「文明崩壊」への答えを探して

文庫系投稿者として、また1ファンとして応援させていただいている、蒼天退路さんの作品。「文明崩壊」シリーズ。最終回の末尾に、このような問いが投げかけられた

「文明とは何か」「社会とは何か」「あなたも、その一員であるか」

聞いた瞬間、そういえばあんまり考えてこなかったテーマだと思い、自分の思考をまとめてみることにしました。ここは、その恥捨て場というわけですな

しかし、手元にはまともな参考文献もありませんで。ネットにある情報や記憶をもとに、中ば妄想気分で書き連ねたものです。ご了承くださいませ。

考えるのは、とても楽しい。レッツ、机上の空論!*個人の感想です

■「文明」とは?
ヒトという種が生まれ、現代に至るまでの途方のない時間。その間に積み重ねられ、効率 性を磨き続けた結果存在する、「生き方のノウハウの総体」を、私は「文明」と呼ぶ

 ヒト(ホモサピエンス)が生まれる→狩りの道具を発明→農耕を発明→
  …→PCの発明→AIの発明→そして、未来にも文明の発展は続いていく。

Q:文明には、社会の特性が出る。これはなぜか
①地球上の陸地は、海や山脈、人の定めた国境等によって、隔てられている。今でこそ船舶や飛行機、通信機器が存在する。が、地球上すべての人間が利用しているわけでもなければ、それらの便利な技術が発展するまでの文明が、消えるわけでもないと思われる

②土地・国家により、自然環境や人のルーツ、隣国、支配国等は異なるし、息づいている人間の遺伝子も異なれば、人格・気質も異なる。人々は、それぞれの環境や思想に合わせて、発展を遂げるのが自然であろう。すなわち、「生き方のノウハウ」が蓄積することがない為、各々の文明に特色が出ると考える。

Q:文明の崩壊とは何か?
「文明」という言葉が、その語彙にふさわしい効果を得られなくなったとき、”文明は崩壊した”と言えるのではないか
すなわち、「人間の生き方を効率化するノウハウの総体」であるはずの文明が、人の生活や生命を脅かすものになったとき、その”文明”と呼ばれたものは、文明(人の生き方を効率化するもの/本来の語彙)と呼ぶことができなくなる。
この「文明(だったもの)が、文明と呼べなくなること」を、私は「文明崩壊」という状態だと考える

Q:文明はいつか、「完成」しうるのか?
完成しえないというのが、私の私見である。
人々をとりまく環境、国際世界、技術等はめまぐるしく変化を遂げてきた。
さらに、この世にあまねくすべてを、科学的に説明することは、現状できていない。
「人間が最も効率的に生きられる世界」を「完成」とするのであれば、それは一定の形を保ってはくれず、変化し続けることになる。さらに、「今の世界が最も効率的であるか?」を、実験し確かめることもできない。よって、事実上文明は完成しえない、と考える

■「社会」とは?
(媒体や場所を問わず)人々が集まり、集団が形成されたとき、”個人”とは別の”集団の意思”が生じる。この”集団の意思”が、一般に「社会」と呼ばれると考える

かつて社会学の授業を受けた際、「人と人とが交流し、相互に影響を与え合うとき、そこに社会は誕生する」と教えられた

人の数は、2人以上であれば問われない。
人間が二人いて、何らかの接触をするのであれば、社会はそこに存在する。

ミクロの最たる例では、1対1で人が向き合ったときに、介入する”バイアス(偏見)”
家族、集団、学校、職場、政府など、さまざまなサイズの「人々の集まり」
マクロの最たる例では、地球規模でみた国家同士の関わりや、環境問題
「社会」を観察する視点は、非常に幅広いことに、驚いた記憶がある。


Q:一般的に「社会」と呼ばれるものは、何なのか

しかし、一般的な「社会」というキーワードの意味合いとして、1対1の人間関係を指すことは、少ないように思われる。
「社会は厳しい」「社会に出る」といった言葉を鑑みれば、”個人”または”家庭”,”学校”といったくくりとは別の場所に、「社会」があるように思われる。
この前提をもとに考えれば、一般にいう社会とは、企業、政府、国家等、「比較的大きな集団(マクロな社会)」を指すことになろう。
しかし、家庭や学校、ひいては現代における個人が、「社会」の一部分でないとは考えにくい。
なぜなら、切り離して考えるにはあまりにも、マクロな社会との関係が深すぎるためである。
個人が血縁・夫婦の契りによって家族となり、やがて新たな”社会の構成員”を生み出す
働き手は、企業や公的機関で金を稼いで家に帰り、その金を使って生活を構築する。
国家による後ろ盾があってこそ、義務教育や国公立の学校がある
個人が選挙で投票し、国の舵をとる支配者が選ばれる…

ミクロな社会からマクロな社会へ、そしてまたミクロな社会へ。互いを人が行き来し、影響を与え合うことで、はじめて我々は、何気ない生活を享受することができるわけである

Q:集団の意思とは?

 以上を踏まえ私は、人が集まり集団を形成したとき、”集団の意思”が発生しており
この意思を指して、”社会”と呼ぶのではないかと考える
人が他人と接するとき、必ず意見の相違が発生する。しかし、人が集まる集団において、個人の意思をすべて尊重しようとすれば、「集団を捨て、個人に分離する」しか道はない。これでは、集団が集団でいることができない
よって、個人の意思とは別に、”集団の構成員が従う、意思の折衷案”または、”定められたリーダーに、集団員が全面的に従う合意”を構成しなくてはならない。集団の全員、または、集団の構成員の多くの意思とは別の意思=「集団の意思」が、ここに成立することになる。
人が集まり、敵対の意思を互いに示さなかった場合、集団が発生する。その瞬間、集団をとりまとめるため、新たな意思が発生する。
そして、集団に属する人々は原則として、この「集団の意思」に従わなくてはならない。従わないなら、「集団を崩壊させうる危険分子」として、集団の中から排除されるのが自然であろう。なにせ、集団の存在そのものがかかっているのだから。
構成員に対し、半ば強制的に従わせる力を持つ集団の意思。これこそ、一般的に言及される「社会」の本性であると、私は結論付ける。


■私は、社会を構成する人?

その通り。私は社会を構成する、ごく微細なパーツのひとつである。
現代社会に生き、集団に接して、”集団の意思”にある程度従っている以上、私は社会の一部であるといえる。
現代では、インターネット端末ひとつあれば、社会に容易につながることができるようになった。今や、日本に住む多くの人が、機械ひとつで社会に、集団に組する時代である。
さらに、5G通信やIoT、AI等が今後発展するうえで、社会はまた、変化の時を迎えると考える。5G通信とIoTが広く利用されれば、そこらじゅうの生活用品、食品、危機がCPUを供えもち、我々の行動を処理していく。つまりは、機械を直接触っていない時間すらも、世界につながるようになっていくと、私は考える。
さらには、AI技術が際限なく発展し、CPUが思考・判断する領域が広がっていけば、”AIが社会の構成要素になる”可能性も、否定できない

私たちの生活は、”一人きりの個人的な領域”が減少し、どんどん”社会に接した領域”が増えていくであろう。
その中で、どのように”自分”を示すか、ひいては、社会や文明の進むべき道を、どう選ぶべきか。社会の領域が広がる今であるからこそ、”個人”の思考力、意思の持ち方が、問われているのではないだろうか?


■さいごに:
長々と楽しく、机上の空論を語ってきましたが、結局言いたいことはひとつなんです

「文明崩壊」、とても面白く、興味深く拝見いたしました!

次の蒼天退路さんのシリーズも、心待ちにしております

めれんげ