手塚治虫先生とわたし
この記事は「マイスター・ギルド:暑中見舞!夏のアドベントカレンダー2020」13日目の記事です。
ルールル ルルル ルールル(ジングル)
服部が毎回多彩なゲストとお送りしておりますインタビュー企画「親友-MABUDACHI-」でございますが、記念すべき第1059回目の今回は夏の特別編といたしまして、日本が世界に誇るマンガの神様、手塚治虫先生をお招きさせていただきました。
一生懸命漫画を描いていただけ
服部(以下服部):今回は「親友 -MABUDACHI-」特別編といたしまして、なんと、かの手塚治虫先生をゲストにお招きさせていただきました。先生はじめまして!よろしくお願いいたします!
手塚治虫先生(以下手塚):はじめまして、こんにちは。今日はお呼びいただきありがとう。
服部:正直めちゃくちゃ緊張しています!親子三代で先生のファンです!
手塚:ははは、それは嬉しいですね。そんなに緊張しないでくださいね。
服部:あの「マンガの神様」と呼ばれた先生とこうしてお話をできる日が来るなんて・・・感無量です。緊張しない訳ないですよ!
手塚:いや~神様だなんて恐れ多いです。私はただ一生懸命漫画を描いていただけですよ。
服部:またまたご謙遜を!ただそういった真摯な姿勢が「神様」と呼ばれる所以のひとつなのかも知れないですね。
手塚:ははは、照れますねえ。
服部:今日はお時間が許す限り色々お伺いしたいと思います。
手塚:はい、どうぞよろしくお願いします。
自分の名前「治」に似ているオサムシが好きで
服部:まずは恐縮ながら簡単な自己紹介をお願いいたします。
手塚:はい。手塚治虫、本名は「治」表記で、大阪府の豊中市生まれ、宝塚市育ちです。享年60歳。職業は漫画家です。
服部:おおお~、ナマ自己紹介ありがとうございます!先生、実は私も豊中生まれの豊中育ち、生粋の北摂っ子なんです。
手塚:おお、そうですか。それでは同郷ですねえ。豊中も宝塚も良い所ですよね。
服部:当時から色々と様変わりはしていると思いますが、やはり住みよい街だなと思います。
手塚:もう宝塚ファミリーランドは無いんですよね。
服部:そうです、2003年頃に閉園してしまいました、寂しいですよね。今は何になっているんでしょう。ちょっとそこは分からないです。
手塚:私が産まれた頃はまだ前身の「宝塚新温泉」でしたね。そこからファミリーランドになって、もともとあった宝塚歌劇団の大劇場があって、とてもモダンな風景でした。
服部:そうですよね、当時から考えるとすごくモダンな地域ですよね。先生の作風にも少なからず影響はあったのではないですか?
手塚:そうですね、あったと思います。うちは父がとてもモダンな人で、私の小さな頃からフィルム映写機などを所有していて、色々な映画などを観せてくれましたよ。
服部:モダンですねえ!先生の自伝でも拝見しましたが、そういったお父様や街のモダンさ、お母様の厳しさと優しさ、あとは豊富にあった自然。手塚少年の触れたもの全てが先生の作風に還元されていますよね。
手塚:そうですね、その通りです。モダンな父は漫画にも理解があったので、幼少期から田河水泡の『のらくろ』や『ナカムラマンガ』も読ませてもらいましたし、母もユーモアのある人で、漫画の読み聞かせを声音を変えてやってくれたりしました。先程の宝塚の街並みもそうですし、その反面で豊富にあった自然にも熱中しましたね。
服部:先生の昆虫好き・マニアっぷりは有名ですよね。
手塚:近所の山にはたくさんの昆虫がいて、捕まえて標本にしたり、写実して自身で昆虫図鑑を作ったりもしましたねえ。とりわけ自分の名前「治」に似ているオサムシが好きでねえ。オサムシって見たことありますか?細長くて目が丸いんですよ。痩せて丸メガネだった私と瓜二つじゃないですか。そこからですね、「治虫」というペンネームを使うようになったのは。
服部:おおお!かの有名なペンネームの由来エピソードですね!今は「治虫」と書いてオサムと読ませていますが、当時はそのままオサムシと読ませていたんですよね。
手塚:お詳しいですね。その頃から実際の漫画も描き始めていて、小学校では人気者だったんですよ。入学当初は馴染めず浮いていた存在だったんですけどね。
服部:あだ名が「ガヂャボイ」だった頃ですね。その当時に描かれた漫画は今でも一部は記念館に残っていますよ。
手塚:うわ~そうなんですか、恥ずかしいですね。
誰かに読んで欲しいと心から思って
手塚:でもその後は戦争があって、時代的にも「漫画」だなんて言ってられないし、学校も修業時短で卒業させられて軍需工場に行かされるし、僕自身も空襲で死にかけましたし、大変でしたよ。むしろこんな時だからこそと思い、工場に行くのもやめて家にこもってひたすら漫画を描きました。
服部:死ぬに死ねない気持ちだったんですね・・・。
手塚:なので終戦後は、すぐに出版社に漫画を持ち込みましたよ。漫画を描きたかった。そして、それを誰かに読んで欲しいと心から思っていましたので。
服部:その後すぐ新聞漫画『マアチャンの日記帳』でデビューされるんですよね。
手塚:それからも地方の新聞でいくつか連載をさせてもらうのですが、やはり4コマだと表現に限りがありましてね。そんな事を思っていた時に舞い込んで来たのが長編描き下ろし漫画のお話でした。
服部:おお・・・それは、もしや・・・。
手塚:はい『新宝島』です。
服部:おおおおおーーーーー!!!!戦後初の豪華本の企画で200ページ描き下ろし、当時としては異例のベストセラーを記録したストーリー漫画の原点ですね!映画的手法を用いた最初のページでぶっ飛びますよねえ!
手塚:ははは、嬉しいですね。その後はちょっとしたブームになって『地底国の怪人』『ロストワールド』と作品を発表しました。描きたい事が溢れていたんです。
服部:ですが先生は当時終戦後の再編で入学した医学生だったのではないですか?
手塚:その通りです。医業と漫画業の掛け持ちは難しく、そこで専業漫画家となることを決意しました。ですが医学専門部も卒業してインターンも1年間努めたんですよ。
服部:すごいですよねえ・・・その当時から先生の有り余るバイタリティーが発揮されていたんですね。
手塚:その後、いくつかの出版社に持ち込みをして読み切りを経て連載をいただくことになりました。そして上京もしました。
服部:おお!トキワ荘ですね!
手塚:そうです、トキワ荘。あの頃のトキワ荘はすごかったですねえ、目が回るような忙しさでしたが、見るもの、すること、描くこと、全てが新鮮で輝いていた時代でした。
服部:『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』と、先生の代表作がこの時期続々と発表されていますね。当時先生の漫画が載っていない雑誌は無かったくらいだと聞いたことがあります。
手塚:そうですねえ、通常の連載に加えて付録の別冊本やポスター執筆などもありましたから、相当な量を描いていますね。ただもう結局は死ぬまで描き続けたので今となっては普通に思えますけどね(笑)
服部:量だけでなく質も相当すごいですよね。ジャングル大帝の後すぐに始まったのが・・・
手塚:『火の鳥』ですね。火の鳥は幾度も中断・再開を繰り返して、ライフワークのように描き続けた漫画でしたね。
服部:僕も大好きな作品です。何編が好きかでかなり好みが分かれるんですよね。
それが『ブラック・ジャック』です
手塚:そこからはアトムなどの少年漫画に加えて、青年向けの漫画にもチャレンジしていて、ちょっとタッチも変えたりと新たな作風を試みた時期ですね。小説やエッセイなどの執筆も精力的にやっていました。
服部:長編アニメ西遊記の原案などもやってらっしゃいましたよね。
手塚:ただその頃から少しずつ時代の流行も変わってきまして。世間では私の描く丸っこい絵ではなく、いわゆるシリアスな「劇画」が大ブームになるんです。桑田氏(桑田次郎)や、横山氏(横山光輝)が台頭してきて、石森氏(石ノ森章太郎)が大人気でした。
服部:少年マガジンや少年サンデーも刊行された時期ですね。先生にとってはいわゆる・・・その・・・
手塚:はい、冬の時代です。劇画には一時期ノイローゼになったことすらありましたからね。白土氏(白土三平『カムイ伝』著者)のガロに対して『COM』を創刊して、ここではまた火の鳥を連載しまして、水木氏の妖怪ブームに対して『どろろ』を連載、多くの青年雑誌の刊行に合わせて『きりひと讃歌』を描いたり、永井氏(永井豪『ハレンチ学園』著者)に続いて『やけっぱちのマリア』で性教育漫画に挑戦したり・・・。
服部:かなり挑戦、といいますか、先生の新たな一面を垣間見る時代ですよね。
手塚:ただ世間としてはこの頃既に私は「過去の人」になっていたようで、どれも大きな反響はなく、並行してやっていたアニメ事業の虫プロ商事、虫プロダクションが倒産し、まさに窮地、冬の時代でした。
服部:そんな時、旧知の仲だった秋田書店の壁さんが・・・
手塚:そうです!あれは本当に嬉しかった。普段描かないラフやネームもしっかり描いて、できる準備は全てやりました。起死回生を狙うのはここしか無かったですね。
服部:最初は先生を「看取る」つもりでの短期掲載だったのですが、みるみる内に人気に火がついて後期の、いや、まさに代表作となりましたよね。
手塚:はい。それが『ブラック・ジャック』です。
服部:おおおおおおおおっううっっ(号泣)。先生の作品はどれも大好きなのですが、やっぱり私はブラック・ジャックが一番好きです。何回読み直した事か・・・どの話もだいたい覚えてますよ、うっつぅううおおおお(嗚咽)
手塚:その頃、ブラック・ジャックと並行して『三つ目がとおる』の連載も始まりまして、こちらもヒットになって嬉しかったですね。
服部:男子なら誰しも一度は額にバッテンの絆創膏を貼った経験がありますよ、笑。
手塚:ははは、写楽くん可愛いですよね。当時は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』を連載していました。
服部:先生の代表作ばかり!壁さんの一声からブラック・ジャックがあって完全に復活しましたよね。手塚治虫が「マンガの神様」だという評価が確立しましたね。特に火の鳥はこうした節目節目で描かれているというのが感慨深いです。
手塚:火の鳥は本当に晩年までのライフワークになりましたね。
服部:80年代に入った頃には『陽だまりの樹』や『アドルフに告ぐ』で出版社の漫画賞も受賞されてらっしゃいますよね。
手塚:そうですね、W3事件以降疎遠だった講談社さんにも『三つ目がとおる』で復帰して、『アドルフに告ぐ』で賞をいただきました。80年代後半頃に体調を崩してしまうまでは普段通り一生懸命漫画を描いていましたね。
「鉛筆をくれ」と言って死んでいった
服部:病気になられて、ベッドの上でも漫画を描いていたと聞きました。
手塚:それしかする事が、したい事がないんです。漫画を描きたい、仕事をしたいとずっと思っていました。マネージャーの松谷氏によると、昏睡状態の中で「鉛筆をくれ」と言って死んでいったらしいですよ、私、笑。
服部:89年2月9日ご逝去ですね。
手塚:当時連載中だった『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』が未完になってしまったことが心残りです。
服部:先生は数ある作品の他にも3人のお子さんがいらっしゃって、皆さん立派に手塚魂を引き継いでいらっしゃるではないですか。
手塚:あまり家にいない父だったので、その辺りは申し訳ない事をしたなと思う反面もありますけどね。
服部:でも長男の眞さんはクリエイティブな才能があって、ブラック・ジャックの扉絵でも先生とコラボなさっていたじゃないですか。るみ子さん(長女)はプランニングプロデューサーですし、千以子さん(次女)は女優さんですし、これは先生の影響あっての事ですよ。
手塚:そうだと嬉しいんですけどねえ、笑。
服部:残した作品の数々や手法、考え方、そしてお子さん達、どれをとっても後世に多大な影響を与えてくださった先生はやっぱり「マンガの神様」だと思います!
手塚:ははは、ありがとうございます。上手くまとまりましたね。
服部:はい!思った以上にキレイにまとまりました、笑
おわりに
当記事は、なるべく史実に基づき構成しておりますが、情報の正確さは保証できません。あくまで愛の溢れる手塚ファンによるエンターテイメント記事として捉えてください。見出し画像は「手塚治虫先生」と若かりし頃の「わたし」です(2013年手塚治虫記念館にて撮影)
▶以下を参考にさせていただきました
手塚治虫OFFICIAL
手塚治虫記念館
手塚治虫 - Wikipedia
手塚治虫物語 (1928-1959) - Amazon
手塚治虫物語 (1928-1959) - Amazon
ブラック・ジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~
投稿者: 服部アツシ(Twitter)
マイスター・ギルドでは珍しい非エンジニア。経営戦略室 室長、kidsPG、AssetPark、営業、ディレクション、広報、エンジニアさんのサポートなど兼務。社内外の色々なプロジェクトにちょこちょこと首を突っ込んでニコニコするのが仕事です。2児の父。好きなものはパンク・ハードコア。
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