クオリアと主観と…
文庫サーバでお話していたとき、「クオリア」という概念が話題に上がった。
軽くwikipediaで調べてみると、興味深い。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クオリア
クオリア、とは、平易にすれば「人の感じ方」…がふさわしいと思う。同じ条件で照射された光の、あの色の感じ。燃え上がるような赤い赤。その、「感じた赤の色」感覚そのものが、「クオリア」と呼ばれている。
私は、見たり聞いたり行動した時に味わう、主観的な感覚のすべて、そのものを、クオリアと呼ぶことにした。
そしてこれは、脳神経の電流だけでは説明がつかず。また観測もできないのだそうだ
つまり、私が今こうして、布団にくるまり得ている「温かさ」も。
好きだと思っている服の「色」も、柔らかい「さわりごこち」も、脳科学の届く範囲(脳、神経、その電流等)では判別できないことになる
「脳科学で解明できない」ことには、脳内麻薬(ドーパミン等)による影響や、被験者のこれまでの経験が加味されているのかとても気になるが、まあ脇に置いておこう
クオリアが問いかけるものはこうであろう
「他人が、自分の見ている赤を、おなじ色合い、感覚で見ている保証はない」
さらにそれは
「確認のやりようがない」近しい人と、本当は見ているものが違うかもしれない…!という恐れを抱く人もいるかもしれない。
私は、「クオリア、違うのが当たり前なのでは?」と思った。
クオリアの違いが人を分けるならば、それこそを個性と呼ぶべきだと思う
筋繊維のしなやかさや骨の太さ、髪の1本1本に至るまで、人と人では状態が違う。
仮に「歩いた」場合、体の重みが負荷になり、「からだ重い感じ」というクオリアを生成することになる。
筋肉モリモリさんと、スレンダーな美女と、インフルエンザの病人では、歩いた時体験する「歩く負担をどう感じるか」というクオリアは、違ってくると思われる
受け継いだ遺伝子が違う時点で、私達はそれぞれの遺伝子配合で生じた肉体に宿り、それぞれの肉体がゆえ生じるクオリアを体験し、成長せざるを得ない。
さらに、成長の過程で、肉体的、精神的に成熟していく。
たとえば、様々なものに触れ、感動すれば記憶に残る。
たとえば、事故で痛い思いをしたら、痛みに対する恐怖心に芽生え、事故の現場を「恐怖の塊だ」と感じられるかもしれない。
遺伝子上の身体スペックを下敷きにして、幾重にも、成長や経験、トラウマ、刺激、または老化等を受け、人の世界はめくるめく変化していく。それらの影響が、あるものに対する印象、色彩、見え方に影響を与えると、私は予想した。
となれば、クオリアは、たった一人の人間の中ですら、一定に保たれていないかもしれない。
美味しく幸せな時間(を感じるクオリア)をくれる「こってりラーメン」が、未来の私にとっては脂ギトギト、目にするだけで疲れるようなもの(と感じるクオリア)になるまえに
今のうちに、美味しいものをいっぱい食べたいと思う(`・ω・´)キリッ
ねむいー、おやすみなさい