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悪い芝居vol.18『メロメロたち』初演を観た。

コロナ禍で暇を持て余している中でたまたま存在を知り、悪い芝居「メロメロたち」初演をサブスクで観て、がっちり心を掴まれてしまった。音楽のことを書くのとは別の人が書いたみたいな文章になりそうだけれど、残しておこうと思う。

メロメロたち

悪い芝居vol.18『メロメロたち』は、2016年に上演された作品だ。

現在は、演劇作品のサブスクリプションサービス「観劇三昧」で全編を見ることができる。

(心を掴まれすぎたのでDVDパンフレットを買ってしまった…)

ロックバンド”メロメロ”と、東西に分かれて内戦中の日本でそれを追いかける女子高生の物語。2017年には脚本がOMS戯曲賞を受賞し、2018年には同劇団が別の主演女優を迎え、悪い芝居vol.21として再演している。

(再演版はYouTubeで全編公開中。)

小劇場演劇の世界

小劇場演劇の世界は自分にとってずっと、近くて遠い場所だった。大学の哲学ゼミで感情についてああでもない、こうでもないとやっていたころの基礎文献にはかならず悲劇論が登場したし、ゼミにも演劇をやっている人がよく出入りしていた。ゼミの人だけでなく、中高生の頃から演劇を好きな友達が割とずっと近くにいたし、大学では友達を観に行くために、今にも屋根が落ちてきそうな小劇場に何度か足も運んだ。

そこまで近くで演劇への接点がありながらもなんで遠い場所だったのか。それは、自分が物語ものを遠ざけて生きてきているからだと思う。もともと映画やドラマなど映像作品に過剰にのめり込むタイプで、ハラハラドキドキさせられるのが苦手であまり自分から見ようと思わない。演劇も似ていて、一度物語のスイッチがONになって幕が開いてしまったが最後、リアルな世界では感じないようなその世界で描かれた感情の動きに飲み込まれて完全に消耗してしまう。一体化させられるようではっきり言って怖い。でも、一度腹を決めて飲み込まれたら、それはそれで楽しいこともある。

だから友人が、とか、好きなテーマが、とかきっかけがあったら、少々腰が引けながらも恐る恐る足を踏み入れて、言語化できないような感情をどっさりもらって帰ってくるような場所が小劇場演劇だった。近づきすぎるとこわいから、ぼんやりとした状態のまま遠くに置いておこうとしていた部分もあるかもしれない。でも、『メロメロたち』を観て、遠くに置いておきたかったものが境界を壊してこっちにめり込んできた、ような感覚に襲われた。

(以下作品のネタバレを含みます。台詞についての記載は聞いた内容であり正確な引用ではありません。)

「音楽なんてなければよかったのに。」

この舞台は、ロックバンド”メロメロ”と、そのバンドの大ファンである高校生・生恥つづき、その周りの人々の中で展開されていく。東西に分かれて内戦中の日本で、”メロメロ”は戦地をツアーで廻っている。シャウトしまくるし音圧もガンガンくるような演奏スタイル、歌詞もセンセーショナルなもので、反戦・反権力的なメッセージを伝えるバンドとして話題になっている、という設定だ。しかし、当の本人たちは反戦メッセージなどは何もなく、「すべてのものに×0(かけるゼロ)」すべく何かから全力で逃げて全力で追いかけるだけ、というスタイルだった。

危機的状況において音楽が語られるとき、音楽は大概「音楽の美しさ」「一体感」「勇気をくれる」「なにか大切なメッセージを伝える」のような文脈に置かれがちだ。でも、この舞台では音楽はそんな綺麗なものとして描かれない。音楽はつねに人生にまとわりついて、出会ってしまった人の生き方を狂わせてしまうものとして、ヒリヒリするような感じで舞台上のそこ彼処に落ちている。そんなふうに存在を賭けて、その時の感情を全部晒すように舞台上で造られていく音楽は、きいていて心が痛くなる。でも、一生懸命受け止めたくなるような痛さを持った音楽な気がして、舞台上で暴れ回る音からなるべく逃げずに、全部浴びようとしてしまった。

この舞台では役者さんが演奏もするので、演奏・台詞・歌が渾然一体となって感情を揺さぶってくる。美しいだけが音楽じゃないけど、苦しくてどうしようもないだけが音楽でもないことを、生演奏と力のある歌がガンガン伝えてくる。作曲の岡田太郎さんはイカれたバンドメンバー役でもある(賞賛)。何者。

自分と他人の境界

主演・石塚朱莉さん演じる生恥つづきは、憧れのロックバンド”メロメロ”のライブに行くときに、「会いに行きたいわけじゃない」理由について示唆的な台詞を持っている。

「自分自身には会われへんし、会いたくないやろ?会えるんは他人や。会ったら他人になってまうから嫌やねん。」
「音楽だけで繋がれてたらええ。銃で撃てるのも、他人やからやろ?」

生恥つづきは、このあと学徒動員で送り込まれた戦地にて”メロメロ”のボーカルを撃ち殺してしまう。戦後、数年間を引きこもって暮らす生恥つづきが何を想っているのか、完全に理解することは難しい。大好きなバンドのボーカルを自分自身の銃で撃ち殺してしまった、しかし、つづきは「そんな死に方めっちゃかっこいいやんと思っちゃいました」と言い放つ。そしてそれに対して「ほんっとうに最低な人間だったな、って思いました」と告白する。

まるで自分の一部であるかのように特別に想っていた他人を自ら殺めることで、絶対的な他人として自分から引き剥がしてしまう。そして、完全に自分から分離された他人を見て、ある種の美しさを感じてしまい、そんな自分に対して絶望する。こんな感情は無ければよかった、こんな自分じゃなければよかった。でも気づいてしまった自分からは生きている限り逃げることができない。どこまで行っても自分の一番嫌で恥ずかしい部分は、自分から引き剥がすことができない。そんなふうに、どこにも遣り場のない感情に苛まれて生恥つづきは苦しむことになる。

そんなどうしようもなくなった人間が生きていく助けになるのも、絶対的な他人の存在である。劇中では中西柚貴さん演じるつづきの親友・逆走たみがその役割を果たす。親友といってもふたりは、なんでも共有しあえるような一体感のあるズッ友!みたいな関係ではない。一緒にいるし、お互いに気にし続けているけれど、相手の思うことは全てはわからないという前提に立ち、しかも相手の大切にしている世界には簡単には踏み込まないような、自他の境界がはっきりついている友達関係だ。銃でだって撃てる。

たみがつづきを苦しみから引っ張り出そうとするときに、”メロメロ”のライブに行け、とつづきを説得するシーンがある。そこでの台詞の応酬がこの劇のヤマ場の一つであると思う。自分と他人の今まで安定していた境界を壊すのはめちゃめちゃ苦しいはずだけれど、たみは自分からそれをやらないとつづきに自分の声を届けられないと気付いてしまい、ぼろぼろになりながら踏み込む。そして踏み込まれたつづきはたみの声を受け取ってしまい、固く引いていた境界を泣きながら壊していく。たみとつづきは他人であったからこそ、痛みを感じながらもお互いに踏み込むことができた。「自分自身には会えないけど、他人には会える」からこそできることがあるし、届けられる声がある。

境界が壊れた後、つづきとたみは一瞬で境界を引き直す。この感じが初演版と再演版では結構違う(初演版の方が境界が出来上がるのが速い)な、と思った。石塚朱莉さんの生恥つづきのほうが感情が荒れくるっているのに孤独に見えて、中西柚貴さんの逆走たみも初演版の方が余裕が無さそうなキャラクターに見える。主演が変わっているから2人の関係性も違うはずで、そういうものなのだろうけれど面白い。自分は初演のほうのつづきとたみをこのタイミングで見たからこそ、掴まれてしまったんだろうなぁとも思う。

はずかぴー!けど人生を愛する

戦後、”メロメロ”のボーカルの死に人生を揺るがされた生恥つづきと、同じく揺るがされた”メロメロ”のドラム・雑味葉蔵が邂逅するシーンが好きだ。戦争が終わった後、それぞれの葛藤を抱えて引きこもって暮らしていた二人が、切り口は違えど同じことを考えて過ごしていたことがわかるシーンである。

生きてる限り、生きて、恥をかき続ける限り。
生きてるだけで、もう恥や。
それが転がる音がずっと聞こえる。はずかぴー!

生きている限り、思いがけず自分と出会ってしまう瞬間は来る。厳密に一人で生きることはできず、他人に影響を受けたり与えたりしながら生きていくしかないので、なおのことだ。そのときに出会ってしまった自分が、出会う前まで思い描いていた自分と違うということに気付いたとき、どうしようもなく恥ずかしくなってしまう。急に襲ってくる恥ずかしさ発作についてこんなにもぴったりに言い当てられたことはなかったので、自分と重ねて思わずどきっとした。

しかも、それでも生きるのは止まってくれないので、その恥ずかしさと一緒に進むしかない。それを、恥ずかしさが「転がる音がずっと聞こえる」と鮮やかに言い切る。現実よりも練った、ぴったりの言葉を感情の動きと同時にぶん投げることができるところに、演劇の強さを感じた。

そして、恥ずかしさと一緒に生きていくしかないことを、この物語は力強く肯定してくれる。

ライフイズラブリー
人生はかわいいです
感動するためだけに生きていたいです

生きているだけで恥ずかしい。でも、恥ずかしさと共に生きていくしかない人生は、めっちゃかわいい。クライマックスの場面で、生恥つづきは”メロメロ”と共に劇中歌「ライフイズラブリー」を歌う。生恥つづきとバンドメンバーがそれぞれに、この強すぎる肯定の言葉を、誰から押しつけられるでもなく自分でたどり着いたものとして、挑むように曲に/歌にするシーンは、とても荒々しくて美しかった。

舞台や歌では、「伝えたいこと」に対して、説明に使える言葉が極端に少ないように思う。文章で伝える時のように説明を重ねたり、会話時のように伝わらなかったときにリトライすることができない。感情の動きや持っていきかたを十分に練った上で、一発でぴったりの言葉を選び抜いて投げることしかできない。「人生はかわいい」なんていう命題、言い切るには謎すぎる。本当にかわいいで良いのか?そもそもかわいいって何のことだ?など、突っ込みどころは無限にある。でも、舞台上で、それまでの物語を背負って生きる覚悟を持った登場人物が語る限りは本当だ。こうやって言葉を使うこともできる、と気付かされたことは自分にとって驚きで、そしてその伝え方を選べるのは強いな、と思った。やり直しの効かないこの伝え方を選んでくれている人たちが居るからこそ、観られる世界がある。

終わりに

私がこの作品に心を掴まれてしまったのは、今まで気にはなっていたけど遠くに置いておきたかった演劇が、私のほうに一歩踏み込んできたように思えたからだと思う。自他の境界を壊されることは苦しいし恥ずかしいけど、感動するし生きていく糧になる。劇中歌「ライフイズラブリー」の中のこの一節が、どうしようもなくなりながらも生きていくしかないことを力強く肯定してくれているようで、頭から離れない。

「オワリマシタ」の 「つづき」から
ほんとの価値が 出るのよね
ほら たくさんなくした
でもまだ僕は ここにいる

この舞台のことを書きたいと思ったのは、対象化することでせっせと新しい境界線を引き直す作業をやりたかったからなのかもしれない。心を掴まれて終わり、ではなんとなく心が痛いままの気がして、なんとかつづきを見ようとしたらこうなった。

こんなもの演じてしまったら人生変えられちゃうんじゃないかとすら思ってしまう。演劇に行くときは自分と他人の境界線を破壊して作り直すその過程を生で見せてもらうためにお金払ってるんだなぁ、とつくづく感じた。音楽もそうだけど演劇も、人が集まる芸術活動は不要不急の密(?)として死に瀕している。歌うことや演じることといった概念はなかなか死なないかもしれないけど、その時代を生きる活動の担い手は簡単にいなくなる。これからの世界でもまだ演劇が観たいし音楽をきいていたいので、できることをやりたい。

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