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悪い芝居vol.23 『暴動のあと、さみしいポップニューワールド』を観た。

『メロメロたち』を観てから、”悪い芝居”から目を離せない。

現在サブスクやYouTubeで作品を公開されているのと、それぞれのインタビューなどでかなりの量のテキストを公開されているのとで、どこまでも掘る情報がある状態だ。好きだと思ったことについて情報が一瞬で手に入るのは大変良い時代ではあるが、そのまま好きを消費してしまいそうになってぞくっとすることもある。今回は2019年に上演された、vol.23
『暴動のあと、さみしいポップニューワールド』の感想を残す。

二本立て公演

この作品は、vol.22の『野性の恋』という作品と対になったかたちで「恋と暴動の悪い芝居15周年記念 新作二本立て本公演」と銘打って上演されていた。普通ならば1つの上演期間に上演する作品は1つになるところを、同じ作演出家の方と、同じキャストと、同じ舞台セットとで、2つ演じようという試みだ。2作品はパラレルワールドのようなつくりになっていて、「恋」の方は恋愛をメインテーマとしてまわる会話劇、「暴動」はもっとポップでミュージカル調の(?)テンポの良い舞台だ。

どちらも、現在YouTubeで全編が公開されている。
(以下作品のネタバレを含みます。台詞についての記載は聞いた内容であり正確な引用ではありません。)

わかるけどわからない理屈っぽさ

主人公・夏木煙子は3歳の時に歌手になるとかたく心に決め、すべてをいつかうたう歌の素材にしようと目論見ながら生きる、ちょっと説明し難い女の子だ。『暴動のあと、さみしいポップニューワールド』は、煙子が歌手になると心に決めてから、歌手になるために奮闘して生きて、そして歌手になるのをやめるまでを描いた半生記である。物語は、煙子が「歌手になるのをやめる」と決心するシーンをはじめに見せ、それから煙子3歳の頃まで遡り、彼女の成長を共に追うかたちで進行する。

こう言葉にすると、予想しやすい筋書きの成長物語にしか見えないが、”暴動”で観られる物語はそれよりもいくらか「変」である。清水みさとさん演じる夏木煙子がどんなふうに「変」なのかを言葉で説明するのは大変難しい。これは見ればわかるのだが、言葉で説明すると「変じゃない、むしろそうとう理屈はととのっている」ふうに映ってしまうのである。彼女は幼少期から一貫して理屈っぽいキャラクターで描かれる。煙子の言うことや考えることは至って真っ直ぐで正しいのだが、世界と真っ向からズレているのだ。溌剌とした子どもにしか見えない演技と理路整然とした喋りがミスマッチでちょっと笑ってしまうけれど、その2つをミスマッチだと感じてしまう自分にもちょっと笑ってしまう。子供が理路整然としていてなにがおかしいのだろう。ここで私たちは、いかに「普通の世界」が論理的に動いていないかを思い知らされることになる。それでも、この舞台はミスマッチによる意図的な世界の綻びをものともせず、テンポと歌と台詞の応酬を燃料にしてガンガン進んでいく。

対になる『野性の恋』は”言葉やルールじゃどうにもできないもの”として「野性」を正面から描いた作品であることを考えると、こちらは”言葉やルールで説明をつけること”を過剰に描こうとすることによって「野性」に気づかせる類の作品であるように思う。

歌を基軸とした存在論

夏木煙子は、物語の中でいつも理路整然としているが、その様子がどうしようもなく突拍子もなくうつることがある。歌手になるのを決めたりやめたりするシーンがそもそも突拍子もない。他にも、修学旅行で単独行動してみたり、謎の新興宗教の船に乗ってしまったり、”普通の人ならそうはならない”だろうことを真っ直ぐにやってしまう。なぜなら、それらのことは煙子の中では全くもって理屈に基づいたことたちだから、であるのだろう。

人生すべての瞬間が、わたしの歌の素材になる。
そのすべての瞬間を掻き集めて、歌にする旅に出るの。

この信条のもとに、夏木煙子は経験をする、もとい人生をすすめる。受験をしてみたり、オーディションに出てみたり、旅に出てみたり、そのすべてのことが歌という目的に結びつくことで、肯定的に捉えられる。すべてはいつかうたう歌のために存在する。これは歌を基軸としたある種の存在論である。うたうこと、つまり表現することこそが至上の目的で、ほかのことは表現のために存在していることになる。そして、ほかのすべてのことに対しては徹底して存在理由を求める夏木煙子は、ある時までは、至上の目的であり彼女の世界の根源である「歌手になりたいこと」に対して、理由を持つことはなかった。

歌をうたうためにうたう歌なんか、歌じゃない

しかし、物語の後半で、自分と歌を他人に利用されそうになってしまった夏木煙子は、咄嗟にこう口に出す。

わたし、どうして歌手になりたいかわかった。
今まで出会ったすべてのひとたちと、笑顔で何度も出会うため。

これは、自分の存在と歌を、他人の目的達成のための手段に利用されるのは違う、自分のために取り返さなければ、と思った煙子の嘘のない台詞だと思う。しかしここで、夏木煙子そうじゃない、君はそう生きてはこなかった、と思わされてしまうのがこの舞台の凄みだと思う。煙子はここで勢いあまって、自分の世界の根源である「歌手になりたいこと」を手段に据えてしまう。表現することこそ目的であったのに、それよりも上位の目的をこの台詞によって見出してしまうのだ。このシーンで歌、そして表現することをうっかり生きる手段に据えてしまった煙子はこのあとどう生きていくのだろうか。そのような不安を舞台上にふんわりと香らせてから、物語は冒頭で見せられた煙子の決心に辿り着く。

歌をうたうためにうたう歌なんか、歌じゃない。
だからわたし、歌手になるのやめる。
わたしの歌を今か今かと待ち望む誰かのためにうたう歌ならいらない。

歌が他人に届けるためのものになってしまう。自分がうたおうとする歌が、自分の才能を認められ、生き方に魅入られ、作品を心待ちにされ、それに応えるための歌になってしまう。自分の「世界の根源」であった歌を他人の手段にされそうになったからといって、自分の手段に取り返して満足していいはずがない。夏木煙子は歌手になるのをやめることによって、うたうこと・表現することを、自分の「世界の根源」の位置にはっきりと戻した。

何のためにうたうか、なんのために生きるか

自分の基準をもって世界をとらえようと奮闘する夏木煙子は最高に理屈っぽく、そしてその中で存分に表現し生きる彼女は愛らしく、魅力的だ。煙子が歌手になるまでの映画を撮りたい、といって煙子の半世をともに観て回る青年・睫毛沢巡もまた、彼女の魅力に惹かれている。そんな彼が、煙子が歌手にならないと決意したときに一瞬見せる拒絶と抵抗の表情が心に焼き付いている。きっと観ている私も、心の中何パーセントかはその表情をしている、と見透かされたような思いだった。

「そんなの納得いかない。」
「納得いかないのは君。君だよ、睫毛沢巡。」

煙子が漸く自分の世界を取り戻したのに、彼女を好きになって魅せられてしまったはずの彼・そして私は、それを利用して、彼女の人生とその歌を手段にしてしまおうとしていたのだ。無自覚的に煙子とその歌を消費しようとしていたことに気づかされてちょっと自分に失望するとともに、自分なりに世界を理屈づけて生きていくことの難しさを痛感した。

何かや誰かのためにうたうのは間違いか、と言われたら、絶対にそんなことはない、と思ってしまうし、表現をほかの何かのための手段とすることは日常生活ではありふれている。しかし、表現を手段としてしか認めないようにしてしまうと、「じゃあより良く伝えられるように、上手い人がうたえばいいやん」というように、ほかの誰でもない自分が表現することの意味が失われることがある。手段としてうたうのか、目的としてうたうのか、どちらが良いとかはきっと無い。そのどちらかをはっきりと選んでしまうと綻びがうまれるので、現実的には表現者はきっと、そのあわいを縫って生きている。そこに明確な理屈を求めてしまうと、きっと「歌手になるのをやめる」ことになってしまうから。

撮りたければ撮れば良い。聴きたきゃ聴きゃあ良い。
どうぞご自由に。
わたしはただの夏木煙子として生きる。

ほかの誰かに伝えるために表現することを放棄しながらも、「どうぞご自由に」と拒絶はしない。煙子はこうやってあわいを縫う余地を与えてくれる。歌手になるのをやめた夏木煙子がうたう自由があり、彼女がうたう歌を聴く自由もまた残されているのだ。

暴動のあと、さみしいポップニューワールド

表現することは生きることだと思うけれど、「なぜ表現しているか」は理屈ではっきりさせずに遊びをのこしておきたい。目的を果たすためだけでも、生きるためだけでも、それが自分の世界の根源だからだけでもない。むしろ、そこに遊びをのこすためには、理屈でもなんでも使って全力で闘っていたい。『暴動のあと、さみしいポップニューワールド』を何回か観た後の感想がこんなところに行き着くなんてはじめは考えてもいなかった。

理屈をはっきりさせて、歌を基軸にすべての世界を組み立てていっていた夏木煙子は、確かに暴動に突入していく。それは、自分の生きる世界の根源をゆるがされる暴動だ。そして暴動が終わったあとに待っている、表現することを取り戻した「ポップニューワールド」はさみしい。このさみしさは、はっきりさせてはならない心の拠り所のなさからきているのではないだろうか。それでも表現することは、このさみしさと闘っていくことなのかもしれない。舞台の終わりに深々と礼をされる役者の方々を見てそんなことを思い、わたしもまたポップニューワールドをさみしいままにしておきたい、と思って勝手に、文章をかいたのだった。

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