身勝手な二人
第6回阿波しらさぎ文学賞 落選作
身勝手な二人
相ヶ浜へ繋がる石段を、白いワンピースを着た若い女が赤子を抱いて降りていくのが見えた。そしてその女を、こちらも若そうな男が腕を組むでもなく、ポケットに手を突っ込むでもなく、ただ茫然と立ち尽くすように腕をだらんと膝上辺りに落ち着けながら、石段の頂上から女の背中をじっと見ている姿が、冬枯れした裸木の隙間から見えた。やがて浜に降り立った女は、赤子をケットに包んだまま、汀線にゆっくりと置いた。それはいかにも優しい手付きだった。そうして男の方を見上げた。男はじっと女を見ている。微かにマスクが上下しているのを見れば、何か喋っている。女はまた赤子に近づいた。拾い上げ、抱き寄せ、顔に近づけて何か言った。絶え間なく打ち寄せていた波はもう白いケットの半分を薄黒く変色させていた。そうしてまた赤子を置いた。——いや、捨てたのだ。強く押し寄せて引く波は、日の落ちたばかりの薄暗い鳴門海峡に赤子を吸い込んだ。石段を登りはじめた女は振り返らなかった。
ホテルの一室からそれを見ていたら、私の渦は大きくなった。心の中にあるその渦は、底の見えないほど深く暗い穴に向かって螺旋を描いてぐるぐる回る。普段は水で満ちている私の心が、波紋を描きながら、中央に向かって物凄い加速度をもって落ちる。栓を抜かれた湯船のように弱々しいものでなく、全てが落ちるように吸い込まれ、もう二度と戻れないんじゃないかと思うくらいの渦。
あの日の事を思い出すたびに、この心の渦は大きくなる。
分厚い雲から灰色の光の射す、モノクロ映画のような薄暗い広縁でその渦を感じ、電気を付ける気力もなく、唯茫然と座っているしかなかった。テーブルの上のガムの銀紙で作った二艘の船、緑茶ハイのロング缶とコップ、駅で買った文庫本、駅弁の空箱、それらがテーブルに濃い影を落としていた。正面に座っている大介も、窓の奥をじっと見ていた。やがて、
「捨てたね」と私さえも見ないで言った。
「捨てた」私は答えた。
「もう見えない。きっと渦に巻き込まれただろう。——あっ、ほら、あそこに」
彼の指先を辿ると、あの白いケットが橋柱の横の小振りな渦に巻き込まれて、円を描きながら落ちようとしている。男女はどこかへ逃げて、跡形も無い。
「警察に電話する?」
私はそう聞くが、彼は黙ったまま口を一文字にきつく結んで、ただ外をじっと見ていた。私は出しかけたスマホを一旦ポケットの中にしまって、彼と同じようにまた外を見た。
所々に白波の立つ荒れた鳴門海峡では、点在する渦の数々は移動しつつ高速で回って、渦の周りの薄い緑色が、鉱物の緑礬を思わせた。そうかと思うと、波の一つも立たない、鯨の背中のように黒黒して艶やか場所もあった。そこに福良から出た咸臨丸が高々と汽笛を鳴らして紀伊水道を渡って来た。しかし部屋の中は相変わらず静かだった。
「美咲にかけてくれ」と大介は、今度は私の眼を見て言った。
私は彼の瞳の中に、私と同じように渦巻く彼の渦を見た気がした。
「いいけど……、警察は?」
「後でいい。どうせ赤子は助かるまい」
「あの人たち、逃げちゃうわよ」
「逃げられるもんか」と大介は言ってから、
「——例え警察からは逃れられても、」と口籠った。
私は携帯の履歴から美咲を探した。最後に電話した履歴は一年前になっていた。五コール目で美咲はやっと出た。
「もしもし、お母さん?」
美咲の声は元気そうだった。私はそれが何よりも嬉しく感じられた。美咲の声の後ろでは大音量のヒップホップ調のリズムと、キュッキュッと靴が擦る音が聞こえていた。
「ごめんね、練習中だった?」
「うん。でも大丈夫」
息切れが聞こえてくる。ダンスサークルの練習はハードなのだろう。するとふと、電話越しの荒い息に、小さい頃によく一緒に寝た時、鼻息がうるさかった事を古い記憶から引っ張り出された。懐かしい。可愛らしい小さい鼻の穴からスウスウと漏れて、人中のところに指を当てると、熱い鼻息が爪に触れた。もうあれから何年経っただろう。
小学生の最初の頃は元気な子だった。けれど三年生の時、家の貧乏を馬鹿にされて、虐められたらしかった。その事実を娘の口から聞くのではなく、担任の先生から聞いたのが、私には辛かったし、申し訳なかった。それは大介も同じ気持ちだと思う。美咲はそれから三年間、不登校になった。
中学生になると、友達が沢山できたようで家にいる時間は少なくなった。寂しかったが、嬉しくもあった。一年生の夏には、阿波踊りを習いたいと言い出した。友達の理恵ちゃんが阿呆連の一員として祭りで踊っていたのを見に行った日の夜だった。練習場所は遠かったから、その度に車で往復二時間通った。私も一度、一緒に体験してみたけれど、運動音痴でダメだった。私の母さんが運動音痴だったから遺伝したのかもしれない。美咲に遺伝しなくてよかった、と思った。
高校の頃には美咲の踊りを観に行った。最初は理恵ちゃんと一緒に阿呆連にいたが、その頃には趣向も変わって、うずき連として参加していた。幸いチケットが取れて、良い場所で見る事が出来た。『うずき連』と書かれた高張り提灯を持った、藍色に染め抜かれた竹格子柄の衣装を着た男が先頭に立ち、背後には桃色の衣装を着た女達が続く。美咲は二列目にいた。女達の列の隙間を縫うように男達が力強く出てくる。美咲達は身を翻して後ろ向きで進む。男達は団扇を力強く捌いていく。やがて男達が端へ避ける。するといつの間にか、女達は三角形に陣形を変えている。合図で一斉にまた前を向く。美咲は先頭だった。顔はしっかり正面を向いて、凛々しかった。
「じゃあちょっと、お父さんに——」
私がそう言いかけると、大介は穏やかに首を振りながら、いや、いいよ、と遠慮し、
「身体には気を付けて、と伝えて。あと、忙しくなかったらお盆には帰っておいでって」と静かに私に伝えた。
「自分で言えばいいじゃない」
私はそう言ったが、大介はもう窓の向こうの渦をじっと見詰め始めていた。グルグル回る。落っこちる。
「お父さん、ちょっと喉が痛いみたい。身体には気をつけろって。あと、お盆には帰れそう?」
「あ、どうだろう。ゼミの合宿あるから分かんないけど、まあ決まったら連絡するね」
うん、と私は安心してから、「あ、それと——」と口走った。
ふと、私はあの日の真実を言わなくちゃいけないと思ったのだ。
真実は渦の中心にある。深い深い、あの日の罪悪感である。しかし美咲の悲しむ顔が浮かぶようで、どうにも言い出せない。渦の中へ飛び込んで言葉にするには、余りにも私は弱かった。
そこに、「みさみさあ」と女の子の声が電話の遠くから届いた。
私は、ううん何でもない、と言い、通話を終わらせた。
美咲がいじめを受けて不登校になった時期は、私達三人は、ビニールのような形状の、言わば漂流物であった。行き着く先も分からぬまま、ぼんやりとその日を浮いたり、沈んだりして、まだまだ頼りない収入に頼って暮らしていた。
社会も漠然とした暗さがあった。アメリカでリーマンショックが起こり、日本にも不景気の波が寄せて来たのだ。元々貧乏だった上に、二人して給料が月に五十万を下回る月が続いた。再就職しようにも雇い口が見つからず、そもそも二人ともが若く経験も少ないから、パートの延長のような仕事しか出来なかった。
私達には早かったのだ。まだ若くて、貯金も給料も少なかったし、何より自分達の生活で精一杯だった。もし私達が強ければ、——中絶と言う残酷な選択をもって——きっと景色を変えただろう。
心中を考えたきっかけは、きっと野菜を買うのに躊躇するようになったとか、そんな小さな躓きだったろうと思う。結果的にそれは、精神的なダムを崩壊させて、押さえていた物が私たちの心の中に流れ込んできた。勢いよく流れ込み、渦になった。渦の中心には死があった。
あの日、最寄りの駅から海岸まで三人で歩いた。美咲には海水浴と言ってあったので、いつになく彼女はご機嫌だった。
浜辺に着くと、美咲は、「海っ、海っ」と楽しそうにはしゃいだ。飛び跳ねる靴が砂を巻き上げた。朝の海は満潮にはまだ早く、霧がぼんやりかかって、薄暗かった。
私達はまず靴を脱いだ。それから靴下を綺麗に丸めて片方の靴に押し込んだ。水辺から美咲の笑う声がする。上着を綺麗に畳んで、砂に置いた。あの時、私は何を考えていたんだろう。覚えちゃいない。でも生きるための考えではなかった。きっとどうやったら苦しまずに死ねるか、とか、美咲が嫌がったらどうしよう、とか考えていた。大介を見たら、もう既にポケットの中から折り畳んだ遺書を取り出していた所だったので、私も急いでジーンズに入れた薄っぺらい紙を取り出そうとした。
この時、美咲が今にも泣きそうに唇を尖らしながら、眼だけは微かな怒りを持って、こちらへ戻ってきた。
「濡れちゃった。スカート」
薄緑色をしていたスカートの裾が濃い緑色に湿っていた。地面と海の境界線とが霧で見えづらく、突然現れた高い波に襲われたんだと言う。柔い掌で、そこを懸命に絞って、爪の先が赤くなっていた。
「ママに買ってもらった。スカート。誕生日に買ってもらったスカート。ごめんね、ママ。ごめんね。海、嫌い。海、嫌い」と彼女はしゃくり泣いた。
この時私は彼女の中にも渦を見た。瞳の中心で渦巻いていた。幸福を未だ見ない瞳は同時に、厭世を見ず、友達と楽しく話す放課後を見ず、愛すべき男を見ず、食べ切れるかと心配になる様な御馳走を見ないその瞳は、まだ生きたいと渦巻いていた。この時、私は自分達の死へと向かうこの渦の流れに、美咲を巻き添えにしてはならないと思った。殺してなるものかと思った。
そう思ってしまうと、不思議と私と大介の死の渦は一気に萎んで、凪いだ。
「乾かそっか」と私達三人は海辺を離れた。
確かに死の渦は消えた。が、代わりに罪悪感を中心としたこの渦が、小さく回り始めたのだ。
あの日に本当は死ぬつもりだった事、私達は言うべきではないし、美咲は知るべきではないかも知れない。しかし、この罪悪感の渦は、ずっと私達を苦しめる。身勝手な私達は、早く楽になりたいと、ずっと思っている。
大介が外に出ようと言うので、一緒に出た。冷たい風が強く吹いていた。私達の足は強い引力を感じて浜辺へ運ばれていく。ゴウゴウと遠くから渦の暴れる音がする。途中、砂利に白いラインを引いただけの簡易な駐車場に一台の白いバンが止まっていた。そこにあの男女がいた。助手席で女は顔を覆っていた。男はぼんやり空を見ていた。
彼らの顔はやつれていた。そして、あの日の私達の顔に似ていた。そして彼らの中にも渦を見た。私達は彼らと変わらない。
赤子を捨てた彼等と、美咲と一緒に心中しようとした私達と、何が違うだろう。——
巨大化した暗い渦を感じながら、石段を降りて、海岸に降り立った。冷たい風が波と共に押し寄せていた。大介は私の携帯を貸すように言って、「警察にかけよう」と呟いた。私は何も言わなかった。
電話が繋がると、大介は今さっき赤子が捨てられた事、詳しい場所と時間、二人の特徴を伝えた。それから幾つか問答があり、もう彼等について言い残すことは何もなくなった。
すると大介は、そのまま電話を切らずにぼんやりと黙った。電話の奥では警察が不審を起こして、「どうしましたか」と大声で聞いているのが、側に立つ私にも聞こえた。そうして大介は、潜水する前のようにスウと大きく息を肺に溜めて、一息に「あの、」と震える声で吐き出して、
「子供を捨てようとした場合は、罪に問われますか」と聞いた。
私は大介が渦に飛び入む幻覚を見た。
「はい?」と電話の奥から聞こえる。
「子供を海の間際まで連れて行って、捨てようとしたら、罪ですか」
「結果的に捨てていないんですね?」
「ええ」
「それなら何も問題はありません」
「問題はありません——」大介は突き放されたように、その言葉を繰り返した。「えっと、もう一度お聞きするんですが、その若い男女は子供を明石海峡に流したんですね?」
「ええ」
警官は何か不思議な間で黙ってから、
「——はあ、では今から現場へ向かわせますので、石段の近くでお待ちいただけますか」
「はい」
こうして通話が終わった。問題はありません、大介はまたそう繰り返した。
大介は太い財布から一枚の札を取り出した。罪に囚われた私達がお遍路をした時に、一番目の霊前寺で、戒めのつもりで買った札だ。それは美咲への謝罪の象徴だった。警察は罪では無いと言ったが、私達の中ではそれは確かに罪だった。大介はゆっくり札を水に流そうとした。が、その手は途中で止まった。
渦は確かに小さくなった。が、完全に凪いだわけではなかった。本当に渦を消すためには、まだ私達にはやることがあった。
遠くからサイレンが聞こえてくる。大介は「もう一度、美咲にかけよう」と言った。身勝手な私達は、やっと解放されると思えて、ちょっと笑えた。沖の方でゴウと水が鳴った。また新しい渦がどこかで出来たらしかった。
(了)