ネガティブ思考はただの言葉だけど,真に受けると現実になってしまうという話
ネガティブ思考は止まらない.
脳の仕組みからして,ネガティブ思考を止めようとする方が不自然というか無理難題である.
正確な根拠はわからないけど以下のような理由らしい.
狩猟採集民族時代にはネガティブ思考というかリスク管理がしっかりできる個体が生き残った.そして社会の変化スピード早すぎる割に脳の進化が追いついていない.だから不安が生まれやすい現代社会において,リスク管理志向的ネガティブ思考が頻繁に脳に湧き出てくるのは当然.
だからネガティブ思考が湧き出てくるのを止めるのはそもそも無理な話.
じゃあそもそも思考ってなんだ?ということを考えると,思考とは脳内に浮かぶただの言葉だとわかる.
俺は今まで何の努力もしていなかった,だからこれからも何の努力もできず何の成果も産めず,朽ちて死んでいくだけだろう
まずこういう言葉が脳内に浮かび,それを認識する.
ただそれは脳に浮かんでくる言葉の羅列である.
確かにここから具体的な映像が立ち上がり,より臨場感を持ったネガティブ感情に襲われることもある.
しかし,まずは上記のような言葉が先に浮かんでくるだろう.
つまり思考とは言葉の羅列にすぎないのだ.
思考単体では何も起きないし何の悪さもしてこない.
しかし思考という言葉の羅列を信じてしまうと,それが現実であるかのように自分が振舞うことになる.
俺はダメな人間だ,という思考が頭に浮かび,それが揺るぎない現実なのだという風に信じると,それに見合った行動をとるようになる.
ダメ人間だと信じているのだから,自分のためになるような行動は決してしないし,人に感謝したりもしないし,人を貶し攻撃的になるだろう.
そのように思考が現実のものであると信じた上で行動を起こしていくと,行動が習慣化する.
つまり毎日,毎秒,上記のような行動をするのだ.
なぜなら人は,脳は,安定を好むから.
ネガティブな人というのは行動しない.脳は行動しないこと,変化しないことを好んでいるため,ネガティブ思考を信じ込み不快な感情が押し寄せても行動しないことを選択するのだ.
そのような習慣ができると,あなたは「そういう人」になってしまう.
つまり何の努力もしない上にネガティブで,人に感謝もできないし,すぐイライラする上に人に当たる攻撃的な人格が形成されるのだ.
そうすると周囲から虐げられ,孤立し,孤独を感じ,余計に人格がねじ曲がる.
すると余計にネガティブな思考が頭の中を占拠し,よりネガティブな行動習慣が染みつき…というように,絶望の負のループへと突入する.
まとめると以下のようになる.
思考→行動→習慣化→人格形成→思考…
思考というただの言葉の羅列を信じてしまったがために人生が大きく狂ってしまう.
この「思考というただの言葉の羅列を信じ,揺るぎなき現実だと捉える」行為を,心理学の用語でフュージョンと呼ぶ.
では自分ができることは何だろうか.
先ほど述べたようにネガティブ思考の発生を止めることは不可能である.
しかし思考がただの言葉の羅列であるということを認識することはできる.
つまり,
今俺の頭に「俺はダメなやつだ」という思考が浮かんでいる
と認識することはできるということだ.
このように「思考は言葉の羅列であり,揺るぎない現実だというわけではない」と認識することを,脱フュージョンと呼ぶ.
ここで気をつけなくてはならないのは,脱フュージョンは必ずしもポジティブ感情を引き起こすわけではないということ.
ただ単に,「少なくとも絶対的現実ではない」ということを認識することにすぎない.
ここで「でもその思考が本当のことだったらどうするんだ」という指摘が出てくるかもしれない.
しかし今議論しているのはそこではない.
今言っているのは,あなたがネガティブ思考に基づいた行動をしているのは,あなたが思考という言葉の羅列を,唯一絶対の真実として自ら信じ込んでいるからなんですよ,ということだ.
思考そのものはコントロールできない上に,何の悪い影響も与えてこない.
しかし思考を絶対的真実として信じるかどうかというのはコントロールできる上に,信じてしまうと先述のような甚大な被害を与えてくる.
自ら思考を信じる習慣を形成してしまっているが故に,破滅的な行動を招き破滅的な人生を歩んでいるということを自覚しなくてはならない.
そしてゆっくりでいいから,思考をただの言葉だと捉えそれを自ら信じ込む選択をしない,という習慣を形作っていかなければならない.