加藤明矢
大正初期の作家です。
夏目漱石を筆頭に諸作家を紹介します。
戦後文学です
新思潮派に属した作家についての記事です。
明治初期の作家です。坪内、二葉亭、鴎外、紅葉、露伴
赤信号に止まっていたベンツのサイドミラーに私が写っていた。歩道の方も赤信号だったから、青になるのを待ちつつ、反射していた私をずっと見ていた。ヌッと細い影が私と私の間に割り込む。運転手の腕。指先にはタバコがつままれていて煙をまっすぐ上に登らせていて、私は、何の銘柄だろうと目を凝らしてみたが分からなかった。オレンジ色のフィルターなんて国内や国外のタバコにはありがちだから。毛深い、脱毛とは程遠い人差し指。それが灰を落とした時、私はいつもの癖で薬指を見た。指輪はなかった。 まあそ
ある夜、私は新橋から銀座へ抜けようと薄暗い鈴蘭通りを歩いていた。その頃から俯いて歩く癖のあった私は、隣を歩いている妻の腹が前よりも大きくなっていることに気付いていた。黒いワンピースの麻の生地が臍に向かって緩やかに登って、臍を過ぎると足首まで垂直に垂れていた。何かに似ているとその時はただ不思議だったが、今思い出してみてやっと閃いた。あれは砲口に似ていたのだ。 その日は雨後だった。先に見える三越の明かりが足元の水溜まりに映り始めた頃、 「ホテル行きましょうよ」と妻が私の腕を
第6回阿波しらさぎ文学賞 落選作 身勝手な二人 相ヶ浜へ繋がる石段を、白いワンピースを着た若い女が赤子を抱いて降りていくのが見えた。そしてその女を、こちらも若そうな男が腕を組むでもなく、ポケットに手を突っ込むでもなく、ただ茫然と立ち尽くすように腕をだらんと膝上辺りに落ち着けながら、石段の頂上から女の背中をじっと見ている姿が、冬枯れした裸木の隙間から見えた。やがて浜に降り立った女は、赤子をケットに包んだまま、汀線にゆっくりと置いた。それはいかにも優しい手付きだった。そうして男
「小説の神様」として、龍之介や春夫より一段上に置く評価は、その頃から文壇にあったようだが、それは我々の読後の実感とも合っていた。文章はなんとも言えず清潔で、上品で、その作品と同時に、その作者に畏敬の念を抱かせていた。 大岡は志賀直哉を「志賀さん」と呼んだ。それは大岡だけでなく、文学少年達はみな、そう呼んでいた。「夏目さん」「志賀さん」だった。しかし芥川龍之介、佐藤春夫、らは呼び捨てだった。 こう言う畏敬の念は、その作品の完成度、美しさへよりは、他者に対すると同じように事故
『草枕』は明治三十九年「新小説」九月号に、一挙掲載された中編で、漱石の作家としての地位を確立した小説である。『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に連載をしたばかりの頃である。中編としては以下の順番。 ・吾輩は猫である(1905年明治三十八年) ・坊ちゃん(1906年明治三十九年) ・草枕(1906年明治三十九年) 猫と坊ちゃんでは漱石の私小説的なニュアンスを含む教師が登場するが、今回の草枕では登場しないと言うのは、のちに説明するが、大きな特徴である。短編としては、坊ちゃんと草
ある文学賞を受賞して、井上荒野先生に選評をいただいた。そこに、こんなことが書いてあった。 この部分以外の批評はなるほど理解できる。しかしこの部分ばかりはどうにも私の表現したい世界の外側から槍で突かれたような気がしてならない。では、該当する文章を以下に引用する。 自分はこう言った方法で次郎兵衛の家庭環境を表現した。 ではなぜ会話文で表現したのかと言うと、地の文よりも登場人物の感情が見えやすいからである。もしこれが地の文で表現してしまうと、読者に理解して欲しい次郎兵衛
三島由紀夫 「当選作として推したわけではないが、この授賞に積極的に反対ではなかった。男性的ないい文章であり、いい作品である。」「人物のデッサンもたしかなら、妻の無感動もいいし、ラストの感懐もさりげなく出ている。」「しかし二十三歳という作者の年齢を考えると、あんまり落着きすぎ、節度がありすぎ、若々しい過剰なイヤらしいものが少なすぎるのが気にならぬではない。そして一面、悪い意味の「してやったり」という若気も出ている。」 瀧井孝作 「日常生活の何気ない中に不気味なものを蔵したこの
坪内逍遥の『小説神髄』が日本に於ける小説の大きな飛躍になったことは多く知られているが、それ以前の小説とは一体どうなっていたのか。文章が小説という自覚をどうして持つようになったのか、辿って行きたい。 中国では 魯迅(ロジン 中国の文学者)の『中国小説史略』を見ると、『荘子』の「小説を飾って高名美誉を求める」という言葉の引用から始まっている。その小説という語の意味するところは、「些細な言説で、そこに大道は存在していないことをいったもの」だから、現代のロマン的な小説観とは必
我々が古代歌謡を読む。かつては口承されたもの、そして永い年月の後に、言葉を書き記す力を勝ち得た人間によってもじに定着されたもの、それを十数世紀すら隔てて今日の現在に生きて動いている個人の、我々一人一人が読む。我々は自分の意識と肉体に、音楽に似たものが動き始めるのを自覚する。言葉そのものが音楽であり、音楽そのものが言葉であるような境界での、ある音楽に似たもの。それは自分の肉体の内部で動いている生命の感覚、しかも血の運動のようにリズムのある動きをしている生命の感覚とも似たもので
『痴人の愛』は、関東大震災によって谷崎潤一郎が関西に移住した翌年、大正十三年(1924)の三月から、更にその翌年十四年の七月にかけて発表された作品である。前半は「大阪朝日新聞」、その後大正十三年六月から十月までの中絶を経て、後半が雑誌「女性」に連載された。その反響は極めて大きく、巷に女主人公の名を取ってナオミズムという言葉を流行させたのみならず、この作品の成功は作者谷崎をそれまでの長期間のスランプから脱出させたといって良いだろう。 これに先立つ大正初年代後半の一時期、谷崎
佐藤氏の作品は大正期を——一面において——代表する物でありながら、仕事の量の大きさと、種類の多様性は、明治から現代までを通じても、稀に見る物である。詩、小説、評論、童話、戯曲など、多種に渡って居るだけでなく、その各々の中で氏の相違は自在に働いており、しかし一方において、あまり自由に振舞おうとしすぎて居る為に、どのジャンルでも結局入り口に止まって、本当にそれを自分の物に為し得なかった印象をも得る。詩を書くときは批評家でありすぎ、詩人を意識しすぎ小説には童話が入りすぎ、戯曲は詩
1古浄瑠璃について 浄瑠璃の起源については、古くから織田信長の侍女小野のお通が『浄瑠璃物語十二段』を書き、瀧野検校(又は勾当)が節付けしたに始まると思われて来たが、今日では信を置かない。信長の時代より遥に遡り、15世紀には語り始められたと思われる。浄瑠璃という名も、上の『浄瑠璃物語』から出たとするが通説である。ただし高野辰之・黒木勘蔵氏等は更に古く『やすだ物語』が存在して居たことを信じ、薬師如来の本縁を語る語り物を薬師に因む浄瑠璃の名で読んだとの説を唱えた。(薬師は浄瑠璃国
<概要> 近松門左衛門『曽根崎心中』の、名詞や動詞、枕詞、掛詞を分解して解説していく。これが応用できれば良いに違いない。 <本文><原文> <名詞分解> 内本町——現在大阪市東区にある町名。心の内にかける。 平野屋——内本町の醤油屋。焦がるるの縁で、胸の火にかける。 春を重ねし——何年も奉公を続けた。 雛男——雛人形のような美男子。雛は春の縁語。 一つなる口——酒も少しは飲める口。 桃の酒——雛の節句に桃の花を銚子につけ、又は浸した酒。雛の縁語。同時に一つに対する百(
式亭三馬は安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日(1822年2月27日)の戯作者である。彼の有名作「浮世床」は既に読み終わったが、余り理解が出来なかったので、分かりやすいように大正の文体まで戻してみよう。が、単語自体は余り置き換えない様にするので、訳の後ろに註釈を載せる。 <柳髪新話浮世床初編巻之上>大道直して髪結床必ず十字街にあるが中にも。浮世風呂に隣れる家は。浮世床と名を呼て連並の髪結床。間口二間に建列る腰高の油障子。 大道に面する髪結床は必ず十字路にある
此記事は黄旭揮氏の論文をまとめたものである。 <『細君』に見る新たな文章作法>情景照応的な表現法の導入 『当世書生気質』が上梓された四年後、「国民之友」に刊行された『細君』は、”作家の外様形式文体”においても”作家の思想表出文体”においても、共に『当世書生気質』より一歩も二歩も前進した作品であり、まさに逍遥が小説家として歩んできた短い生涯の中で最も頂点に上り詰めた時期に創作された傑作であると言えよう。”作家の外様形式文体”では、自らの「俗言に八七情ことごとく化粧をほどこ
『坊ちゃん』に出て来る蜜柑の木 本文を読み返して居て、これまでさして注意もして居なかった一本の蜜柑の木が意味深く思われる様になった。芥川龍之介の短編「蜜柑」(大8・5)を踏まえて考えてみると新しい物が見えて来る。 主人公の「おれ」は生徒を引率して練兵場で行われる日露戦争祝勝会に参列、余興は午後に行われるという話なので、ひとまず下宿に帰り、この間中から気になって居た清への返事を書こうとするが、なかなか書けない。ごろりと転がって肘枕をして庭の方を眺めているところで、初めて