夏目漱石(3) 「坊ちゃん」について1/3

 夏目漱石『坊ちゃん』についての研究は現在確認するだけで、読み切れないほど多く存在するが、それら論文の基礎になっているのは、平岡敏夫氏による『「坊ちゃん」の世界」であると思う。よって、「坊ちゃん」と言う作品を読み解くために、氏の著書から数カ所引用しながら、自身の意見を交えつつ此記事を終わろうと思う。

<はじめに>

 日本近代文学において、もし、漱石がいなかったら、という仮定を立ててみるならば漱石のもたらしたものの計量はかえって幾分見当がついてくるかも知れない。『坊ちゃん』と言う作品は『吾輩は猫である』と並んで、神経衰弱を治癒をする際の暇潰しのような作品だと理解されている人も多いかも知れないが、決して私はそうは思わない。実際よく読むなら、作品の底部には、執拗な中学生たちの悪戯にも、本気で関わらざるを得ない神経質な漱石が潜んでいるのであり、赤シャツ・野だ等への嫌悪も漱石の本音であることがわかる。同時期の啄木「雲は天才である」や藤村「破戒」と比較しても、此学校小説は特異であり、坊ちゃんと言う教師と生徒の間には交流するものが何もなく、断絶しかない。恐ろしく孤独な漱石の内面が坊ちゃんには投影されている。

「坊ちゃん」のすぐ前の作品「趣味の遺伝」は、「坊ちゃん」と同じく軽妙なタッチで描かれ、末尾には同じく深い哀切感があるが、「滑稽の裏には真面目がくつ付いて居る。大笑の奥には熱涙が潜んで居る。冗談の底には啾々たる鬼哭が聞こえる。」と漱石は記して居る。「大笑」「冗談」の次元で、人が「坊ちゃん」を明るいユーモアに満ちた小説として受け止めようとしても、その奥底にある「熱涙」「鬼哭」が、実はそうした表現を独自な魅力もあるものとして居るのである。そしてまた、坊ちゃん自身の語り口は、江戸以来の、あくまで軽妙で実は何かを潜めて居る対話、特に此作品の場合は、独白に拠っているところがあり、そこに広範な人々の感性に働きかけることのできる秘密もあったと言える。

1.「坊ちゃん」と「こころ」を繋ぐもの

 「こころ」の自筆広告分に「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。」と書いた漱石は、まさに「人間の心を捕へ得たる作家」であった。

ある日私はまあ宅丈でも探して見やうかといふ漫ろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子が丸で違ってしまひましたが、其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘とも付かない空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って何心なく向の崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、其頃は又ずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っている丈でも、神経が休まります。私は不図ここいらに適当な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切って細い通りを北の方へ進んで行きました。(下「先生と遺書」十)

 「こころ」の上のくだりがすなわち先生の行き着くところが、明治二十七年十一月一日、子規宛書簡に「小生の住所は先 伝通院の山門につき当り左りに折れて又つき当り今度は右に折れて半町程先の左側の長屋門のある御寺に御座候」云々と略図まで添えている法蔵院の場所と重なることについては既に玉井敬之氏の指摘がある。世間から遮断されていた伝通院界隈の未亡人の家は、「極めて厭世的にもなっていた二十七歳の漱石が見つけ出した法蔵院でもあっただろう。それが一つの寺院である以上、俗世間からの出入は、なにがしかの制限があると思われたはずである。つまり未亡人母娘の『素人下宿』こそは、現実の法蔵院の変化したものであった。」と玉井氏は述べており、「『こころ』は、法蔵院時代への追体験であった」と言うことになるのである。これは重要な指摘であって、漱石の松山行きにもからむ謎めいた法蔵院時代と「こころ」の先生をめぐる劇とはつながってくるのである。

 伝えられる法蔵院時代の漱石の言行をどう観るかによって、「追体験」としての「こころ」の意味も変わってくるかも知れない。鏡子夫人は『漱石の思ひ出』において、「当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院といふ寺に間借りをしていたさうです。」と語り始めているが、「家がうるさい」とは何か。此時既に長兄大一、次兄直則は世を去り(ともに明治二十年没)、三兄直矩(なおのり)が二度目の妻登世と明治二十四年に死別し、その翌年、三度目の妻みよを迎えていた。みよは明治九年の生まれであるから、まだ十六歳、漱石よりも九歳若い。登世の一周忌が済む前に入籍しているが、その十日前に漱石が分家して北海道岩内郡吹上町十七番地浅岡仁三郎方に本籍を送った事実を、江藤淳氏は「兄の仕打ちに対する拒否の表現であり、亡き登世への深い思慕のために兄と戸籍を同じくすることを些かよしとしなかったからだ」と推測している。そこでは「道草」の一節も引かれている。

三度目の妻を迎へる時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。然し弟には一言の相談もしなかった。それがため我の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉の方に迄影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。 「なんて捌けない人だらう」 陰で批評の口の上るこうした言葉は、彼を反省させるよりも却って頑固にした。(「道草」三十六頁)

 このくだりは兄が持って来た古い書類の束の中に、御由(およし)の送籍願が入っていたことから始まっている。「罪もない義姉」と言い、「気の弱い兄」と言い、既に大正四年の漱石からする健三の相対化の眼がここに働いているが、送籍願を区役所に出したのは何時頃かと健三が聞き、細君は御由がおいくつかと問う。「御由ですか。御由は御住さんと一つ違ですよ」「まだ御若いのね」——妻鏡子は明治十年生まれ、みよは明治九年生まれ、まさに一つ違いである。御由より一歳年下の御住が「まだ御若いのね」と言うのはちょっとおかしいが、年老いた兄と比較しての発言であるかも知れないけれども、漱石の記憶にあるみよの若さということがここにはあるだろう。また、此くだりには、健三の復籍の事まで持ち出されているのであって、北海道移籍のことは出てこないものの、三度目の妻みよに関して戸籍の問題が「道草」で想起されていることは確かである。

「道草」に反映しているゴタゴタは、父には相談したが、同居している弟には一言もなかったということに起因している。そして、「教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だ」というのがその理由づけになっている。みよは或いは玄人筋の女性だったかという推測も可能と江藤氏は言っている。みよの入籍は明治二十五年四月、漱石が子規に宛てて、

「元来小生の漂泊は此三四年来彷彿せる脳漿を冷却して寸尺の勉強心を振興せん為のみに御座候去すれば風流韻事件は愚か只落付かぬ尻に帆を挙げて歩ける丈歩く外地の能事無之願くば到る処に不平の塊まりを分配して成し崩しに心の穏やかならざるを慰め度と在候へども何分其甲斐なく理性と感情の戦争益激しく恰も虚空につるし上げられたる人間の如くにて天上に登か奈落に沈むか運命の定まるまで安身立命到底無覚覚束候」

 云々と、しばしば試みた旅行などによっても癒されぬ、ここ三、四年来の、恰も宙吊りになっているが如き苦悩を告白している。よって勿論、「家がうるさい」という期間はほぼ二年間の父、兄、嫂みよとの生活に於いてである。

 坊ちゃんの親父は母の死後六年目の正月に死ぬが、ちょうどその年の四月に坊ちゃんが中学を卒業、兄が六月に商業学校卒業、というふうに重ねたのは、兄による財産処分、坊ちゃんの下宿ということを設定するためである。

「どうせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにした所で、喧嘩をするから、向でも何とか云ひ出すに極まつて居る。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。兄は夫から道具屋を呼んできて、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。此方は大分金になった様だが、詳しい事は一向知らぬ。俺は一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつく迄神田の小川町へ下宿して居た。」

 とあるが、明治三十年に死去する父の死後のことが加えられているとしても、明治二十七年、法蔵院の下宿に至る漱石の心情が、右のくだりに伺えはしないだろうか。喧騒の神田小川町の下宿と、小さいながら、墓場を直ぐそばに持ち、道路を隔てて伝通院の巨大な黒い墓跡群の林立するのが見える法蔵院の下宿とは対照的だが、そこに「坊ちゃん」という作品の根底に隠されてある「啾々たる鬼哭」も伺えるかも知れないのである。それから三年後、坊ちゃんは四国辺の中学校に赴任するが、此三年間は、ちょうど明治二十五年四月、漱石が分家し、みよが入籍した時から、明治二十八年の松山行きまでの期間に重なるのである。ここに、宙吊りの孤独の象徴たる<下宿>という主題が「こころ」と合わせて成立する。

2.坊ちゃん末尾の問題

 生後間も無く里子に出され、翌年には養子にやられた漱石を叙して、江藤淳氏は「道草」によりつつ「金之助の一番古い記憶に登場するのはこの塩原夫婦の姿、より正確に言えば父も母もない空虚な世界に置き去りにされた自分自身の姿である」(『漱石とその時代第一部』昭四五、新潮社)と言っているが、これだけの部分にも漱石の存在に対する深いシンパシーを感じることができる。然し、「父も母もない空虚な世界に置き去りにされた自分自身の姿」を、漱石はいち早く「坊ちゃん」の中に人知れず吐露していたのではないか。「道草」の如き直接的吐露に近い方法ではなく、また作者自身がそれを読者に気取られぬ意識さえあったかと思わせるほどの形を取っているため、読者は易々と正義漢で江戸っ子の明るい坊ちゃんだけを見てしまうのである。

 然し、「坊ちゃん」で漱石がもっとも自己の直接的な心情告白に近づくのは、実はこの小説の末尾に於いてであって、その時には坊ちゃんと言う精神は死ぬということになってしまう。問題にするのは帰京した坊ちゃんなのだが、赤シャツと野だに卵をぶっつけ、ポカポカ殴って「不浄な地」を離れ、神戸から直行で新橋に着いた坊ちゃんはその後どうなったか。山嵐とは直ぐ別れたきり、今日まで会う機会がないとしたのち、次の末尾が来るのである。

清の事を話すのを忘れて居た。——おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊ちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落とした。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。 其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月に肺炎に罹って死んで仕舞った。死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓の中で坊ちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 この末尾を見ても漱石は最後まで坊ちゃんを坊ちゃんらしく振舞わせているかの様だが、実はそうではない。街鉄の技手として坊ちゃんがどれくらいの期間勤務しているかは明らかではないが、四国の中学を辞職するに至った熱烈な正義漢である坊ちゃんが街鉄でも正義を振り回して辞職すると言う事にならなければ坊ちゃんという性格の一貫性は成立しない。学校で留まり得なかった坊ちゃんが学校の外では留まり得るか。無事街鉄に留まり、月給二十五円、家賃六円で清とうちを持って暮らしている坊ちゃんと言うのは既に坊ちゃんではない。作品の事実から言えば帰京して街鉄に留まっている坊ちゃんは嘘であり、坊ちゃんは死んだのである。

 漱石は明治三十九年三月十七日付で滝田樗陰に「只今ホトトギスの分を三十枚余認めた所、何だか長くなりさうで弱はり候。夫に腹案も思ふ様に調はず閉口の体に候。」と書き送っている。これは「坊ちゃん」の稿と推測されるが、続いて三月二十三日付で虚子宛に「拝啓新作小説存外長いものになり、事件が段々発展只今一〇九枚の所です。もう山を二つ三つ書けば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もしうまく自然に大尾に到れば名作然らずんば失敗ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴出来次第電話をかけます。」と書き、松山言葉の修正を頼んだ理しているので「坊ちゃん」であることは確かである。「もう山を二つ三つ書けば千秋楽になります。」とか「もしうまく自然に大尾に至れば名作」と云った表現からすると、この末尾の部分は既に着想されていた様である。

 それまでの坊ちゃんが死ぬ事によって「東京で清とうちを持つ」ことは実現する。「清の事を話すのを忘れて居た」と末尾で切り出しているが、忘れていたどころかこれこそ作者は結びに置きたかったのである。「涙をぽたぽた落とした」清、「おれも余り嬉しかったからもう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだ」と言う坊ちゃん、先に引用した末尾の前半部分は喜びであるが、後半部分で一挙に清を死に引き落とす事で、この末尾全体に(ひいては作品全体に)深い哀切感をにじみ出させている。

3.偕老同穴

 それにしても、なぜ作者は清を死なせたのであろうか。坊ちゃんの正直・善を振りかざしての活躍、清との深い愛情を中心とするこの明るいユーモア小説(と見られている)にあっては、清と坊ちゃんが東京で一緒に暮らすことが実現したところで終わっても良かったのではないか。坊ちゃんにして、最後に清に死なれてしまうと言うことは、どれほどの痛切な悲しみであることか。読者はこの末尾の悲しみの意味を見落としている。「御墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待って居ります」と言う一行を、人はもう一度改めて読み直した方がいい。これは実に異様なことではないか。父母のいう言葉でも兄弟姉妹のいう言葉でもない。下女の婆やと一緒に墓に眠るべき男。この奇妙で不気味なイメージは、下女の婆やの代わりに、恋人か愛妻を入れ替えれば、もっとぴったりする。ここには、実は恋人・妻のイメージがあるのではないか。にも関わらず、漱石は、恋人・妻に替わる下女の婆やを持ってきたのだ。末尾の痛切な悲しみの意味が問題なのである。「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」と坊ちゃんは簡潔に締めくくるが、くだくだしく書き得ないほどの深い悲しみがこの一行に込められている。小日向の養源寺は坊ちゃんの家の菩提寺であるわけだが、その菩提寺の同じ墓の中で坊ちゃんの来るのを待っている下女の婆や。一体下女がこうした墓で眠り、主人を待つということが出来るのだろうか。前作「吾輩は猫である」で用いられている偕老同穴という言葉、その思想がここにはあると云って良い。

 坊ちゃんの結婚は記されていないし、読者は坊ちゃんの妻を想像する余裕が与えられていない。それは妻たるべき位置に清が置かれているからだと言えないか。坊ちゃんと清との結婚などを仮定することが読者にとって耐え得ぬ程の冒涜的想像とするなら、清が死ななければならぬ理由もわかるのである。清が肺炎にかからずに生き延びるとすれば、そこにどうしても坊ちゃんの妻という存在が必要になってくるはずだが、冒頭の章で「あなたが御うちを持って、奥様を御貰いになる迄は」云々と書き込まれてありながら、末尾に至ってその事に全く触れられないという点を見ても、坊ちゃん夫妻と下女の清という家族関係を読者に具体的に想像させる事の決して無い作品と言って良いものだ。清は死なねばならぬほどの存在である事によっても最も切実に生きるのである。


参考資料:『「坊ちゃん」の世界』平岡敏夫 1992年はなわ新書

     「坊ちゃん/ 夏目漱石」明治三十九年「ほととぎす」

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