加害者化する被害者
「君だって彼の痛みが分からないでしょ。」
自分の痛みに埋没して周りが見えていなかった私に、知り合いがそう諭してくれたのは去年の秋のことだった。
「自分と同じ痛みが分かる人と一緒に居たい」「強烈な刺激で痛みから目をそらしたい」、それは切実な気持ちで、それを求めて荒れた交際関係から抜け出せていなかった頃だ。
それでも、自分の痛みは痛くて仕方がなかったから、知り合いはなぜいつものように私の味方をしてくれないのか、少し不満にも思った。
私はかつて被害者だった。
詳しいことは過去の記事に譲りたいが、家庭内暴力のある家庭で私は育った。
被害者だった私は、大人になって加害者になった。
心理的に誰かを傷つけることは日常茶飯事だったかもしれない。
でも先日、私は「明らかな加害」をしてしまった。自分が加害者であることに強烈な衝撃と嫌悪が抑えきれず、この文章を書いている。
もう先の短い祖父が生きているうちに会わねば、ということで、普段は別居している母と2人で、遠くにある祖父母宅に2泊3日で帰省することになった。
かつて母に暴力をふるわれ、長らく葛藤のある関係を引きずってきた母と2人で長い時間を過ごすのが危険なことは分かっていた。
行きの新幹線で2人並んで座ったときから、私の心はざわざわして、それを抑えるために口を固く閉ざし、身を固く縮めた。
ざわざわの正体は、「この人をボコボコにしてやりたい」、という衝動だった。
口を固く閉ざし、身を固く縮めたまま2日間を過ごした。苦しくてたまらなかった。この衝動、突出した激しい怒りを抑えるのは容易ではなかった。
3日目。
祖母と母親をよそに一人勉強をしていた時、祖母と母親がヒソヒソと私の話をするのが聞こえた。それはぐっと耐え忍んでいた私に最後の一撃を与えた。
私はまず手の中にあったスマホをテレビに向かって思いっきり投げつけた。スマホの画面は割れた。細かく丁寧にまとめていた勉強のノートをぐしゃっと引っ掴み、それもテレビに向かって投げつけた。
「ガンッ」「バァン」という激しい音を聞きつけた母親は、すぐに私が物を投げたことをすぐ察知して、飛んできた。何せ、実家にいた頃の昔の私もよく同じことをやっていた。
「どうしたの!」怯えた表情で私を止めにかかった母親に、「近寄らないで。」と告げる。これ以上近づかれたら終わりだ。私が投げつけてめちゃくちゃにしてしまいたいのは、スマホでもなく、ノートでもなく、母親だったからだ。
私の最後通牒を聞き入れずに「何があったの!」と迫りくる母親。そのお腹を私はグーで思い切り一発殴った。本当は一発じゃ足りなかった。でも、母親の「痛い!」という悲惨な声に、気持ちは冷めて、黙ってスマホとノートを片付けた。
東京への帰路、母親はひたすら怯えた表情で涙を流していた。
「怒っている人と居るのが怖い」。「怖い怖い」と涙はどんどん溢れて頼りなげな子ども同然だった。
そして私の父親の話を始めた。
何かに怒って突然生活費が振り込まれなくなるから怖い。
実は、私が入院するたびに「お前は何をしてるんだ」と私の病気を母親のせいにして、毎回ひどく怒られて怖かった。
私はしんどかった。
母親が「怖い怖い」と泣く姿を見るのは本当にしんどい。
それは、母親を辛くさせてしまったことを悔やむ優しさでは決してない。
母親の「怖い怖い」こそが、父親の虐待から私を守らなかった元凶なのだ。
そして、私に「怖い」思いをさせたのもまた、母親の虐待であり、母親に「怖い怖い」と言う資格はない。
客観的には分かる。
母親はDVの被害者で、暴言暴力にひどく怯えながら生きてきたこと。
その辛さのはけ口が子どもしかなかったこと。
母親が他人だったなら彼女の被害者性に寄り添って話を優しく聴いてあげられたのかもしれない。でも、私は彼女の子どもで、彼女の被害者だった。だから、彼女が「怖い怖い」と言うのに耳を塞いでしまいたかった。
でも何より辛かった事実がある。
母親が私に怯えている姿が、かつて私の父親に怯えていた姿と全く同じだったのだ。
母親が無意識にでも私を父親と重ね合わせているのは明らかだった。
手が出てしまう自分が、自分の父親にそっくりであることは誰よりも分かっている。
昔から、不機嫌になりやすい私を「父親に似ている」と母親が嫌っていたし、自分でも自分に父親の血を感じていたから、懸命に人に優しい性格になろうと努力した。
その努力は無駄だった。やっぱり自分は手が出て人を傷つける。父親から譲り受けたものは変えられなかった。
少しでも父親と違う自分でありたい、そう思って東京駅で別れるときに一言「ごめんね」と振り絞った。
本当は、殴ったのも今までさんざんやられてきたことを考えればちょっとした報復に過ぎなかったし、「怖い怖い」と泣かれるのも筋違いだと思っていたから、謝りたくはなかった。でも、殴って傷つけたという事実を放置したままでは父親と何ら変わりがなくなってしまうから仕方なかった。
別れたときの母親の後ろ姿があまりに哀れで、このまま自殺しちゃうんじゃないかと思ったので、帰って一日経ってから、生存確認を兼ねてLINEをした。
少しでも言葉で伝えなければ私は暴君のままだと思い、ここに書いてきたことのいくらかを伝えた。
私はここ半年ほど精神分析を受けている。
そこで見えてきたのは「怒り」だった。
長い間、私には自分の怒りが見えていなかった。父親と違う人間であろうと、親の虐待さえも許す優しい自分を作り上げてきたつもりで、それは板についていたから、親のことはもう許したと思っていた。
他人に向かう怒りは完全に抑圧されていた代わりに、しょっちゅう訳のわからない感情に圧倒されては自傷していた。
セラピストは、私に「怒り」を気づかせてくれた。
それと同時に、もう親と離れて暮らしているし、しかも年老いて精神的にも不調を抱えてる親に対して、今更怒りをぶつけることはできない、怒りの矛先がないね、という話もした。
「ここでは暴力は振るっちゃダメだけど、言葉でならどんなことでも自由に表現して良いからね。」そう言われてカウンセリングルームでは言葉や涙で自分の感情を表現した。
「怒り」に気づいてから母親に直面した時、それはもう抑えられなかった。セラピストの前では言葉で表現できても、母親の前では暴力で表現してしまった。精神分析のせめてもの産物として、後出しのように言葉を付け足した。
父親から母親。父親から私。母親から私。私から母親。私から彼。
連鎖していく暴力。
その中に潜む「怒り」はあまりにも処理しがたいものだ。
セラピストもひたすら私の話を聴くだけで、「怒り」に簡単なソリューションを見つけてはくれない。
私は自分の「怒り」、そこから生まれる暴力性が怖くてたまらない。
いずれ、彼や、将来の子どもを傷つけて失ってしまうのではないか。そうも考える。
どうか、後出しのような言葉が、いつか後出しじゃなくなるように。私は自分の大切なものを守るために、鍛えなくてはいけない。加害者化した被害者は、苦しい。