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8|教育実習を前にして、今と、昔のわたしが思うこと。


教育実習が始まる前に、どうしても、気持ちの整理がしたくて、4月の頭からしばらく書いたり消したりしていたんだけど、
昔のことを思い出すのはキツいし、うまくまとまらないし、気づいたら5月の終わりになってました。

けど、どうしても書き残したかったので、最後まで書きました。
結論もオチもない、ただの今の気持ちのまとめです。

暇だったらどうぞ〜

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いじめと、
当時思っていたこと、
いじめがなくなってから感じたこと、
卒業してから思ったこと、
教職を取ってから分かったこと、
教育実習を前に思うこと。

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私の中学校は、複数の小学校から卒業した生徒が通っている学校だった。
学年の半分くらいを占めるA小学校のわたしたちの学年は、いわゆる「荒れた」学年だった。

小学校からそういう環境で過ごしてきているから、トラブルが起こるのはある意味彼らにとっては日常だったのかもしれない、と今になってみて思う。
慣れるべきでないことに、慣れてしまっていたんだと思う。

だから、毎日のように嫌がらせやイタズラが起こったり、
明らかに悪意のある言動が飛び交っても、声を上げない層がどのクラスにも一定数いた。

彼らは声を上げられないんじゃなくて、上げなかった。彼らにとって毎日起こることは、たぶん、声を上げるまでもないことだった。


いじめはしばしば加害者、被害者、観衆、傍観者の4層構造でできている、といわれる。
じゃあ、声を上げなかった彼らはというと、2つに当てはまると思う。

①傍観者
彼らは一般常識から見て、明らかにズレている教室の空気に声を上げなかった。
特定の人が攻撃されているのを見ても、何もしなかった。

②被害者
あるべき人権感覚が、あるべき形からずれてしまっているから、彼らは傍観者として見て見ぬふりをしたというよりは、
もはや声を上げるまでもないことになってしまっていたんじゃないか。
6年間の小学校で、そうやってすこしだけあるべきものが失われてしまったことは、被害者と言ってもいいんじゃないかと思う。
当時はどうして?変だと思わないの?なんで?で頭がいっぱいだったけど、今やっと客観的に考えられるだけの時間が経ってみて、
彼らも彼らで犠牲者だったのかもなぁと感じる。

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加害者は、特定の誰かを攻撃することもあれば、ただ暴言を吐いたり暴れたりして、
教室には常に緊張感と、不快感と、恐怖があって、直接攻撃された個人も、そうじゃない周りも含めて、教室の大多数がそれを感じていた。



クラス全員が毎日犠牲だった。

ついでに言えば、学年主任は鬱病になり、クラス担任も日に日に口調が荒くなり、先生たちもすこしずつ変化していった。
先生たちまでたぶん、犠牲だった。

わたしは毎日どんどん起きれなくなって、他人の介助がないと布団から出られず、一日中頭が死ぬほど痛い毎日だった。
起立性調節障害の診断が降りて、カウンセラーさんと相談して、朝は保健室に登校することにした。
体はすこし楽になったけど、自分だけが楽してるみたいで、罪悪感に押しつぶされそうだった。
毎日が地獄だった。


個人的に攻撃されていたこともあったけど、
自分だけ甘えているような気がして、毎日ごめんなさいが頭の中をぐるぐるしていた。
今日はこういうこともあったけど、明日はきっと1日たのしく学校にいける。
今日はまただめだったけど、明日はきっと、
まただめだった、明日こそは、
きっと明日は、
また明日は、
明日、
明日も?

明日のことを考えるのに、少しずつ心が耐えきれなくなっていった。

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それでも、学校はあんまり休まなかった。
毎朝学校に行きたくないって泣いたけど、勉強はどうしてもやりたかった。
勉強は昔から好きだった。
記号の羅列でしかない英文や数式が、授業を受けると急に意味を持って見えてくるのが面白かった。

どんなにつらいことがあっても、嫌がらせがあっても、学校は勉強するところだから成績が良ければ先生たちが認めてくれた。
なにより、頑張りが点数になって、目に見える形になることは、わたしの支えになった。(テストになると努力に裏切られることもあるけど)
最後の通知表は41/45点(9教科5点満点評価)で卒業した。
卒業式で、隣のクラスの先生が
「よく3年間通ったな。1年生の頃、隣のクラスのお前を見て、もう学校に来なくなるんじゃないかと思ってた。よくがんばったな。」
と言ってきた。
つらいときに頑張ることや、学校に無理してでも行くことがいつでも適切ではないけど、
このときは頑張ったことを見てくれてる人がいるんだって、すごくうれしかった。

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(また話が暗いところにもどります…)

あるとき、母が学校に面談に呼ばれた。
私には知らされなかった。
だから、母がいつもより早く家に帰ってきてびっくりした。

先生は「(加害者)は、もともと感情の波が激しい特性で、薬を飲んでコントロールしています。薬を飲み忘れてしまった日に、たまにああいうことが起こってしまうんです。仕方のない部分もあります。」と言ったと、母は言った。(母からの伝え聞きだから、実際のところはわからないけど。)

仕方ないんだ。と思った。

机に花束が置かれたとき、死ねって言われたとき、学校に来ないでって言われたとき、自分のものを蹴られたとき。
いつも合言葉みたいに「仕方ない」が頭に浮かぶようになった。
その分、心が死んでいった。

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このことが、ずっと引っかかっていた。

大学で、教職の授業で、学習障害のことや障害まではいかないけど、強い特性を持つ子どものことを勉強した。
教職の授業は、自分が教員になったらっていう気持ちでいつも受けていたから、こういうことを勉強すると、配慮が大切だってことはよく分かった。

分かったから、じゃああのときの面談のことは、どうしたらよかったのか、ますますわからなくなった。

当時も、卒業してからも、
もっと先生には守ってほしかったって思ってた。
加害者にもつらいことがあるのは分かるけど、それでも、もうすこし守ってほしかった。

それが、大学で勉強したら、
先生の立場だったら、どうしたらよかったんだろう?になって、答えが出なくなってしまった。

担任はたとえ加害者であっても自分の生徒だから、その子も守らなくちゃいけない。
先生も毎日その子の対応に苦しんでいる。
わたしも苦しかったけど、その子自身も特性でずっと苦しんできたんだろうなと、授業を受けた今だから前よりずっと落ち着いて理解できるようになった。
だから、教員として私の親に「仕方がない部分もある」と伝えようとしたことも、前より理解できるようになった。

でもわたしがつらかった気持ちがそれで解決するわけでもなくて、
それで傷ついたことは変わらなくて、
ただ今は、どっちの気持ちも混ざって、ぐるぐるして、苦しんでいる。
まだ納得する答えは出ていない。

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こうやって当時から時間が経って、あの頃の苦しいと、今の苦しいは、すこし変わった。

もう会うことも話すこともないだろう加害者のことを考えると、どうでもいいなと思う反面、
もう昔のことなんて覚えてないんだろうなと思って、それはそれで悔しくもなる。
(だからって不幸になってほしいわけでもない。)

いじめがニュースになって、SNSで加害者が特定されたり晒し上げられたりすることも最近はよく見るようになった。
「それをするのは、今度はあなたが加害者になっちゃうよ」と思う反面、
加害した分はどこかで報いを受けてもいいんじゃないかと思ってしまうときもある。

素直に人の幸せを願えない自分に腹が立つ。
自分が歪んでいることに気づいて嫌気がさす。
いい加減、許してあげればいいのにね。

もう一生関わることはないんだから、自分もいつまでも囚われて生きたくないけれど、
辞書、クリアファイル、ドライフラワーの花束、カミソリ、マスク、教室に入る瞬間。
日常のどこにでもあるようないろんなものが、簡単に昔のことを思い出させて、わたしは嫌でも簡単に過去に戻ってしまう。

いじめのことを扱う授業は、苦しくて最後まで聞けなくて、教室を出てしまった。まだいじめと真っ向から向き合う準備ができていなかった。
だから教員は諦めてしまった。
少しずつ、振り返れるようになってきたけれど、9年も前のことが、まだ多少なりともわたしの将来にも影響している。

こうやって一生生きていくのかな。
社会人になっても、子供が産まれても、
ずっとそうやって生きていくのかな。
たった1年間の苦しかった思い出に、一生引きずられて生きていくのかもしれないと思うと、情けないような、悔しいような、複雑な気持ちになる。

今はいろいろ考えて、考えて考えて、
この先も考えて、いろいろ考えて、
考えてるうちになんかまた考えが変わるかもしれない。それでいい。

時間が経って、こうやって文字にまとめたり、人に落ち着いて話せたりできているだけで、わたしは一応前に進めている。そう思うことにする。

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教育実習がもうじき始まる。
わたしの担当は、昔のわたしと同じ組。
すこしだけ実習に行くのが怖い。

どんな生徒がいるのかな。
どんな先生なのかな。( ˘ω˘ )

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