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1995年のバックパッカー37 ベトナム5 静寂のハノイ

トランがサイゴンから去った翌朝、僕は6時に起床して、バイタクに乗って空港へと向かった。
バイタクのリアシートにつかまって流れゆくサイゴンの景色を眺めていると、どうしてもトランとの日々が重なるのだった。
あの交差点、この店、あの通り。目に入るもの全てに僕たちの何かが刻まれているようだった。実際に僕たちが訪れた場所、通り過ぎた場所で僕たちのサイゴンはできているのだった。バイクを運転するトラン。その後ろでロン毛姿で気持ちよく風を受けている僕。その姿がはっきりと早朝のサイゴンに漂っていた。
もし、幸福というものが形をとるのなら、まさにバイクに乗った僕たちの姿だろう。

さようなら、サイゴン。さようならトランと僕。

やがて僕を乗せたバイタクは、2ドル分を走り切り空港へと到着した。飛行機に乗れば僕は宙ぶらりんになれる。少なくともトランの消えたサイゴンからは離れられる。僕の不安定な心は、むしろ宙に浮くことを望んでいるようだった。

飛行機は僕を陸から分離させ、1時間40分の飛行を終えると、再び陸へと僕を繋いだ。ハノイであった。

僕は簡素な空港を出ると、マイクロバスに乗って首都の市街地へ向かった。
窓の外に無愛想だが美しい街並みが現れ始めると、そこが古都ハノイだった。日本で言えば京都に等しく、サイゴンは東京だった。
僕はあらかじめ安宿が探しやすい場所として目印にしていたダーリンカフェ付近で下車した。そこからシクロに乗り換えて、運転手に安宿を案内してもらった。
幸い適当な宿がすぐに見つかったので、チェックインを済ますと、そのまま休みもせずに外出し、ラオスのトランジットビザの申請をしに大使館へ行った。そして矢継ぎ早にベトナム航空のオフィスでヴィエンチャン行きの片道チケットを買った。国際便だがわずか90ドルだった。


僕はハノイに来たものの、長居をする気にはなれなかった。それはトランの思い出から少しでも早く離れたい一心だった。街は違ったとはいえ、そこはトランの母国ベトナムであり、その風土が僕を哀しくさせるからだった。
すでにハノイを発つ便はおさえた。その旅程にによれば、僕のハノイでの滞在は5日だけだった。それでも多すぎると思えたが、ベトナム航空の便の関係もあり、それが最短の滞在日数なのだった。
とにかく部屋でじっとしていても、トランが去った哀しみから逃れられはしない。ならばと、この5日間は動き回って気を紛らわすことにした。

その夜は、少し奮発して日本食レストランの「さくら」へ出かけた。
店内には「荒城の月」が流れていて物悲しかった。この曲をしっかりと聴くのは小学生以来だった。壁にぶつぶつの穴が無数にあるあの音楽室を思い出した。午後の光が窓から入る名曲鑑賞の時間が僕は好きだった。シューベルトやモーツァルトが好きで、日本の曲は暗いが美しいと感じていた。
僕は333ビールを飲み、とんかつ定食を食べ終えたからも、しばらくゆっくりとお茶を飲んで過ごした。なんだか遠くへ来たなと思った。トランは今頃クイーンズのアパートメントで何をしているのだろうか?ルームメイトにサイゴンでの出来事を語っているのだろうか。そこで僕はどう語られているのだろうか?

ニューヨーク、ハノイ。僕たちは遠くに離れてしまった。今は心は繋がっているとは思えなかった。ただこの地球というボール上の別の遠い縫い目にいるのだ。地球はとても大きかった。

翌日は自転車を借りて、ホーチミン廟へ行った。
サイゴンに比べて車やバイクの数は少なく、好奇心の強い節約型ツーリストには自転車が主な移動手段になっていた。ただ観光名所ではいちいち駐輪代がかかるので、面倒ではあった。
廟に眠るホーチミンさんのご遺体は、それが本物であること自体が不思議だった。社会主義国家の慣習なのかはわからないが、偉人の亡骸を保存する高度な技術があってこそなのは分かるが、こうして公開されていることも不思議ではあった。
その姿は照明の影響もあって肌は白く、眠っているようだった。もしくは失礼だが蝋人形のようでもあった。ふと隣りのイギリス人を見ると、まともに目を向けられないと言った様子で目を伏せていた。


その後はロシア資本によるホーチミン博物館へ行った。展示法はなかなか大胆でアバンギャルドだった。僕は見たばかりのご遺体と目の前の大胆な展示がうまく結び付けられず、あっけにとられもした。

一旦観光を終えると、GPO(中央郵便局)から国際電話で東京の事務所のマネージャーと会話をした。この旅に出て4ヶ月。出発前に取引先各所に連絡入れておいたが、いまだに仕事の依頼があるという。それらはテレビ出演、広告のムービー撮影など興味深い内容だった。

GPOを出てハノイの街を自転車で走りながら、僕がまだ東京と繋がっていることに違和感と喜びを感じた。帰れば仕事がまだある。仕事をすれば、また忙しくなる。おそらく4ヶ月のブランクなどなかったようにカメラマンとして復帰できる。今ならまだ帰っても間に合う。そんな考えが頭を過ったが、意外なほど惹かれはしなかった。僕には旅が、地球一周というものが未来にはあって、それをやり遂げたいという気持ちに揺らぎはなかった。それは意地とかではなく、本当にそれがやりたかったのだ。

僕は踵を返して再び郵便局に戻り、トランに手紙を出した。届くのは1週間後くらいだろうか。その頃には僕はベトナムにはいない。

ハノイの食事は悪くなかった。僕の低予算でも十分満足できた。その日のランチは、リアル・ダーリン・カフェ、夜はバンブー・カフェで食べ、夜食は露天のフォーで締めた。


翌朝はゆっくり9時に起床して、オールド・ダーリン・カフェで朝食をとった。ハノイにはいくつかのダーリン・カフェがあって、暖簾分けか、喧嘩別れか、コピーかは判然としなかったが、暇な僕はそれぞれに出かけていき、それぞれのファンがいると知った。

その後のハノイでの滞在は淡々と過ぎていった。

暇つぶしに市場をのぞいたり、名所を訪れたり、あてもなく歩き続けたりと、訪れる町は違っても、やることは似通っていた。
ローカルの人々が使う交通手段や飲食店を選び、ツーリストが旗と共に訪れる観光名所も行き、自分ぐらいしか行かなそうな路地に迷ったり、思わぬ出会いがあったり、体調を崩したり、などなど、それが繰り返されていくのだった。
俯瞰すれば、自由な旅すらも、なにかしらのルーティンに区分されていく。そういう意味では、まっさらな新しい経験というのは失われていく一方だった。
だが、それでも旅から離れられないのは、そこには街から街へと繋ぐ移動というものがあって、移動をしているという浮遊感と高揚感は、定住者には得難い経験なのだった。たとえそれすらルーティンだとしても、その輝きと揺らぎの色気は孤高とも言えた。


ハノイの日々の雑事は、トランへの想いからの哀しみをまずまず紛らわせてくれた。
初めて見るものに囲まれていることは、傷心の者にとって幸運であった。それでもベトナムのアルファベットや、後ろ姿がよく似た人を見かけるたびにトランを思い出さずにはいられなかった。

僕にはカフェなどで隣り席になった人に気軽に話しかけられる旅向きの性分があり、そのおかげで友人を作るのには困らなかった。また、出会う力というのもあるようで、数時間を行動を共にしたり、食事の相手をしてもらったりと、元来無口なくせに、人恋しさに打ちひしがれることもなかった。

日本食屋の「さくら」に再び行くと、そこで働く唯一の日本人のイナガキくんと友達になった。アルバイトの月収は日本円で七千円。驚くべき安さだが、ウエイトレスだとせいぜい四千円だと知りさらに驚いた。どのくらいのペースで働いているかは聞かなかったが、それでも生活できるということなのだ。イナガキくんは将来日本の現地企業に就職する予定だと話した。市場調査というのが主な仕事だという。

また、ハノイの中心部にあるホアキ湖には、まったりしたい時によく訪れて、フルーツを食べたりしながらベンチで過ごした。

ある時、隣りのベンチにいた母娘に話しかけられた、2人とも品よくにこやかで、感じが良かった。僕は感じよく話しかけてくる人こそ、用心すべきだと香港で学んでいたので、心の中で構えていたが無用だったようだ。
母が言うには、72年に夫を失い、今は40歳になるという。つまり17歳の頃に未亡人になったと言うことだ。現在はサイゴンに住んでいて、ハノイへは帰省旅行なのだとか。詳しくは聞かなかったが、72年はベトナム戦争の末期だから、おそらく夫はその犠牲者なのだろう。彼女と一緒にいる娘はきっと年齢からして再婚相手との子供に違いない。
彼女は辛いはずの過去のことを外国人である僕になぜ話したのだろう。自分の個人的なことを通して、あなたが今旅している国にはそう言う歴史があるのです、と伝えたかったのだろうか。
僕はしばらくの間、他愛もない会話で繋ぎ、話のネタが尽きると、手を振って別れた。彼女たちの後ろ姿を見送りながら、僕が後にしたサイゴンへ数日後には戻り、普段の生活が再開されるのだ。

ハノイの最終日は、オールド・ダーリン・カフェのメッセージボードにマッキーとアヤ宛の伝言を残した。彼らはまだサイゴンだろうか。ハノイでは会えずじまいだったが、またどこかで会える気がした。


さらに嬉しい買い物としては、コニカのビッグミニを110ドルほどで買えたことだ。もちろん新品である。まさかベトナムでカメラを買うことになるとは思ってもみなかった。

最後の夕食はハノイで出会った日本人達数人の案内で、ベトナムしゃぶしゃぶを食べに行った。タレがベトナム風というのが主な特徴で美味しかった。ビールを2本飲んで1人6ドル。レートは1ドル80円くらいなので、500円という安さだが、イナガキくんの月給を思い出し、安くはないなと感じた。

出発はいつものように朝だった。
マイクロバスで40分。ノイバイ空港に到着し、10時半の便で僕はベトナム社会主義共和国からラオス人民民主共和国へ向けて離陸した。宙ぶらりんになると落ち着いた。









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