見出し画像

1995年のバックパッカー#38 ラオス 東南アジアの良心

ラオスには何の思い入れもなかった。

メコン川流域を巡る時に目の前に現れて来る様々の国の中で、最も地味なのがラオスだろう。地勢的にもちょっと奥まっていて、わざわざ行こうとしなければ、順番が回ってこない、そんな国だ。
時間だけはたっぷりあった僕は、なるべく多くの国を通ろうと決めていたので、当然そのラオスにも訪れることになった。

各地で出会うバックパッカー達から、ラオスには古き良き東南アジアの風情が残っていると聞いていた。噂は噂として、それでも旅のいい箸休めになればと少しは期待していた。僕は知らない路地に入る程度の軽い気持ちで、ランチ前にラオスへと入国した。


メコン川

空港はささやかなものだった。その慎ましさに、なんとなく和歌山の南紀白浜空港を思い出した。一国の首都の空港という仰々しさはなく、それが逆にこの国の質素実直な良心を体現しているようにも思えた。
僕は毎度の如く最も安い移動手段で市内へと向かった。今回はトゥクトゥクを使った。日本円で80円くらい、約20分で程よい所へ到着した。程よい所というは、安宿があるエリアだ。
こういった情報は各都市の安宿に置いてある「情報ノート」を頼りにした。何とも古風な情報収集方法だが、こういうのはそれこそ人類が文字を使い始めてからずっと続いてきた伝達方法ともいえる。
そこには旅人目線の有益で最新の情報が残されていて、しかも無料公開されているのだ。その代わりと言ってはなんだが、読み手自身も何らかの情報を記し残すことで交換が行われている。原始的で効率的なこういう情報の取り方はスマホ以前は主流だった。

実は本当に有益なお金を生むような情報というのは、ネットには置かれていないという点では、現代でも「情報ノート」のようなものが、ある人々の間に存在していると僕は思っている。
それはあるグループの会員間でのみ交わされるものだろうし、心を許したビジネスパートナーの間にのみ存在してるクローズドなものだろう。

95年の情報ノートは、鼻のきくバックパッカーという会員間にのみ存在していたとも言える。各国のガイドブックのライターにとっては、聖書のようなカンニングペーパーとして価値があっただろうし、だが最新最良の情報というのは刻々と変化するので、ガイドブックの情報はどうしても周回遅れとなる。やはり旅人だけが知りえる最新情報というのはあるのだ。


安宿のツインルームを1人で使う


ラオスのトゥクトゥク

僕は一軒家のようなゲストハウス・ナムハにチェックインすると、ひとまず昼寝をした。ハノイでも歩き回っていたし、その日も早朝に起きたこともあり、疲れていたのだろう。旅先で体調を崩すのは最も避けたいことだ。僕は日頃から休養だけはたっぷりとるように心がけていた。

14時頃に目覚めると、すっかり体が軽くなっていた。重いバックパックを背負った移動日は少しだけ憂鬱なのだが、一旦到着してしまえば、その重しからも解放されて、背中に羽が生えた様な爽快な気分になれる。これも移動日の楽しさの一つだった。
僕は新品になったような気分で、ラオスの首都ヴィエンチャンを歩き出した。

目の前に移ろいゆく風景は、バンコクやハノイには遠く及ばない小さな田舎町のそれでしかなかった。復興途上のプノンペンですら比較にならなかった。
高いビルはなく、たまたま通りかかった霞ヶ関にあたる政治の要部ですら、お金持ちの住宅街のようでしかなかった。綺麗な家だなと思って眺めていた所がアメリカ大使館といった具合だ。
僕は、なるほど、ここがラオスなのかと納得しながら、古き良き東南アジアという言葉を頭の中で並べていた。そうと言えば、そうとしか表現できない。そしてそれ以上の褒め言葉が浮かんでこない、そんなヴィエンチャンだった。


歩いていてもすれ違う人は少なく、どこかで祭りがあって、みんなそっちに行っているといった雰囲気の静けさだった。見かける人の印象も大人しく内気で慎ましく、そのたびに「古き良き東南アジア」という言葉が浮かんだ。

事前に得ていた観光スポットへ取り敢えず行ってみようと歩いていると、僕の旅には本来目的なんてなかったということを思い出した。
当時の海外一人旅への一般的なイメージは、「自分探し」というのが主流だった。だが、僕にはそんなお題はなかった。なぜなら僕自身というものにほとんど興味がなかったからだ。自分自身を掘り下げていっても、たいしたものは出てこないだろう。なぜなら人間だからだ。
それよりも広い外部にこそ興味があった。この世界がどこまで広がっていて、どこまで高く、どこまで深いのか。そういうことへの漠然とした好奇心が僕の旅の友達だった。

ヴィエンチャンを歩き出した僕は、どこにでも、いつでも旅のクライマックスを求めるのはおかしいと気づいた。この小さな首都の町で、心踊るような何かを期待する事はつまらない欲だと思えた。ただ、目の前のことを一つの事実として、現実として受け入れて楽しめたらいい。そんな風に考えた。ここは香港でも、バンコクでもない、ヴィエンチャンでそれを今体験している、そのこと自体を楽しもうと切り替えた。比較というのは、ひとつの癖に過ぎない。


凱旋門

やがて僕は凱旋門へと行き当たった。
その名前の通り、パリの凱旋門と似ている。あいにく僕は本家のものをまだ見ていなかったので、比較は適当になるが、ひとまわり小さいような感じがした。
旧宗主国であるフランスから贈られたものだろうかと推測を交えつつ、内側の階段から階上へと登り詰めると、360度見渡せる天守閣みたいな場所に行き着いた。

360度とはいっても四方に小さな窓が付いているということで、ガラスや柵などはない無防備なものだった。僕は四方の窓からそれぞれの方角の眺めを楽しんだ。

地上を歩いた時とさほど印象は変わらず、ヴィエンチャンはやはりささやかな姿を地平線まで伸ばしているのだった。もちろん東京や上海のように地平線まで家屋やビルが延びているということはなく、人の暮らしの密度はわずか先で途切れ、その先は緑のベルトがずっと先まで続いていた。

ちょうど北向きの窓枠に1組の母と息子がいた。窓枠といっても幅が50センチほどはある石組みなので、2人はその上に座って遠くを眺めていた。2人の雰囲気は観光の浮かれた感じはなく、どことなく生活の疲れのようなものが透けていた。笑顔はなく、用心深い見方をすれば、身投げの前のような思い詰めた気配さえ感じ取れた。


僕は敢えてそんな2人の気持ちに水を差すように写真を撮らせて欲しいと申し出た。母親は恥じらいのような用心のようなはにかみを浮かべてから頷いた。

レンズを向けても特に笑顔を作ろうともせずに、それでも少しは緩んだ表情を見せてくれた。こういう場合は大方の商業写真家ならリラックスさせようと努力するのだろうが、僕はそのままを撮った。怠けたとは思わなかった。かといってそれが正解かもわからなかった。そもそもあらゆる生活場面において正解などあってないようなものだ。必要があるかどうかだけなんだと思う。

撮影を終えても、僕は凱旋門の眺めをしばらく楽しみ続けた。母と息子も僕がいようがいまいがお構いなしといった感じで、ぼんやりと遠くを無言で眺めているのだった。

この2人に、父は、夫はいるのだろうか。
ふとそんな思いが心を突いた。余計なお世話なのだが、その問いが予見する答えは、おそらく当たっているような気がした。プノンペン、サイゴン、ハノイ、と移動してきた中で、夫を戦火で失った人々の存在を身近にしてきたことからの想像だった。

僕の視野に加わったそのような家族の在り方。それに対して僕が抱く感情。旅というのは、様々な角度を僕に与えてくれる。それらの多くは不意に訪れて、情報ではなく経験として心に刻まれていくのだ。
僕は2人にお礼を伝えてから凱旋門から降りて行った。

元々は戦勝を祝って造られたはずの本国のそれだが、このヴィエンチャンでは、フランスの威光をラオスの民衆に普遍的に残す仕掛けにもなっているのだろう。どうせなら自由の女神の方がよかっただろうに、などと勝手なことを思いながら別の場所へと向かった。

黒塔はヴィエンチャンの観光スポットの1つで、500年ほど前に建てられたと言われてるストゥーパだ。
僕は小学生の時に考古学者になりたかったくらい遺跡には目がない。住宅地にひょいと現れたその姿は、巨象のようで、笑ってしまうくらい素晴らしかった。
その名の通り黒々とした石が積み上げられて出来ており、雑草や苔がむしている円錐状の塔だった。面白いのはそれが住宅地の一角にまるで児童公園のようにあることで、国宝級なのであろうに、やたり身近なのだ。ちょうど奈良を歩いていると古墳が四方に散らばっている姿を目にするのと似た感覚だった。


黒塔

その後はワット・シーサケットを訪れた。現存しているものとしてはヴィエンチャン最古のお寺である。ツーリストもほとんどおらず、気ままに静かな参拝となった。様式的にはタイのお寺と似ていて、僕には違いが分からなかったが、静けさは本来の聖なる雰囲気を伝えてくれていた。

僕は境内にある崩れた仏像などに惹かれて撮影をした。このような姿になるまでどれだけの時間を要したのだろう。ただじっと座っているだけなのに朽ちていくというのは、示唆的であった。
それらの意味するものは何だろう?居座れば朽ちていく。どうせなら動こうじゃないかと僕は理解した。


ワット・シーサケット


凱旋門、塔、寺、それらはヴィエンチャンで見ておくべき3本で、それを見終えてしまった今、いつここ出てもいいような気がした。
日本の京都にあたるルアンパパンという北部の古都に行ってお寺巡りをしても良かったが、なんとなく今回の旅でのラオス編はこのくらいでいいかなという見切りがついた。
先に進みたいと僕が考えたのには、ベトナム滞在が予想外の2週間となっていたことも少なからず影響があった。世界一周を掲げている中で、割とさっさと巡らないと終わらないというのは、ざっと計算した上での事実だった。

結局僕のラオス滞在はわずか2泊となった。一国に費やす時間としたはこれまでの旅で最短となった。

知り合った日本人と夕食を共にしたり、素朴なヴィエンチャンの様子を写真に収めたり、短くても結構充実していた。

最後に訪れた名所であるタート・アルンは国旗にも描かれているほど尊敬を集めている塔で、あいにく月曜日は閉門していたのだが、その姿は外からも拝められ、それだけでも十分満足できた。宗教宗派を問わず、僕は人が祈りを捧げる場所が好きなのだ。


タート・アルン

夕刻のマーケットは、早々と店終いとなり、日没後の西の空がまだ明るい中を、人々は家族のもとへと帰り支度を急いでいた。旅先での日暮れ時というのは感傷的になりやすい。郷愁のような寂しさは、ある種の豊かさを伴う。遠くに来たなあという動揺は、旅でしか感じられない寂しさだ。それはいつの日か、どこかの場面で、人への優しさへと成長するような気がした。



いいなと思ったら応援しよう!