芥川龍之介(2) 「語り」についての考察2/2

<その4>

 芥川の著作を概観した時、小説が言文一致体で書かれているのに対して、詩の方は、殆ど全て文語体で書かれているのが目に付く。芥川の中にある二律背反する志向はここで如実に現れている。一定のリアリズムを必要とする小説には言文一致体を、一定のリズムを必要とする詩に於いては、韻律を持つ文語体を使い分けているのである。また「骨頭羹」(『人間』大正九年)など一部の随筆は、文語体で書かれているものがある。

 しかし芥川の小説が、初めから終わりまで、全て<しゃべるように書く>言文一致体で書かれたかと言うとそうでは無い。例えば、川端康成は「新文章読本」(『文芸従来』昭和二十四年)の中で芥川の文章を次のように論じている。

漢語のあるものは、既に言葉の生命が硬化して平明、新鮮、繊細、具象、情感などを生命とする文芸創作の用語としては歓迎するべきものでは無いが、それに新しい秩序を与えたのは芥川氏の功績であった。

 文語文への志向を持っていた芥川は、完全な言文一致体で小説を書くことを良しとしなかった。芥川の小説には多かれ少なかれ、文語的な言葉が混在している。試みに『芥川龍之介全集第一巻』(平成七年)に所収されている小説を見ると、<歴々として>(「ケルトの薄明かり」)、<黒洞々たる>(「羅生門」)、<残端を保って>(「鼻」)、などの文語的表現が見る事ができる。しかし、この芥川の、言文一致体に文語的表現を混在を混在させた手法については、川端のように肯定的な評価ばかりではなかった。

 そもそも芥川に<喋るように書く>ことを薦めた佐藤春夫こそ、芥川の文章に否定的な見解を持つ一人であった。佐藤は、「芥川龍之介を哭す」(『中央公論』昭和二年)の中で、その経緯について次のように述懐している。

僕はまた彼が常に金玉の文字を心掛けるが為に、彼の作品から却って脈動が失われるのでは無いかと言うことを不断から恐れていた。忌憚なく言うけれども、僕の目には彼の文字は肌の色も白く目鼻立ちも整然とはしているけれども、しかしどうしても人形を思わせるのであった。(中略)僕は彼に向かって文章を殴り書きすること、つまり談話することを楽しむところを彼が恰も喋る時と同じように楽しんで書く為には、全く喋るが如く書くことを勧告してみた。(中略)我々は既に所謂口語なる文体を選んで来たのだから、文字を扱う場合にも又、言葉を扱う以上に窮屈な用心をしない方が却って言文一致の精神に適うと言うものでは無いだろうか。

 ここで佐藤は、逍遥以来の文体観に即して、話し言葉に立脚した言文一致体を、<窮屈な用心>をしなくてもイメージを伝えることの出来る文体であると認識している。そして、そのような考えを持つ佐藤にとって、芥川の文章は<人形のような>作り物の文章に見えたと言うのである。恐らく佐藤の言わんとすることは、完全な言文一致体を使わない芥川の文章が、日常生活から乖離した不自然な文章として感じられたと言うことなのだろう。

 佐藤と同じく、芥川の文章の不自然さを感じた寺田透の私的にはそれが端的に現れている。寺田は「枯野抄」(『新小説』大正七年)の芭蕉臨終の場面に於ける末尾の一文を次のように批判している。

「溘然として属纊に就いたのである。」と言う一句が我々の胸に沁みぬ以上、空疎な響きを立てることを如何ともし難い。(中略)我々の記憶に芭蕉の死、或いは死に行く芭蕉の姿を刻み込まれることを妨げているのもこの言葉ではなかろうか。(中略)芭蕉の孤独な死があわあわしい印象しか残さないのも、幾分かはこの「最後の一句」が、ただ結句の為の結句として、宙に漂っているにすぎないことに関係があるようである。

 寺田が取り上げた「枯野抄」の文章は、原則として言文一致体であるが、<溘然として>、<属纊>など文語特有の表現が織り交ぜられている。これらの言葉が、寺田には<死に行く芭蕉の姿の刻み込まれることを妨げている>と感じられたのである。佐藤や寺田のような認識は言文一致体が確立された後の、日本の近代小説の読者として一般的な認識だろう。

 川端に対する佐藤、寺田と言う、芥川の文章に対する二極化した評価を見ると、芥川の文章を視座として、日本の言文一致運動の功罪を見る事ができるようにも思われる。

 散文に<音楽的>なものを求める芥川が、音的な美感を持つ文語を取り入れることを試みたのは当然のことであった。しかし、佐藤や寺田の指摘にもあるように、文語的表現を使用することは小説のリアリズムを損ねてしまうことでもあった。リズム(文語体)とリアリズム(言文一致体)のどちらか一方を取れば、どちらか一方が失われる。この表現に於ける文体選択の問題はどうにも解決しようがないものであったと思われる。小説において言文一致体を選択した上で、乖離した眼と耳の止揚を試みた時、芥川が選んだのが、「語り手」によって「語る」と言う手段だったのではないだろうか。

<その5>

 芥川は、その生涯に於いて、幾つかの芸術論を遺している。その中でも大正十四年に文芸春秋から発行された『文芸講座』の為に書かれた「文芸一般論」(大正十三年)は最も大部なものである。書き出しの<私は文芸と言うものを出来るだけ平易に考えてみたいと思います。>と言う言葉にみられるようにその内容は、一般の読者に配慮して、丁寧且つ詳細に書かれたものとなっている。この中で芥川は文芸について次のような説明を行なっている。

言語或いは文字を使わぬ文芸と言うものは何処にも無い、文芸は言語或いは文字を表現の手段にする芸術であります。して見れば文芸も或る意味の外に、或る音を具えているものに違いありません。(中略)現に短歌に徹すれば、一首の意味と一首の音とは常に微妙に絡み合っています。例えば「足びきの山河の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る」と言う人麻呂の歌をご覧なさい。この雄渾な情景はこの雄渾な調子を待たずに現はされるものではありません。或いはこの一首の短歌から我々の心に伝わる感銘——如何にも雄渾を極めた感銘は情景と調子の一つになった「全体」からばかり生まれて来るのであります。

 芥川はまず、文芸とは、<意味>と<音>の両面が<微妙に絡み合った>芸術だと定義している。さらに人麻呂の短歌を例に挙げることで、<意味>=<情景><音>=<調子>であることを説明している。前述してきた図式に当て嵌めれば、<情景>を文章の視覚的リアリズム、<調子>を聴覚的リアリズムに置き換えることは可能だろう。文学に対する芥川らしいアプローチの仕方がここに表れていると言えよう。続けて、芥川は散文を例に出して次のように述べている。

勿論比較的聴覚的効果を重んじない形式——即ち散文は短歌のように言語の音に負ふ所は多く無いのに違いありません。しかし何よりも早い話が、夏目先生の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」をご覧なさい。あの軽妙な文章の調子はあの軽妙な作品の効果を少なからず扶けていますすると散文にも短歌のように、言語の意味と音との一つになった「全体」は存在すると言わなければなりません。

 ここで芥川が、漱石の「坊ちゃん」(『ホトトギス』明治三十九年)と「吾輩は猫である」(『ホトトギス』明治三十一年)を調子(リズム)を持った散文として挙げていることは極めて興味深い。なぜなら、この二作品は、原則として言文一致体で書かれている小説だからである

 これまで見てきたように、芥川にとってリズムある散文とは、定律があり、<朗誦的美感>を持つ漢文調の文章であったはずである。このように考えた時、特に「吾輩は猫である」(以下、「猫」)などは、<文体実験の坩堝>であって、漢文調の文章も散見されるのだが、作品全体が漢文的な韻律を持っているとまでは言えないだろう。しかし、確かに芥川の言う通り、二つの小説からは、ある<軽妙な調子>を感じる事ができる。それは、恐らく、この二つの小説の「語り」によって生まれているものだろう。

 ここでは、「猫」を取り上げてみる。周知のように、漱石の「猫」は、文章会「山会」で朗読されることを前提として書かれた小説であった。原子朗は、「猫」を<語り口の面白さだけで読ませる小説>であると指摘し、その語り口を分析して、

①短文が多いこと

②打ち消し・否定の語尾が多用されること

③それに対応して肯定型の文末(居る、ある)が多用されること

④動詞は文末に限らず現在終止形が多く助動詞が少ないこと

⑤同語反復、所謂尻取り文句が多いこと

以上5点をその特徴として挙げている。

 原の指摘は、漱石が話し言葉の内在律を整序して、「語り」のリズムを作り出していることを意味している。そして、その「語り」は読者が、「吾輩」と名乗る、斜に構えた「語り手」の声を想像することで、初めて活きたリズムとなるだろう。例えば、『新体詩抄』(明治十五年)を著し、日本近代詩に於いて先駆的役割を果たした外山正一は、後に自由詩による定型(外在律)の破壊を唱えた。その際、外山は<予の新体詩に彼此批評を加えむとする者は、予の如何にこれを口演するかをまず始めに知るを容す>(『新体詩歌集』明治二十八年)と主張している。このような外山の態度を勝腹晴希は次のように評価している。

「剣を振るの士官。銃を発つの士卒。これぞ勇しき軍人なり」と言う殺伐とした「我は喇叭手なり」は、それこそ勇しく「口演」された。(中略)外山正一と言う個体の情動の場を潜り抜けて発されるその詩句は、自由詩=内在律の先駆けに他ならない。

 こうして見た時、口演による外山の試みと、漱石の「猫」との差異はそれほど大きくは無い。外山が自らを「語り手」としてリズムある表現を作り出したのに対し漱石は作品内に、猫と言う「語り手」を虚構化し、閉じ込めることによって、それを実行したに過ぎない。このように考えると、「語る」ことは本来的に或るリズムを持っているものでは無いだろうか。<たとい音読の習慣が廃れかけた今日においても、全然声と言うものを想像しないで読むことは出来ない。人々は心の中で声を出し、そうしてその声を心の耳に聞きながら読む。>(『中央読本』昭和九年)と言ったのは谷崎潤一郎であるが、「語り手」による「語り」に極めて意識的であった谷崎の文章を思い浮かべた時、漱石とは、全く文体が異なるが、その文章があるリズムを持っている事が分かる筈である。

 田中真澄は「語る」ことについて<”話す”ことと同じく音声による口頭の言語行為でありながら、明らかに日常的な会話のレベルとは異なった位相を持つもので、同じカテゴリーに収容するには違和感が感じられる>と述べ、「語る」例として、口承文芸、唱導文芸、話芸、演説、朗読、講演、講義などを挙げている。田中は続けて、その「語る」ことの特徴を次のように説明している。

”話す”事が原則的に個人と個人の関係でなされるのとは違って、多数(多くは不特定の)に向かって発せられる言葉である事を特徴として認めるのである。(中略)しかもそれらは日常語を使っていても、日常的な”話す”こととは異なる発声、音調、高低、強弱、リズム、旋律などによって表現される筈である<無論現象的には個別の現れ方をするのであるが>。

 「話す」事が、特定の個人間に限定された、その場限りの話し言葉の使用であるのに対して、小説に於ける「語り」は、不特定多数の読者に向かって自立的に叙述される、加工を伴う話し言葉であると言う点で、明らかに口承文学や演説に近接するものである。このように考えた時、初期の日本の言文一致体の小説が、講談や落語と深い関係を持っていた事は偶然では無い。

 文学史の中で、三遊亭円朝の講談本を参考にして、二葉亭四迷の言文一致小説「浮雲」(明治二十年)が生まれたと言うことは既に定説になっている。リズム感に乏しく、発話の自立性を作り出すのが苦手な日本語(話し言葉)も音数律などを利用すれば、独特の四ないし、八拍子のリズムを作り出す事ができる。講談や落語は、そうした日本語特有の韻律をもった話芸である。それを取り入れることによって、「浮雲」は話し言葉にかけていた、聴覚的なリズムを獲得し、最初の言文一致小説として成立していた訳である。

 視覚性は強いが、聴覚性に欠ける近代の散文に於いて、その聴覚性を復権させるものが、「語り」と言う方法なのでは無いだろうか。「浮雲」と同様、「吾輩は猫である」に漱石の愛好した落語の影響が見られることは、興津要らの研究に詳しい。「語り」と「写生文」を融合させることによって、「猫」は視覚性と聴覚性を兼ね備えた、言文一致体の小説として成功した。このことを考えた時、芥川の初期文章に、「猫」の文体模写を試みた「吾輩も犬である(仮)」(『碧潮』明治四十一年)と言う作品が残っていることは注目すべき事実だろう。芥川にとって、「猫」は自身の目指す散文のあり方の一つの理想型であったのかもしれない。

<その5>

 東京の本所に生まれた芥川もまた、落語や講談など伝統的話芸との関わりは強かった。「僻見」(大正十二年)によれば、芥川は本所御竹倉の<壁に何百と知れぬ講談の速記本>によって文芸を教えられたと述べている。さらに、間宮茂輔の回想「芥川龍之介片」(『新日本文学』昭和二十五年)には、芥川と講談との関係について極めて興味深い記述がある。

 大正五年の秋、間宮は慶應での講演に、講師として招いた芥川を迎えに行った。電車が小柳亭を過ぎようとする時、芥川が<小説を書くつもりなら、講釈を聞くかしなくちゃ駄目だ、ホラ、看板の小金井蘆州、あれなんぞ、話が描写になっているからね>と言ったと言う。間宮は二、三日前に小柳亭で蘆州を聞いたばかりであったため、<講釈と近代文学の関係について疑惑を押し出し、芥川が主として表現の問題で色んな引例をしながら私を説得せんと試みた>と述べている。

 芥川がここで、講談について、<話が描写になっている>と語っているのは興味深い。小説の文章は普通、描写の部分と説明の部分からなる。説明とは「語り手」の「語り」であり、それだけ主観性が強い。「showing(示すこと)」を基本とする近代小説では普通、描写が主で、説明は最小限に抑えられる。ところが、「語る」小説にはこの関係が当てはまらない。ここでは、「羅生門」の冒頭を引用してみる。

或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。   広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗りの剥げた、大きな円柱に螽斯が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも雨やみをする烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男の外には誰もいない。

 引用部分のような事実の叙述でも、「語り手」の主観の批評を受け、または主観に絡まれて、「語り手」の「語り」として表現される。

 「語り」とはまた、自然主義の小説のように対象と自己の距離を客観的に保ち続けることを辞め、対象を「語り手」の主観に取り込んで主観の言葉で表出する態度である。主観の強い「語り手」が自他の区別を失って、時に「語り手」であったり、話中人物になっていたりする現象が起こる。再び羅生門から引用しよう。

下人は守宮(やもり)のように足音をぬすんでやつと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして登りつめた。そうして体を出来る丈、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。                             見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が無造作に捨ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない

 三谷邦明はこの部分を<地の文的に三人称/過去として読むと同時に、自己があたかも下人になり、楼の内に捨ててある死骸を眺めているような、一人称/現在の錯覚に陥るのであって、主格・主語の省略・不在が、地の文と一人称叙述の二つの声が聞こえる、自己間接言説を生み出している>と指摘している。ここでは、「語り手」自体が下人に同化することで、生き生きとした描写を生み出している。このような文章は読者に、眼で見ることと同時に、耳で聞くことを喚起させるものなのである。

 ところで、芥川の小説を概観した時、前期、中期から後期に掛けて「語り」の形態が大きく変化していることに気づく。前期から中期にかけての「語り手」たちは、聞き手に対して極めて饒舌である。彼らは、ただ事実を伝えるだけの「語り手」では無い。その「語り」は時に調子づき、以下に挙げるような、読者に対する呼び掛けまで行う事がある

読者は唯、平安朝と云う、遠い昔が背景になっているとか言うことを知ってさえいてくれればよいのである。(「芋粥」『新小説』大正五年)
先生の専門は、植民地政策の研究である。従って読者には、先生がドラマツルギイを読んでいると言う事が、聊か、唐突の感を与えるかも知れない。(「手巾」『中央公論』大正五年)

 小森陽一によれば、小説言語と比べた時、日常言語には次のような特徴が挙げられると言う。

日常の言表では、多くの場合人称的な主語は明示されないだろうし、文末は「た」で言い切られることはなく、「る」や「ね」と言った言表の相手の反応を伺い、相手の発話を促すような(応答を内包した)助詞などがつく筈である。つまり、私達は(中略)きわめて場面視向的な、対話(伝達)の相手の存在を強く意識した、そうであるが故に相手と関わる発話主体のあり方をも顕在化させるような表現のあり方を選んでいるのだ。

 例えば、志賀直哉の文章が非常に客観的で明晰な印象を与えるのは、厳密に事態を対象化する、文末詞「た」が多用されているからだと考えられる。それに比べ、先に挙げたような芥川の文章は、文末詞「る」を用いた<場面視向的な>、<対話(伝達)の相手を強く意識した>ものである事が分かる。それは、あたかも聞き手の反応によって、注釈を加えたり、話題を選択しているかのような、ライブ感を持った「語り」の再現であると言えるだろう。その顕著な例として、「地獄変」や、「奉教人の死」(『三田文学』大正七年)などを挙げる事ができる。

 一般に、中期の私小説的傾向の作品と言われている所謂「保吉物」に於いてもその「語り」は聞き手を常に意識している。例えば、「お辞宜」(『女性』大正十一年)の中で保吉が停車場で、いつも会うお嬢さんを眺める場面では積極的に「語り手」が顔を出している。

顔は美人と言うほどではない。しかし、——保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公に無条件の美人を見た事はない。作者は女性の描写になると、大抵「彼女は美人ではない。しかし......」とか何とか断っている。案ずるに無条件の美人を認めるのは近代人の面目に関わるらしい。だから保吉もこのお嬢さんに「しかし」と言う条件を加えるのである。

 後期の小説では、このような「語り」の饒舌さは、なりを潜める。「蜃気楼」(『婦人公論』昭和二年)「歯車」(『大調和』昭和二年、『文藝春秋』十月)、などの小説では、一人称の「語り手」が自分の思った事、感じたことを唯述べているだけである。それまでの小説に見られるような積極的「語り」の手段を廃して、聞き手に「聴かせる」意識も非常に希薄に見える。

 終生<音楽的な>散文を求め続けた芥川の意思に反して、晩年の小説はそれを失ってしまったのだろうか。この問題は恐らく、晩年の芥川の小説意識とも厳密に関わるものだろう。例えば、「新潮合評会」(『新潮』昭和二年)席上で、芥川は次のような発言をしている。

僕は谷崎氏の作品に就いて言を挟みたいが重大問題なんだが、谷崎君の読んで何時も此頃痛切に感ずるし、僕も昔書いた「藪の中」に就いても感ずるのだが、話の筋と言うものが芸術的なものかどうかと言う問題、純芸術的なものかどうかと言うところが、非常に疑問だと思う。

 小説の筋は「語り」によって生み出されるものである。<筋の面白さ>を否定した、晩年の芥川は、前期、中期と見られる積極的な「語り」を排除したのかも知れない。しかし、小説の筋を否定しようとするならば、「語り」そのものをも否定することになる筈である。ところが、その主張とは裏腹に芥川は最後まで、顕在化した「語り手」による「語り」の手法を取り続けた。晩年の芥川にとって、小説の「語り」とはどのような意味を持っていたのか。この問題は今後取り掛かろうと思う。


参考資料:『芥川龍之介における「語り」に就いての一考察——その散文観から——』高嵜啓一

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