旧友との再会 pt.1
”この人とは本当によく合う。”
身近にそういう存在がいる人は少なくないと思う。犬より猫派だとか、キノコよりタケノコ派だとか、ディズニーはファストパスダッシュ派かのんびりパレード派かとか、、、。する選択する選択ことごとく一緒の存在がいるのは、とても楽しいし、心強いし、貴重だ。
”合う、合わない”。上に書いたみたいに、趣向が同じ人ならば、それは自分と”合う”人なんだと思う。
でも、それだけじゃないんじゃないかとも思う。
結果的な選択が似ているかもそうだけど、何よりもそこに至るまでの思考プロセス、その考え方を説明するときに使う言葉がどれほど似ているか、それが”合う、合わない”の重要な要素なんじゃないかなと。極端な話、キノコ派でもタケノコ派でも、なんでそうなのか理由としておさえるポイントが一緒だったり、それをどう説明するかが似ていたりすると、なんか、考えてることは一緒じゃね?って思えちゃったりするんじゃないかって。逆に、同じ趣向でも好きポイントが違ったら、違くね?ってなるだろうし。
そう思わせてくれたのは、数十年ぶりに再会した旧友だった。
そんな友人の話を始める。
”え?韓国来るの? しかも同じ学校?!”
彼女から連絡を受けた時、とても嬉しかった。まさかこんな風にまたおんなじ学校に通う日が来るなんて、思いもよらなかったからだ。私たちは、凄く仲が良かった。幼いころから、変なところ生真面目で、むっつり負けず嫌いで、そもそもの性格が似てるなと思っていた。
数十年ぶりの再会といっても、厳密には成人式の時とかその前も会っていた。それでも、ほぼ挨拶だけに近く、いろいろと深く話す機会はなくしてここまで来た。今回が、再会という再会ということになる。
地下鉄で10分、私達の中間地点で待ち合わせる。こんなに近くに住むなんて。電車待ちのホーム。マスクの下で、笑えて来る。
久々に会った彼女は何にも変わってない。そして、私も何も変わってなくて、言わなかったら損みたいに「なんも変わってないね。」と言いあって、久々に会ったぎこちなさを紛らわす。その時は、もう一人共通の韓国の知り合いもいて、三人で楽しく食事をした。
家に帰って、その日の出来事がぼんやりと頭に浮かぶ。楽しかったなぁ、なんて考えながら。在日語じゃなくて、韓国語を話そうとしていた私たちが不思議だったなぁとふと考えた。
韓国語を話すとき、私も友人も、ある程度流暢に、だけどちょっとたどたどしく、どこか石橋を叩きながら話す。シンプルに単語が出てこないということもある。ただ、それよりも”タブー”が口から飛び出すんじゃないかという緊張感が、私達にはある。
相手をドキっとさせてしまうような言葉が出てきそうで、私たちは言葉を頭の中の翻訳機にかけた後、さらに”検閲”を加える。
そんな風に話すと、楽しい分、疲労も残る。
今度サシでのもう。何となくそう思った。