書いてみました
(写真版は本文の下にあります)
幸、不幸 加藤明矢
その日僕は、或友人に招待された演奏会に向かう為に、山手線の某駅に自宅から自動車を飛ばした。正面には柄の悪い、給油口も判別つかない程沢山の落書きが施された車が一台、見掛けに依らずトロトロと歩いている。僕は信号で止まる度に逐一時計を確認しては焦燥感に駆られた。予定していた電車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。正面には、これぞ秋晴れ、と褒めたくなる雲一つない晴天が、連立するビルに区切られて、薄水色の一筋の帯として都心へと伸びている。そこに颯爽と斜線を引く疲れを知らぬ渡り鳥だけが、今にもクラクションを連打したくなるような悲憤慷慨の念を鎮めていた。
駅地下の駐車場へ着けて、改札階へ上がると幸運にも、危惧していたよりかは断然人気は少なかった。時計を確認すると発車の十五分前である。得意になった僕は珈琲を買ったりなんかしながら優雅に時間を潰し、買えないだろうと半ば諦めていた友人への土産をも購入した。その時にはほんの数十分前の焦燥や怒りさえ忘却していて、友人との話題の補填に手を出し始めていた。実際、その友人と前回会ったのは二年も前であり、高校時代の同窓で草津に温泉旅行に行ったのが最後である。あれやこれやと思い巡らしながら、手違いなく、予定していた電車に乗り込んだ。
電車の中は疎らに混んでいた。僕は二三駅の間、吊革の世話になった後、無事に着席した。目的の駅までまだずっと掛かるものだから、混む前に座れたのは駅の混雑に次ぐ幸運である。無論先述したように、あの憎たらしい美術学生のキャンパスのような車の事は、車窓から見える無雲の青空のように綺麗さっぱり忘れていた。——
暇を持て余した僕は或一つの趣味に耽ろうと思い付いた。隣に座っている女性に間違えても手を触れないように充分気を付けながらポケットから端末を取り出し、一つのアプリを開いた。一瞬間、白い画面が表示されたのを皮切りに、次第にその肌の様な白面から毛細血管の様な曲線やら直線が灰色を有して浮かび上がってくる。更にそこに一際目立つ青の球体が白血球の如く流れて行く。その時僕は『地図』を開いたのである。
この世に趣味は星の数よりあると言うが、世界各所をストリートビューで探検する、などと言う趣味は五等星に匹敵するほど地味である。友人にも「ストーカー犯罪の第一段階だ」と罵られたが、僕の考えでは、案外この楽しさを知っている人が存在しているのではないだろうか、と密かに考えている。何処かに『航空衛星同好会』もしくは、『幽体離脱旅行会』なる会があっても不思議ではないのだ。それほど、この趣味を通して感じる知的探究心や、未知領域を開拓する事への興味の湧き様は底知れない。実際今までに踏破してきた国は数知れず、海を越え、山を登り、危険区域にも易々と立ち入った。もしそういう電子版のパスポートがあるならば、最低でも五冊分はスタンプで埋まっているだろう。
今日はどこへ旅行しに行こうかと茫然と車内に視線を漂わせていたが、ふと或場所が思い浮かんだ。草津——。サンフランシスコの夕霞を彷彿とさせる湯気に支配され、欧州を感じさせる石畳と、京都を取り寄せた様な棟々が、中国四川省に匹敵する配列で並んでいるあの温泉街が、きっと相応しいだろう。そしてあわよくば、これから会う友人との会話の種に出来れば尚良しである。
早速僕は端末の上で指を払って、現在地から草津までの一九〇キロを三秒も掛からず飛んで行った。——
草津はたとえ画面上であっても、充分風情を見出すことが出来た。栄華と幻想——桃源郷の様な温泉街は、湿っぽく冷淡な山手線の車内に或一種の憧憬を連れてきた。ことにそれは懐古的な念も十二分に含んでいた。
画面上での草津は夏の夕暮れである。満面にモザイクを掛けられた湯治客達は皆揃えた様に、筒袖やら薄手の羽織を翻して、スポットライトに色付けされた薄紫色の湯畑の中にその身を隠している。モダン風の高級温泉、裏通りに提灯を灯している宿屋、湯もみを終えて帰路に着く湯女、——そう言う西日の中の情景は少なからず僕の底に沈殿している些細な憂鬱を帳消しにした。久しぶりにあの面々を誘ってみよう、とも考えついた。
すると何軒か往来している間に見知らぬ細い路地に迷い込んでしまった。人気も無く、閑散と静まり返っている。遠くに湯気が登っているのを見ると随分遠くまで来てしまったらしい。煙草を耳に挟んだオヤジも長い影を落としながらこちらを怪訝に睨んでいた。
ふと傍に一軒の古民家が写った。強烈な落陽に晒された、別荘と言うには余りに粗悪な門前である。私はそこに何かを見た。何か——?それは、軒先の露草、戸口の錆びた自転車、薄れていく打ち水の滲み、……、それらの普遍的な情景ではない。僕が見たものは、青簾の奥でぐったりと畳に伏した黄色いワンピースを着付けた老婆である。視線をずらすと、老婆と一枚の仕切りを隔てた縁側で小学生くらいの不透明な小僧が、藤椅子に座って西瓜を貪っている。老婆の顔にモザイクが掛かっていないのは、既に人ではないからだろうか。
無論僕は絶句し、声にならない声を漏らした。茫然と顔を上げると、自分の眼前に立ち塞がる人の壁の隙間から、車窓が垣間見えた。画面内の草津が現実に乗り出してきた様に、夕焼け空が広がっていて、雨の雰囲気を持った薄暗い雲も不吉に漂っている。恐る恐る画面に視線を戻すとやはり老婆は、晩夏の向日葵のように萎れている。僕はその僅か数センチの液晶に今日で二度目の不幸を感じ取った。——
次の停車駅のアナウンスがされた。降りる予定であった駅はもうとっくに過ぎていた。 (了)