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やっぱりクレズマー・クラリネットが無敵 - クラリネットジャズ紹介8

8回目はDon ByronのPlays the Music of Mickey Katz

アルバムの表題にあるMickey Katzとは、イディッシュ語とクレズマー(ユダヤ系民族の伝統音楽)の要素をふんだんに盛り込んだ編曲のコミック・ミュージック(訳すと、冗談音楽?)を提げて1950年代に活躍した、クラリネット奏者でありコメディアン兼バンドリーダーである。そして今回紹介するのは、現代アメリカのクラリネット奏者であるDon ByronがMickey Katzの曲をリメイクしてつくったアルバムである。Don Byron自身も、両親共に音楽家(父親は、カリプソを演奏していたそう)であり、ジャズやクラシックを聴いて育ち、学生の頃からクレズマーのバンドも組んでいたという。演奏者・題材ともに属性がありすぎて、単純なカテゴライズをするのは相応しく無さそうに思える。このアルバムについてわかったり語ったりするのは難しそうに思えてしまうし、ジャズ紹介と言ってしまうのも、本来なら違うのかもしれない。でも、語ることに対するもろもろの躊躇を跳ね除けてしまうくらいには、このアルバムのクラリネットは無敵だ。

クラシックで求められる、啓蒙の光みたいな真っ直ぐな音、天使の声みたいな優しい芯のある音。スウィングジャズで活躍する、道化師みたいにステージ上で目を引く、くっきりして伸びのある音。他にもいろいろな音楽にいろいろな音でもって応えるクラリネットだけれど、クラリネットは民謡由来の音楽に乗せられたときにも溢れんばかりの力を持つ楽器だ。クレズマー音楽のクラリネットは、主体的にコントロールして美しく吹く、というよりは、祭りの高揚感とか、喜びとか喚きたくなる気持ちとか、人間のコントロールを超えた大きな力に吹かされてしまう、ような音楽に聞こえる。このアルバムでDon Byronは、Mickey Katzの音楽のおちゃらけな面をすこしだけ潜めさせ、モダンになるように聞こえ方を調整しつつ、クレズマーの色を強くして、クラリネットが「吹かされてしまう」音楽に不可欠であることがよく見えるようなアレンジをしていると思う。

クレズマー音楽のクラリネットの響きを存分に聴けるのは一曲目のFrailach Jamboreeや最後のWedding Danceだと思う。トランペットやトロンボーン、フィドルと一緒に、目立つ和音を作りながら最高音で突き抜けてくるクラリネットを聞くと、これは正気ではないな、と思わされる。「楽器を練習する」のとは違うスイッチを入れて、音楽の渦に飛び込んで、歌わされるがままに歌い上げる感じだ。人間が、ちょっと狂っていて誰にも止められなくなってしまうような側面を持っているのだとしたら、クラリネットはまさにそういう、無敵の音楽にぴったりの音がする笛だと思う。

Sweet and Gentleや、Paisach in Portugalのような、全く違った曲調の曲に途中からクレズマーが押し寄せるといった編曲は、Mickey Katzがよく行っていたものだ。ここでもやはり、クラリネットは圧倒的なスピード感でもって、天井を縁どるように突き抜けてくる。感情の発作みたいな、それも説明しやすい劇画的なやつではなくて、脈絡なく襲ってきてはスッと居なくなるタイプの感情の動きが、曲の中に素知らぬ顔をして居座っている。Mickey Katzはクラリネットを通して、コミカルにパッケージされた音楽に何を語らせたかったのだろうか。

そしてこのアルバムの聴きどころをもう一つ挙げるとしたら、Prologue: Shed No Tears Before the Rainと、Epilogue: TearsというDon Byronの語り(のような曲)が用意されているところだ。クレズマーのリズムや独特の和音に頼らず、あえて分類するとしたらフリージャズっぽい曲だ(全く分類できていない)。はじめは踏み締めるように語り始めるのだけれど、それでもどこかクラリネットに引っ張られて、自分のコントロールを超えた何かに吹かされてしまう、それでもまた手綱を握り直す、そうしながら音を重ねるような曲に聞こえる。”雨の前に涙を流すな”とプロローグで言い、エピローグは”涙”であるのなら、Mickey Katzの楽曲は雨であったのだろうか。クラリネットは無敵だと思うけれどDon Byronがこのアルバムで語りたかったことはまだ掴めていない気がして、きっとまた聴いてしまう。

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