地元に伝わる桃太郎 その1 桃太郎と温羅
地元に伝わる桃太郎 その1 桃太郎と温羅
日本書紀には、桃太郎のモデルとされる吉備津彦命は崇神天皇10年10月22日に他の3人の将軍(北陸方面軍丹波方面軍東海方面軍)とともに出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告とある (崇神天皇:生まれ: 紀元前148年 死去: 紀元前30年)桃太郎と鬼の戦いは紀元前2世紀から1世紀ごろの収穫の終わった秋に始まり田植え前の半年でかたがついたようである。
吉備津神社は岡山市の西のはし、総社市と倉敷市の境界の近くにある。
このあたりは地元では卑弥呼の出身地ともされ、楯築古墳という頂上に2メートルを超える大きな石が楯のように並べられた古墳時代最大の古墳がある。この古墳は前方後円墳のでっぱった部分にくわえてその反対部分にも出っ張った部分があり、こうした古墳は香川県奈良県に多い。埴輪のもととなったとされる特殊な土器も独特な模様の刻まれた石もこの岡山香川奈良で発掘されており、加えてその古墳の形が似ていることと箸墓古墳のようにいずれもその時代の最大の古墳であることから地元では卑弥呼との関連性がささやかれてている。この地は明日香村と雰囲気もそっくりなので類似点を指摘する人が多い。
この地は数年前にも大きな水害に襲われた。そうした際に雰囲気の似て水害の危険性が少なく大陸の侵略者からも守りやすい奈良に移ったのではないと地元の人は考えている。
現在この地には日本で4番めの大きさの前方後円墳がある。
いずれもかつてこの地に大きな権力を持った人々が住んでいたことがわかる。
吉備津神社に伝わる縁起によれば、吉備には温羅(うら)という鬼がいて人々を困らす悪さをしていたらしい。
このため孝霊天皇の皇子、吉備津彦命が征伐に行幸し今の吉備津神社のあった所に陣を構え「鬼ノ城」に棲む温羅と対峙した。
命は得意の剛弓で矢を射るも温羅は山ほどの岩を次々と投げこれをことごとく落す。
矢の落ちたところに今も「矢喰の宮」が建つが、これはいかんと命は二本の矢を同時に射、片や大岩に、残る一方が見事温羅の目に命中。どくどくと流れる血が「血水川」となった。
たまりかね、温羅は鯉に化け流れに身を隠す。それを見た命は鵜と姿を変え、今の「鯉喰神社」のある場所でついに逃れる温羅を捕らえたという。
あちこちにユニークな地名を残すこの温羅退治の伝承と民話として全国に語られる「桃太郎」の類似性から、岡山が桃太郎伝説の舞台だと言われるようになったとされる。
つまり大和朝廷が全国を統一する過程で百済の影響の強い人々が住む中国地方での戦いを描いたものが、桃太郎の話のベースになっているということらしい。
地元では、温羅は百済の国王の王子の一人とされている。岡山県の南部、瀬戸内海に面する地域には「王子ガ岳」という名も残りこの地域一帯に百済からやってきた人々が移り住んでいたらしい。紀元前一世紀よりも少し前、ちょうど日本に鉄がもたらされる頃この地域に鉄と同時に、稲作も灌漑の方法も船のつくりかたも教えてくれたのがこの温羅の一族とされている。今もこの地には6世紀ごろの鬼の城という朝鮮式の立派な山城が残っている。目的は不明だがここからは、瀬戸内海が良く見えるので、瀬戸内を通ってやってくる人々の見張り台の役割を果たしていた施設だったと考えられている。瀬戸内の神社には、百済の王子が攻めてきてあと少しで勝利というところで敗れその時の傷が原因でなくなったためここに葬ったという言い伝えがあるところも何か所かある。特徴的なのこうした伝承は決して百済を敵とはしていない。西日本の人々にとって横暴で過酷な税や兵役を命じてくる大和朝廷をやっつけてくれればなんでもよいのである。特に日本への百済からの鉄の伝来は大変なことだったらしい。鉄は武器にもなるし農機具や土木工事の道具にもなる。飛躍的に生産が増し軍事力も圧倒的に増強される。だから他の朝鮮半島諸国は絶対に日本に教えなかった。だがこの温羅の一族は日本に鉄を伝え、武器も農機具も作り、灌漑もして、船も作った。
鉄は中国山東半島から日本にもたらされたという説もあるがこの地では
百済から伝えられた鉄の製法が使われていたようである。
今もこの辺りには古代の最大の製鉄所のあとが残っている。今はゴルフ場の敷地内にあって一般の人は入れないようになっている。鉄が普通の田畑にも紛れ込んでいる
岡山県の北部と違って、南部は地面を掘ってでてくる砂地から鉄を作る。だから岡山の南部の山は穴だらけである。子供のころから山には絶対に入らないよう子供は
教えられる。当時の最先端の技術をもたらし生活を豊かにしていた温羅。
その勢力の急激な伸長を恐れた大和朝廷。その戦いの跡が多くの地名として現地には今も残る。地元の桃太郎と一般の桃太郎の違いは、最初は空中戦で始まり、最後は水中戦で勝負がつくと言う点である。弓で攻撃する吉備津彦に対して石をぶつけて矢の威力を温羅は押しとどめたとされる。そして竜のように温羅も吉備津彦もそらを飛んで戦ったとある。それでも勝負はつかず川での戦いで決着がついたとされる。
鬼の城は400メートルほどの山の上にあるので、そこから大凧や太古のハンググライダーそして地元でとれるウランで水蒸気をふっとうさせてプロペラを回し飛行機も作っていたようだ。地元には今も石でできた当時の発射台が多数残っている。本来は瀬戸内海にやってきた敵の船を空から弓で攻撃する際にこうした空からの攻撃を行ったようである。空から矢や火矢を放つ。この戦法は中国の春秋戦国時代に考案されもうこのころは日本に入っていた。大陸の先進技術を有していたのが
温羅の軍勢の強みである。空中戦で勝てなかった吉備津彦命は今度は川で
船を使った作戦に変更する。この戦いで決着がついた。魚に化けた温羅を
鳥に化けた吉備津彦が食べて決着がついたとされているので何らかの吉備津彦乃軍勢の奇襲攻撃で勝負がついたようだ。このころ同時に出雲を攻めた大和朝廷軍はだまし討ちで勝利を手にしている。当時の大和朝廷の戦いぶりはいずれも苦戦である。当時最新の武器鉄を使った兵器で武装した中国地方の軍勢には勝てない。さきほどの出雲のだまし討ちもそうだが、和議を結ぶと称してともに入浴してひそかに隠し持った刀で刺し殺すような卑劣極まりない戦法でいずれもやっと勝利を手にしている。正々堂々の勝負を挑んでくる百済ゆかりの最新の武器と戦略を有した軍勢に対してありとあらゆるだまし討ちで大和朝廷軍はいずれも勝利を収める。そのためこの時代の戦いの詳細はいずれもほとんど残されていない。風土記をはじめ明らかに大事なところが故意に失われている。不都合な真実が多いのである。
終戦協定を結ぶ際に温羅は、自分の遺体をこの地に埋め、将来のこの地の吉凶を占う手助けをして繁栄を見守りたいと申し出る。巫女として妻にその吉凶を告げさせてほしいと言う。その願いはかない今もこの窯を鳴らして吉凶をうらなう神事は行われている。生涯をこの地域の発展のため最新の技術を導入して大いに発展せしめたもののそのことで逆に警戒されて滅ぼされた。
死してなお地域のために貢献している。見上げた人物である。地域の人々が様々な外国のノウハウをとりいれて取り組みが成功し始めると
中央政府が邪魔をする。それは今も昔も変わらぬ構図なのだ。
この温羅の遺体を葬った今も残る吉備津神社の正面には賊を滅ぼし民を平和にすると大きく書いた木の額が掲げられている。毎年多くの人々がこの
神社に参るが地元の人が感謝お祈りをささげているのは、吉備津彦命ではなく温羅である。地元では桃太郎は侵略者なのであり、ヒーローは温羅である。地元の英雄が全国的には真逆の悪人にされている点に地元で伝わる話を知っておくことの意味だと思う。