいた跡があり、誰にやられたのかと問うと、ひっくひっくとしゃくり上げながら、野鳥に追いかけられて転んだのだと言う。この野ウサギの子供が野鳥に襲われていたところを庇おうとしたのだろう。もう死んでいるのだから手を離しなさいと言っても、真っ赤に泣き腫らした目で嫌だと言って聞かない。

 どうしたものか悩んでいると、だんだん落ち着いてきた楓が私の袖をそっと掴み、もう動かないから、墓に埋めてやりたいと言い出した。そのときの彼女は俯いて野ウサギの死骸を見つめていたので、どんな顔をしていたのかはわからない。しかし、いつの間に死や弔いを理解するようになっていたのかと思った。楓の頭をそっと撫で、バス停の裏の花壇を掘り返して一緒に野ウサギを埋葬した。本来、これは野鳥や獣にとって大切な食料であり、山のことを考えれば放置しておくべきなのだが、今回は娘の成長を優先させてもらった。弔う心を忘れてはいけない。それは人間として、おそらく大切な感情の一つなのだ。

 野ウサギを弔った帰り道、楓がいつもより寂しそうに甘えてくるので、肩車をして帰った。私の狐耳を遠慮なしに掴んでくる彼女の強い力が愛おしかった。このままずっと、大人になどならなければ良いのに。

 六月九日、どうやら楓にちょっかいを出す愚かな人間の子供がいるらしい。楓は何も言わないので、朔の報告がなければ見逃していたところだった。どの子供が楓に何をしているかは調べればすぐにわかる。楓に足を引っかけて転ばせた奴は骨折するよう、楓の持ち物を隠した奴は山で行方不明になるよう、楓に母親がいないことを馬鹿にした奴は家庭が崩壊するよう、それぞれ念入りに呪いをかけた。

 その甲斐あって、楓は快適そうに学校に通うようになったと思っていたが、しばらくすると落ち込んで帰ってくるようになった。理由を聞くと、楓に手を出した奴は山の力で酷い目に遭うという噂が流れ、誰も友達が近寄ってこないと言う。かわいそうな楓、あれは私がやったのだということを知らず、たまたま自分に害を加えた奴らが軒並み不幸な目に遭ったのだと信じている。しかしそんなことはどうでもいいじゃないか、これでお前に意地悪をする奴はいなくなったのだろう? と聞くと、楓は腑に落ちないような寂しそうな顔で、とぼとぼ自分の部屋に入っていってしまった。ああ、そんな小さな背中で悲哀を背負うものじゃない。私のしたことは、楓にとって悪だったとでも言うのだろうか。

 その日の夜、影郎に相談すると開口一番にお前が悪いと言われた。しかし、愛娘に明らかに敵意や悪意を持っている者を排除するのは親として当然のことだろうと反論すると、お前はやり過ぎなのだと言う。何がやり過ぎなのか全くわからない。あの子供らにはもうこの世に存在する価値などない。少なくとも、楓の世界に存在する価値がないのだ。そう言うと、奴はため息をついて先輩風を吹かせやがった。何か文句があるのかと問うと、そういうやり方を続けていると、いつか楓に嫌われるぞと忠告された。先ほどの楓の寂しそうな背中が、脳裏を掠めた。

 人間どもがどうなろうと、私は心底どうでもいい。野山を幸せそうに散歩する老夫婦がどんな死に方をしようと、広場を駆け回る子供たちがどんな暗い人生を送ることになろうと、一滴の関心すら湧かなかった。私は妖怪だ。かつて最愛の息子を人間に殺された妖怪なのだ。

 だが、楓だけは違った。あの子が私に笑いかけるだけで体の奥が温まっていくのがわかるし、自分のそばで安心して眠っているのを見ると、どんなことがあってもこの子の生涯を守り通したいと強く思う。だから、あの子に降りかかる害はすべて私が取り除いてやりたいのだ。もう二度とあんな思いをしないためにも。それなのに、そのせいで楓から嫌われてしまうのなら、私はもうどうしたら良いかわからない。あの子に嫌われたらどうやって生きていけば良いのだろう。ああ、なんであの子は人間に生まれてきたのだろうね。同じ妖怪に生まれていれば、私はもっとうまいやり方であの子を守ってやれたし、妖術も授けることができたのに。生きる時間が違うことに、こんなに苦しめられずに済んだのに。どうしたって、あの子は私よりも先にこの世からいなくなってしまう。私にはそれが耐えられない。一人にしないでくれ。私は楓がいないと、もうおかしくなってしまいそうだ。

 三月十日、随分長い間日記を書かずにいた。楓が成長する様を見るたびに、私たちの寿命の違いを突きつけられるようで、体の奥底に巨大な石が鎮座しているような感覚になるからだ。

 この日記は――日記と呼べるかもわからないような真似事の駄文だが、これはいつか、私たちが別々に生きていくことになったときに、我が娘に渡そうと思う。だから、ここからは日記ではなく、手紙として最愛の娘へ文をしたためよう。

 楓、大きくなったな。この手紙をお前が読んでいるのなら、私たちはもう別々の場所で生きているのかもしれない。それか、その日が近づいているのかもしれない。

 父の拙い文章を読んでお前は笑っただろうか、幻滅しただろうか。大昔、もう千年も前のことだが、私には息子がいたし、二十年前のあの日、お前のことも興味本位で拾ったに過ぎない。たった二十年間の暇つぶしのように考えていたことは事実だ。それこそ、お前がここから巣立ったら今度は別の人間の子供を育ててやろうかと考えていたくらいに。

 しかしその考えは霧散した。お前の存在がそうさせたのだ。お前は実に無垢な魂を持ち、私に愛を注ぎ、注がせてくれた。お前が来てから四季の移ろいが楽しみになった。料理も覚えた。お前が私に笑いかけてくれる顔が、何よりも楽しみになったのだ。お前に会うまで、私は残りの途方もない長さの命をどうしたものかと、毎日虚しい思いで日々を送っていたよ。長いだけの生に何の価値もないと。だが今はどうだろう、別の虚しさが私の中にあるのだ。どうして私は年をとる速さがお前と違うのだろうね。お前が死ぬまで、その命の行く末を見守ることができるのは嬉しいが、お前がこの世からいなくなることが耐えられない。もちろん、お前がいなくなったあとに別の人間を育てるなど、もう考えられない。私にはお前しかいないのだ。

 父の重い愛を笑ってほしい。お前は人間だから、いつかここを去って行くことはわかっていたよ。お前が死ぬのを目の前で見ているより、どこかで幸せに生きているのだろうと思いながら過ごす方が、もしかしたら幸せなのかもしれない。

 楓、私の最愛の娘よ。お前がどこに行こうと、どんなことをしようと、私はこの身が尽きるまで、生涯お前を愛し続けるよ。だから安心して、行きたいところに行くがいい。私はお前の父親だ。どんなときだって、お前を愛しているよ。 環」


 ぱたり、音がして、楓の瞳からこぼれた大粒の涙が薄汚れた和紙に染みを作った。月だけが息をしているような静かな夜の真ん中で、楓は一人、ぐいと涙を拭った。

「おじさん」

 俯いたまま影郎を呼んだ彼女の声は、涙でしっとり濡れていた。

「何だ」
「わたし、帰らなきゃ」

 今度は影郎を見てまっすぐ言い放った楓の瞳の奥に、ゆらゆらと静かな炎が揺れていた。影郎はそれを見ると、フッと笑って「やっぱり似たもの親子だなァ」と目を伏せた。

 そのとき、山の見回りに出かけていた朔が帰って来るなり慌てたように叫んだ。

「楓! 環さんが帰ってきてるよ。慌てて楓のことを探してる」

 楓はそれを聞いて弾かれたように立ち上がったが、すぐに影郎にたしなめられた。彼の艶やかな黒羽が楓の頬に触れた。少し緑の匂いがした。

「まァ待ちな、もう子の刻を回っているんだ。今日は泊まって行きな」
「でも、お父さんが……」
「三日間も娘を放ったらかしにしてたんだ。このくらい仕返ししてやんな」

 それに、あいつが慌てふためいてるのはなかなか面白いからなと影郎が付け足したので、絶対にそちらが本音だろうと楓は心の中で彼を小突いたが、大人しく従うことにした。

 外を覗くと、山はすっかり夜闇に包まれていた。地面から立ち上る枯れ葉の香りが、夜気に冷やされながら天へと昇っていく。冷たくなった大気はやがてこの山に冬を呼ぶ。楓は、ぽっかり浮かぶ月を見上げ、黙って去りゆく秋の後ろ姿を、じっと見つめていた。


 真っ赤な太陽が東から昇り、晩秋の山に朝を連れてきた。赤く染められた木々は静かに命を燃やし、新たに始まる一日に溶け込んでいく。二羽の小鳥が銀杏の木に留まっており、羽を伸ばしてすぐ東の方に飛び立って行った。その振動で、葉の裏についた朝露が振り落とされ、下の泉にぴちょんと落ちた。命に満ちた朝の森に響く瑞々しい音は、ぐっすりと眠る楓の耳にも微かに届いた。

 楓は瞼をゆっくり開け、寒そうに身を縮こまらせてから上半身を起こした。隣では朔が首を体に突っ込んで丸くなって眠っている。少し離れた場所には、影郎が朔と同じようにして眠っているのが見えた。時計を見ると、朝の六時だった。

 楓は音を立てないようにそっと窓際に立ち、朝ぼらけの山を眺めた。赤く染まった木々の向こうに、青い山の影が見える。その隙間から、白くなりつつある太陽が世界を照らしている。葉の擦れる音と小鳥の鳴き声、どこからか聞こえてくる朝露の雫の音が、ここで二十年間享受し続けた楓の朝だった。これが、自分の故郷の原風景となる。そう自分に言い聞かせるように、楓はその光景を目に焼き付けた。

 しばらくそうしていると、背後でごそごそと音がし、影郎が首をもたげて眩しそうに楓を見ていた。

「……おう、もう帰るのか」
「うん」

 穏やかに微笑んで返すと、影郎は柔らかく笑い、もぞもぞと動いたかと思うとバサッと音を立てて黒い翼を広げた。そのまま羽の調子を確認したあと朔を起こし、木の下の玄関まで楓を下ろしてくれた。

「色々ありがとう、おじさん。この手紙もらっていくね」
「ああ」

 楓は両手で大切そうに環の手紙を掲げてみせ、照れくさそうにはにかんでポケットの中にしまった。頭上を、キイと高い声で鳴いた鳥が通り過ぎて行った。

「楓、出て行くのか」

 影郎が、いつになく静かな声で楓に尋ねた。何でも吸い込んでしまいそうな真っ黒い瞳に、朝の山と、楓の顔が映り込んでいる。

「うん」
「……元気でやれよ」

 生まれてから、環の次に長い時を共に過ごしてきた二羽の鴉を、楓は大きな瞳でしかと見つめた。きっと、彼らを一生忘れない自信があった。

「うん!」

 楓は踵を返し、小走りで山道を駆けて行った。まだ朝露で湿っている枯れ葉を踏むと不思議な音がする。一度だけ振り返ると、黒い二羽の鳥は、まだこちらを見ていた。朔が小さい翼を懸命に振っているのを見て、楓は少しだけ泣きそうになった。


 地平線を離れた日輪が、環と楓の家を白く照らしていた。腕時計を見ると、まだ六時半を回ったところであった。家の裏の土手から降りてくると、玄関から伸びる千本鳥居が隠り世につながっているように見える。土手には彼岸花が所狭しと咲き乱れ、鳥居の両脇の紅葉は燃えるような葉を青空へ伸ばしている。深紅に囲まれた家の周りに、狐のものと思われる足跡が無数に残っており、家の中へと続いていた。楓はそれを追うようにして、引き戸をそっと開いた。

「ただいま……」

 初めての朝帰りをした楓は、その引け目と、本当に環が帰っているのか半信半疑の心情が混じり、五メートル先に聞こえるか聞こえないかの小さな声を出して帰宅した。玄関に変わった様子はないが、居間を覗くと枯れ葉や紅葉が何枚か落ちており、小物が雑多に散らばっていた。環の姿はなかった。

「お父さん?」

 楓はギシッと音を立てて廊下を進み、一番奥にある環の部屋の襖をそっと開けた。そこには、乱雑に放り出された敷き布団と羽毛布団の上に突っ伏して、足を泥まみれにして眠っている、白い大きな狐の姿があった。九本の尾はどれも艶やかに輝いていたが、やはり毛先が少し泥で汚れている。腰の辺りには環がいつもぶら下げている赤と金の飾りがついており、狐の呼吸で体が上下するのと同時にその飾りも上下して動いた。右前足の下には、何か分厚い封筒のようなものがあった。

 環の本当の姿を初めて目にした楓は、特に驚くことも臆することもなく、当たり前のようにそばまで歩いて行って、彼の隣にそっと寝転がった。羽毛布団が楓の体重を受けて沈み込んだ。

「ん……?」
「お父さん、おはよう」

 目をぱちぱちさせながらゆっくりと起き上がった環は、目の前の楓の顔を見た途端に飛び上がらん勢いで身を起こした。

「か、楓。どこに行っていたんだ」
「ごめん、影郎さんの家にいたの」

 何だ、そうか、と安心した環は、そこで初めて自分が本来の姿を晒していることに気がつき、慌てていつもの人間の姿に戻った。一瞬のことで、楓はどのような仕組みで彼が変身しているのか見ることができなかった。いつもの紺色の着物を纏って狐面を付けた環は、自分が寝ていた位置に再び身を預け、そっと楓の頬を撫でた。

「帰ったらどこにもいないから心配したぞ」
「こっちの台詞だよ。どこ行ってたの?」

 楓が頬を膨らませて環を見つめると、彼は先ほどから大事そうに持っていた封筒を取り出し、「ちょっとね。これをお前に」と言って、封筒ごと楓の手にそっと握らせた。中には、人間の使う紙幣が大量に入っていた。

「これ……」

 あまりの大金に楓が目を丸くして何も言えないでいると、環は低く優しい声で、

「これだけあれば、新しい生活を始めるに足りるだろう。持って行きなさい」

 心配しなくとも本物だし、綺麗な金だよ、と付け足した環に、楓は胸がいっぱいになった。どうやって集めたのか知る由もなかったが、珍しく汚れた身なりで疲れ果てている環を見るに、とてつもない労力がかかったのであろうことは想像に難くなかった。楓の心の一番奥にある孤独の泉に、金色に光る温かい水が一滴こぼれ落ち、四肢の先までじんわりと広がったような感覚がした。

「ありがとう……」

 そう告げるのが精一杯だった楓の頭を、環は優しく撫でた。

「大きくなったな、楓」

 本当の親子ではない、ここから出て行けばいつか消えてしまうかもしれない、環と結ばれている細い線を、楓は強く抱きしめることができたように思えた。たとえ、いつか彼に忘れ去られてしまう日が来るとしても、もうそれでもいい気がした。

 小さい頃よくそうしたように、楓は環の首に腕を回した。それを合図に、環がふふっと笑って力一杯楓を抱きしめた。途端に、沈香の香りがふんわりと楓の鼻をくすぐり、脳裏を駆け抜けて行った。やっと父の懐に収まった楓は、心から安心して再び眠りに就いた。いつしか環も眠っていた。窓の外からは山の目覚める音がしている。

 めちゃくちゃになった布団の上で、一匹の妖怪と一人の人間が固く固く抱き合い、燃えるような朝日をその身で受けながら、幸せそうに眠っていた。


 旅立ちの日の朝、楓は大きめのリュックサックを背負い、お気に入りの白いスニーカーを履いて玄関に立った。

「じゃあ、この手紙もらって行くね」
「ああ。まさかこんなことに使われるとは思っていなかったよ。影郎の奴め」

 環はバツが悪そうに笑いながら悪態を吐き、楓の隣に降り立って引き戸を開けた。その途端、真っ白に冷えたような風が二人の頬を撫でて去って行った。冬がすぐそこまで来ていた。

「忘れ物はないか」
「うん。大きい荷物は先に全部送ったし」

 二人はいつもよりゆっくりと、鳥居までの道を歩いて行った。環の下駄の底から、ざり、ざりと砂を踏み蹴る音がした。旭光にきらめく大気の向こうから木枯らしが吹いてくる。冷たい風は木々を抜け、燃えるように染まった紅葉を強く揺らして行った。千本鳥居は艶やかな丹色の道をまっすぐに伸ばし、楓の生きていく世界へと繋げている。鳥居の遙か最奥に、朝日を浴びて目覚めようとする田や民家が小さく見えた。二十年間見続けた真っ赤な朝に、楓は別れを告げようとしていた。

 鳥居を前にして環は立ち止まり、ゆっくりと諭すように、楓に最後の忠告をした。

「今日、この鳥居をくぐって出て行けば、お前にかけられた山の守護は切れてしまう。そうすると、お前はもうここには戻って来られない」
「戻ろうとしたらどうなるの?」
「戻れないよ。この鳥居を出た瞬間から、ここはただの荒れ果てた山にしか見えないはずだ」
「いつもこの鳥居の下を通って帰って来てたのに?」
「守護が切れるからね。今からここを通るのは、最後の儀式みたいなものだ」

 楓は、自分を二十年間育んだ山を仰ぎ見た。東に面した木々は赤や緑の葉をきらめかせ、身を震わせるように朝の光を浴びていた。丘の上の方角には群生しているススキが見え、その柔らかい穂を秋風になびかせていた。耳を澄ませると、木々が風と戯れる音や鳥たちの鳴き声の他に、秋の夜を歩き回って帰って来たのであろう妖怪たちの小さな声が、あちらこちらから聞こえてきた。この声がもう聞けなくなることが、楓は未だに信じられなかった。

「この山とも、みんなとも、お別れだね」

 ぽつりとこぼれた楓の言葉を、環はすぐ拾い上げるようにして優しく楓に寄り添った。

「ああ。だが、私は姿を変え、いつでもお前を見守っているよ」
「また会える?」
「お前が会いたいと強く思ってくれれば、また再び縁が繋がるだろう」

 二人は鳥居の入り口に立ち、じっと見つめ合った。どちらの顔にも、惜別を前にした寂しさと出立への期待が満ちたような、凜とした決意が浮かんでいた。

「さあ、この鳥居を通って行くんだ。決して振り向いてはいけないよ」

 環はそう言い、そっと楓の背を押して彼女の門出を促した。楓はそのまま二、三歩歩いて行ったあと、鳥居をくぐる直前に振り返って環を見た。環は口元を緩め、愛しさを込めた声で楓を送り出した。

「行ってらっしゃい、楓」

 さよならではなく、行ってらっしゃいといつも通りに送り出してくれたのが嬉しくて、楓も思わず笑顔になり、それでも胸の底から声を絞り出し、明るい声で別れを告げた。

「行ってきます、お父さん」

 最後に笑い合ったあと、楓は踵を返して鳥居の中を歩いて行った。だんだんと南の空に昇っていく太陽が鳥居を照らし、楓の足元に影の連なる道を作っていた。

「楓」

 少し歩いたところで、後ろから環の声が聞こえた。思わず振り返りそうになった楓は、環の忠告を思い出し、慌てて正面に向き直って足を止めた。なに、と返そうか迷った瞬間、鈴の音が涼しく鳴り響き、今まで耳にした中で最も穏やかな環の声が聞こえた。

「俺の生きる理由になってくれて、ありがとう」

 鈴の音と共に、環が消えた気配がした。背後から吹いてくる冷たい風に乗って、沈香の残り香が楓の鼻を掠めた。

 振り向いてはいけない。楓は自分にそう言い聞かせ、そのまま鳥居の下を力いっぱい走って行った。もう二度と会えないのだとわかった。両の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。

 どこまでも続く真っ赤な秋の道を、一人の少女が駆けていく。いつか父と二人で駆けた七五三の日と同じように、陽光を浴びた鳥居が彼女の門出を祝うようにして、きらきらと光っていた。

 楓は走った。泣きながら走った。走らないと、振り向いてしまいそうだった。父への想いが次々と溢れ、涙となってこぼれ落ちていく。世界で、一番大切な、生涯愛し続けると約束できる、たった一人の人だった。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら旅立つ娘の影を、秋の陽が優しく照らしていた。どこかで鈴の音がりんと鳴った。

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