1995年のバックパッカー 6 中国1 天津から北京へ
15時。
僕は生まれて初めて中国へと入国した。
天津港には、国土の巨きさを映すような雄大で孤独な造船所が並んでいた。ここで造られた船にとっては母胎となる天津の港。サーモンが故郷の河を遡上するように、船というものも故郷に帰るのだろうか。
僕は、コンクリートと鉄で固められた造船所を見るのが好きだ。現代の文明が、たった今稼働しながらも、同時に太古の遺跡にも似ているような、時空が曲がる感覚が得られる。それは少し大袈裟に言うなら、夜空を眺めて、光る星々の寿命や興りに触れる時の揺らぎに似ている。
巨きさというのは、時に空虚を感じさせる。そして巨きさは、なぜか少し切なく悲しい揺らぎがある。
無事通過できるだろうかと心配していたパスポートコントロールは、スムースだった。
あまりきょろきょろしないようにして慣れた風を装っていたので、憧れの国へ降り立った感慨に浸るまもなかった。
やれやれとターミナルを出ると、いきなり10人くらいの中国人に囲まれた。みんな真剣な表情で何かを訴えている。僕はどうしていいかわからず、愛想笑いすら作れずに彼らを振り切ると、ずんずんとただ前方へと直進した。
港というのは大抵そうだが、外に出てても何もないことが多い。詰め寄る男たちを振り切ったまでは良かったが、何もない漠然とした風景に出くわして立ち止まるしかなかった。
あれ、これからどうすればいいんだ?
10人中10人が、そう思う場面だろう。僕はもと来た方を振り返った。その瞬間にするべきことがわかった。移動手段の確保である。そしてそれは古びたバスの列から行く先に合うものを選ぶことだった。
歩み寄っていくと、ちょうど北京行きのバスを見つけた。なんとなく思い描いていたルートでは、天津の街に1泊してから北京へ悠々と向かう、というものだった。
だが、まるで天啓でも受けたかのように、北京直行を即決したのは不思議だった。天津行きのバスを探すのが面倒だったわけではないだろう。数台隣には実際それがあった。とにかく一旦決めたら動かせないような気分だった。もしかしたらかなり疲れていたのかもしれない。
北京までは5人民元。現在の感覚で100円くらい。当時はもっと安かっただろう。
ただ、手元に人民元がない。国際港なのに両替所もない。そのことをバスのスタッフに伝えると、北京に行けばできるから大丈夫、乗りな!ということで、乗車した。
出発までそこから待つこと1時間半。外国人よりも入国に手間取る中国人乗客で席が埋まるのを待っていた。結局天津港を出発したの17時だった。
なんにもなく、だだっ広い港を出ると、自転車に乗る人々がまず目に留まった。当時(今もかもしれない)の中国のイメージは、人民服と自転車である。
人民服こそ着ていなかったが、やはり自転車の国だと思えた。
通りは広く閑散としているが、歩く者はおらず皆自転車に乗っていた。僕はいよいよ中国に来たことを実感し、珍しいものでも見るように、自転車に乗った中国人たちを眺めていた。それぞれに行き先と暮らしがあって、生涯というものに日々関わっているのだ。この星の人間たちの全てがそうであるように、僕がそうあであるように。そして、他人どうしが一期一会のすれ違いを、それと気づかずにやり過ごしている。僕はそれを微笑むべきだろう。
無事目的地のあるバスに乗り、ほっとしていたのも束の間、僕は尿意をもよおしてきた。
景色がよく見えるという理由で前方乗車口のドア近くに座っていたので、隙間風に冷えたのだろう。僕はまだ余裕があるうちにと考え、隣に座る車掌にトイレ休憩をお願いした。もちろん身振りで。彼は理解したらしく、ちょっと待っていてくれといった返事をくれた。
だが、待てども北京行きのバスはハイウェイをいい感じで直進していくだけで、途中の休憩所に入ろうとしない。そのうち僕の尿意のリミッターが怪しくなってきた。
僕は再度車掌にトイレ休憩をお願いしたが、返事は同じだった。ちょっと待て、それの一点張りだった。
こういう時に機転が効くのは、自分のいい所で、旅向きだと言えるだろう。僕は最後部の席に移動して、何かの役に立つだろうととっておいた韓国のコンビニ袋を取り出すと、その中に放尿した。幸い後部には人も少なく、それでも気を遣ってうまく隠しながら放尿を終えると、やはり相当な量だった。
下腹部の張りはしぼみ、全身の緊張が抜けていった。快感であった。
バスは5分もしないうちに、ようやく休憩所へと緩やかに入って行った。トイレを待っていた乗客は多かった。みんな小屋から放たれた鳩のようにバスから散っていった。僕も黄色いぬるま湯の入ったコンビニ袋をぶら下げて下車した。もちろんトイレに捨てるためである。車掌にその袋を見せると、彼はそれがなんであるかを瞬時に理解して、顔を引き攣らせた。
とにかく漏らさなくてよかったと、中国の神にお礼を言いたかったが、どの神かが分からなかった。僕が好きな三国志の登場人物・関羽は神として扱われているが、商売の神だった気がする。まあいい、とりあえず関羽様に礼を伝えておいた。
北京へは20時頃に到着した。
日もすっかり落ちて夜になっていた。窓から眺める都会の風景の中で、人々の多くは自転車に乗っていた。街灯はオレンジ色で、それだけでもここが日本ではないことを示していた。
異国情緒に浸りつつぼんやり外を眺めていると、車掌は北京と告げて、なんだか寂しい場所に停車した。てっきり北京駅に行ってくれるとばかり考えていたが、中心地から外れたどこだか分からない場所で降ろされた。
もちろん地図はない。韓国に続き、なんとかなるだろう第二部であった。だがバス停には、仕事にありつこうとする人はいるものだ。人力車がちょうど通りかかり、乗れと誘う。
もはや他に頼りがない自分は、その人力車に乗った。ホテルまで行ってくれと言うまでもなく、彼は僕がどこに行きたいのか知っていた。
人力車に乗るのは、日本のどこかの観光地以来である。確か、鎌倉か、京都か。日本では健康な青年が人力車を引くのだが、北京の外れで巡り合ったその人は、結構な歳に見えた。申し訳ない気はしたが、僕が引くわけにはいかない。そのままホテルまで連れて行ってもらった。
中国では、外国人が泊まれる宿は決まっっている。ローカルの人が泊まるのはかなり安いはずだが、こればかりはルールなので仕方がない。僕は彼にいくつか巡ってもらい、彼もこの日本人はそんなにお金を持っていないと察して適当なホテルに連れて行ってくれた。
僕は受付で、両替しようとしたが、そのホテルではできないと言われた。近くにもっと大きなホテルがあってそこでなら出来ると言う。僕は人力車に再び乗って、そちらに向かい、無事に両替を済ませた、人力車の運転手にも言われるがままに3ドルを払った。少しは割増でとられただろうが、問題ない範囲だと思えた。大人1人と、30キロの荷物である。
そんなやり取りを、薄暗い路上で済ませた。道幅だけは広く、ホテルもぽつりぽつりと並んではいるが
、中心部ではない町はずれであった。大都会北京の喧騒を期待もしていたが、これが初日の現実であった。
荷物を部屋に入れると、空腹を満たそうと近くの屋台に寄った。蒸し立ての包子を12個食べた。これがとても美味しかった。言ってしまえば、小さな肉まんなのだが、これまで食べたなかで最高のものだった。それにビール。ハードデイだったが、とにかく仁川の港から天津へ、さらに天津からバスに乗って北京へと辿り着いた長い1日が終わろうとしていた。旅をしている実感を、夜、おいしさと共に味わえるのは素晴らしいことだ。
温かい食べ物、ぬるいビール。これ以上は望めないとすら思った。感謝するしかない。どなたに?関羽様にである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?