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【コスパ重視】抒情性のないもの、レトリックを要さないものに装飾はいらない。全部論理哲学論考みたいに書け。

エミールの記事について、黄色作戦発令までの思案を認めていたところ、結構な文章になってしまったため、ここに記す。

本文より

あれから私は、この記事の終着点について考えるようになった。最初はただ、ルソーの言説があまりにおもしろいと感じたため、ただ紹介したいと思い筆を取ったのだった。世間では哲学者とか偉人とかの話をする時、彼らから荘厳な雰囲気を勝手に感じ取り、壁の向こうの、天の上の人のように重々しく扱っている人間が多い気がする。しかし、彼らも同じ人間であり、ルソーは特に頭がトチ狂ったヤベェ人間なのだ。にも関わらず、現在彼は思想の巨人などと呼ばれ、パンテオンといういかにもな神殿に祀られている。それに、「エミール」は硬い堅い岩波とかちくまとかから出版されてさえいる。

偉人とされる人間が残した文献。それらは往々にして、読みたいけど挫折してしまうような文献だったりする。それはなぜか。書き手が思ったことを他人に伝えられる能力を持っていないからだ。つまり、解説を含めた現代語訳が必要なのだ。

なぜ私はそのような本を読みたいのか。それは、哲人の思想に触れたいからだ。御託はいらない。箇条書きで書いて欲しい。可能なら、論理哲学論考みたいに書いて欲しい。本を読む時の私は綱渡りを見に来たのであって、無頼漢の講演などに興味はないのだ。

今までの主張を聞いて、副読本だけ読めばいいと思った人間もいるだろう。
それはナンセンスと言わざるを得ない。なぜならば、日本語に翻訳してある時点で原著と意味合いが変わる部分がでてくる。それにも関わらず、副読本というのは、解説者によりもう一段階捻じ曲げる必要が出てくる。そういったものの中には原著にあたっているものもままあるが、訳書を原著としたものもよくある。わかりにくい概念を理解するために活用するのはいいが、推理が並べ立てられているものに関しては、読書感想文を読んでいるのと全く同じである。そんなものを読んだところで、哲人の思想を獲得したとは言えないだろう。思想が役に立つかどうかは、全く関係のない話だ。


という事で、私の主張に一貫性を持たせるのならば、私の記事も箇条書きで書くべきだろう。こんな棚卸し、支援日記のようなエッセイ要素などないのだから。。。


追記
書き忘れていたことがある。それはエミール記事についてのことだ。
私が導き出した答えは、記事の形をやめるということだ。つまり、ただの読書メモとしてnoteを活用するに過ぎない。それはなぜか。コスパだ。知識を得る段階では、可能な限り簡便にしなければならない。私は「エミール」を箇条書きでまとめる。ツッコミはするが、解説はしない。割愛はするが、編纂はしない。そうすることで、読者は私の軌跡を見るだけで、私と同じ理解度に到達することができるだろう。


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