まあそうだよね
赤信号に止まっていたベンツのサイドミラーに私が写っていた。歩道の方も赤信号だったから、青になるのを待ちつつ、反射していた私をずっと見ていた。ヌッと細い影が私と私の間に割り込む。運転手の腕。指先にはタバコがつままれていて煙をまっすぐ上に登らせていて、私は、何の銘柄だろうと目を凝らしてみたが分からなかった。オレンジ色のフィルターなんて国内や国外のタバコにはありがちだから。毛深い、脱毛とは程遠い人差し指。それが灰を落とした時、私はいつもの癖で薬指を見た。指輪はなかった。
まあそうだよね。
灰が弱い向かい風に靡いて排水溝の上に落ちた。私はそれに行儀が悪いとか、服にかからないで良かったとか、そんなことを思いそうだったが、もう一度あの毛深い、汚らしい指を思い出して、ふん、まあそうだよね、と代わりに思う。
駅からクリニックに着くまで十五分くらいある。大手のクリニックは駅ビルとか駅近にあるが、私が信用している先生は駅から少し歩いた藍色っぽい古めのビルで開業していた。二年前。先生に最初にお願いしたのは二重切開だった。整形するならまずそこだと思っていた。親譲りの眠そうに見える一重瞼を私は恨んでいた。だって可愛い人達はみんな二重だったから。インスタでブックマークする女性たちは全員二重。当たり前だが、二重の人のメイクと一重の人のメイクは仕方が違う。私は彼女たちのようにはなれなかった。
整形をするにおいて、患者が医師に一番求めるべきものは話しやすさとかじゃなく、どれだけセンスが合うかである、と私は断言する。美のセンス。完璧へのベクトルが一ミリたりともズレたりしないこと。二重にするときは施術前に針で瞼を抑えて二重幅を先生と相談するが、センスが合わない人が提案する眼の形はどれも昭和っぽい派手すぎるものだったり、令和すぎる自然さを追い求めて地味な二重だったりする。私は完璧な女になりたかった。完璧な女には完璧な目元が必要だった。
池袋、渋谷、新宿あたりを見回って六個目くらいに先生にたどり着いた。第一印象から私より完璧な女性って感じがした。若い頃、夜職をやっていたらしいが、下品な感じはなく、綺麗の中に可愛いが入っている感じだった。先生の提案する二重は完璧だった。そうして私は四十万で眼を完璧にしていた。
クリニックまで歩いている間、今月の出費を十万単位で暗算した。あと七日くらい出勤すれば、行けそうだった。でも来月のヒアルロン酸代を考えたら、出稼ぎ何回かとパパ何人か行ってもいいなとも思う。飲みたくない酒飲むのも、咥えたくないもの咥えるのも、全部私のため。金魚を買おうとして見た目の好みで買うように、外見しか見られない性別で、誰かに選んでもらうにはこうするしかない。だって金魚の気持ちなんて、どうせ観賞用なんだからどうでもいいでしょ(笑)。ベンツの運転手の指を思い出した。あんな清潔感のない人が結婚できるわけないよね。そうだよね。それにしてもサイドミラーに写ってた私、可愛かったな。
クリニックに着くと、広めの待合室には八人くらい座っていた。日曜日だから混んでいるのだ。受付を済まして何分か待っているとすぐに呼ばれた。結構ここにお金落としてるから優遇されているのかな? って思ったりする。
流れるようにあごプロテーゼの入替に移った。施術師はいつもの先生だった。 「八坂さーん、じゃあやっていきますからねえ」
私はありがとうございます、と言いたかったが、顎は固定されていたから、私のこの二重の瞼を上半身に見立てて、二回お辞儀するように瞬きさせた。
施術が終わって待合室に戻された。ダウンタイムは一週間で、すぐにアザや腫れは引くと言う。名前が呼ばれ、受付に行く。四十二万円、ん、四十二万円? 私が先週聞いたときは二十七万円だった。私はちょっと不思議な気持ちで受付の芋っぽい女に聞いてみると、骨格的にリフトの線を切らなくてはならなくてその分値段が嵩んだんだべ、みたいなことを言われた。私は不満だった。が、それでもまあ、働けばいっかって思った。完璧な人間は小さなことじゃ怒らない、ってどっかの本に書いてあった気がするし。
「まあそうですよね」と言って私はカードを差し出した。完璧に一歩近づく。これから有楽町に行って完璧なダウンジャケットを買おう。それからデパ地下で完璧な組み合わせで惣菜を買おう。完璧な、完璧な、完璧な。完璧で囲まれた今日も、先週同様に完璧な日曜日になるだろう。