1995年のバックパッカー#29 タイ4 バンコクーカンボジア カオサンロードからプノンペンのキャピトールホテルへ。地雷を踏みませんように。
バンコクに戻った。寝床はやはりカオサンロードになった。
マレーシアホテル界隈に滞在すると、パッポンストリートに近いため、毎晩通いかねない。それはそれで何も問題ないのだが、そろそろ次の国が気になり始めていた。
ベトナムへは行こうと決めていたが、タイとベトナムの中間にあるカンボジアはちょっと迷っていた。理由は明白で、治安が悪いと噂に聞いていたからだ。
政治に疎かった僕だが、カンボジアにおけるポルポトの大量虐殺ぐらいは知っていた。おそらく映画「キリング・フィールド」を見ていたからだ。ジョンレノンの「イマジン」がラストシーンで流れる作品。僕にはそのイメージが強く残っていて、簡単に言ってしまえば、びびっていたのだ。
だが、カオサンにたむろしている諸外国からのバックパッカー情報によれば、治安は完全には安定してないが、旅はできるということらしかった。こういう口コミは最新情報として頼りになった。なにしろスマホもSNSもない時代だ。
まあ、そんなわけでベトナム、カンボジアのことが気になってそわそわしていた自分は、パッポンの女の子にかまけていられなかったのだ。そして、なによりもの真実は、パッポンストリートは逃げない、ということだった。そう、いつだって行けるのだ。
そんなわけで僕はカオサンに滞在しながら、カンボジアへ行こうと意思を固めつつ、タイ焼きそばのパッタイとチャーンビールの繰り返しに明け暮れていた。
もちろん、食堂で居合わせたバックパッカーに声をかけてカンボジアの情報は集め続けた。
だが、たいていは暇でもあったので、ヌイのいるタトゥ屋を訪れた時に、なんとなく新しいタトゥを2つ彫ってもらった。おそらくタトゥを入れたことがある人なら分かるだろうが、熟考を重ねずに、なんとなく入れるのがタトゥというものだ。絵柄も見本帳をぺらぺらめくって、餃子セットに決めるかのような口調で、僕はヌイに頼んだと思う。
右二の腕外側にアジアの龍を、左胸に欧米のドラゴンを墨色で入れてもらった。あいにく現金の持ち合わせがなかったので、代金をGショックで払った。特にレア物ではなく、ちょっとゴツい感じのもので、ヌイはとても気に入ってくれた。
彫り終えたヌイは、彼のカメラ「写ルンです」で写真を撮ってくれた。約25年後に、そのレンズ付きフィルムなるカメラが日本の若い人に流行るなんて誰もが想像していなかった。
彼が彫った作品は、その顧客の顔と共に、店の窓に外に向けて宣伝用に貼られることになる。通行人はその写真を見て、ぶらりと入ってきては、なんとなくお土産でも買うようにタトゥを入れていくことになる。
そして、その時の龍2匹の写真は案の定そこに貼られることになった。
だが、それを知るのはもう少し後のことになる。
ヌイは中華系のタイ人である。
顔はあっさりしていて、人懐っこい感じがする。タトゥを全身に入れた姿は一瞬どきりとさせられるが、その顔を見て、なんだかほっとする、そんな風貌だった。
おそらく彼のこれまでの人生はいろいろあったのだろう。だが、今は仲間を見つけて、ちゃんと仕事をし、割と楽しくやっているように見えた。僕は彼の親戚でもないけれど、なんとなくヌイのこれからのことが気になった。
僕がまたカオサンに帰って来れば、ヌイには会えるだろう。なんなら会う度に新しいタトゥを入れてもらうかもしれない。僕はそれまで彼に元気でいてもらいたいと思った。きっと不安定な仕事でもあるだろうから、なおさらそう願うように思った。
タイの次の行き先は、結局カンボジアに決めた。
森には撤去されていない地雷がまだ数多くあると聞くが、そういう場所へ行かなければ大丈夫だろう。
僕はカオサンに5日ほど滞在し、パッポンに行く回数をセーブし、英気を養うようにして過ごした。安食堂で栄養のありそうなものをたくさん食べて、チャーンビールもたくさん飲んだ。カンボジアではたいしたものが食べられる保証がなかったのもある。
そして、出発を午後に控えた朝、カオサンで適当に朝食をとっていると、パンガン島で一緒だったマッキーとアヤに遭遇した。彼らはまだパンガン島にいるものだと思っていたのでびっくりした。
二人とも変わらず元気そうだった。大柄で眠そうなクマのようなマッキーと、小柄でしっかり者のアヤという2人は、カオサンの喧騒の中で見ると、なんだか可愛く見えた。都会に迷い込んだ野生動物のようでユーモラスでもあった。
そんな2人は、僕が午後にはカンボジアの首都プノンペンに出発すると知ると、同じく4、5日以内にはプノンペンに向かうつもりだったという返事をくれた。
彼らは陸路を使おうか迷っているらしく、陸路のボーダーは開いたり閉じたり不安定らしいと伝えた。国境まで行って引き返すのは面倒だな、というマッキーの呟きを待たずに、じゃあ私たちも空路かなとアヤがうなずきながら言った。
じゃあ向こうで、と彼らは告げて去っていった。明日学校でね、とでもいった感じで。
きっとカンボジアでも会えるだろうと僕も感じた。それも道の向こう側にいるのを見つけるような感じで。僕はそういう出会いや再会を偶然と呼ぶべきか、必然と呼ぶべきかをまだ分からずにいた。だが、そういうことは旅の途上ではよく起こるのだ。それを僕はそれ以降、しっかりと知ることになる。地球は人で繋がっているのだ。
バンコクからは飛行機に乗り、1時間ほどであっけなくプノンペンに到着した。7月29日の土曜日のことだった。
空港は小さく、ターミナルは素っ気なく、くたびれた感じだった。
外に出ると、バイクタクシーに2ドル払って市内へと向かってもらった。
バンコクと比べると、プノンペンの街は一昔前の様相で、なんとなく緊張感があった。
独裁者ポルポトが失脚したのはわずか2年前で、僕が旅した95年当時はまだ存命であり、残党らと共にジャングルに隠れていた。つまりポルポトの息のかかった人間が、その時も市内をうろうろしている可能性があった。
多くの人が命を落とした街には、その死の苦しみと悲しみの記憶がまだ生々しくあるように感じた。これは僕の勝手な思い込みだったのだろうか。
僕はバイクのリアシートから、なんだかとんでもない所に来てしまったのではないかと実感していた。現実的にはあり得ないかもしれないが、市中戦が目の前で始まりはしないかと、緊張していた。
宿は、旅人情報から聞いていたキャピトール1を選んだ。味気のない無骨な古びたコンクリートの造りの建物だった。その一階が食堂になっていて、そこから階段を登ってたどり着いた206号室が、この街での僕の最初の居場所になった。値段は3ドル。レートが1ドル90円ぐらいだったので、270円で個室に泊まれた。もちろんトイレとシャワーは共同だったにしても、とても安い。窓は頑丈な鉄格子にしっかりと覆われて、それが内戦の気配をなおも残しているように感じられた。
僕は夕方に差し掛かったプノンペンの街を、中心地にあるセントラルマーケット目指して歩いた。
バンコクに比べると歩いている人は少なく思えた。活気があるとは言えないが、人々には悲壮感はなく、淡々として見えた。恐怖政治が終わってわずか2年しかたっていないのだが、成人男性の何割かが殺されたとされるカンボジアの暗いイメージよりも、街は穏やかに感じられた。そこには災害後の呆然とした空気のようなものがあった。
プノンペンのキャピトールホテルには1と2があって、1の食堂には日本人向けの情報ノートが置いてあった。
そのノートは、多国を旅するバックパッカーたちが自由に情報交換するためのもので、いわば掲示板だ。そこには現地の生の最新情報が置いてあり、低質なものはほとんどなく、使える情報がたっぷりあった。食欲、知的好奇心、ビザ情報、危険地域、そして風俗情報などが、満載のノートであった。
そういった情報ノートが当時は世界中の有名安宿に存在していて、そのノートを見るために、わざわざ遠回りしてでもその安宿に泊まったり訪れたりするのが普通だった。
ごくたまに、そのノートを目当てに来た先客に順番を待たされることすらあったのだ。
そのノートによれば、翌朝向かおうと考えていたアンコールワットを
擁する町シェムリアプへは、陸路は危険だと記されていた。一応バスで行けるのだが、強盗や銃撃のリスクがあるらしかった。だが、水路も全く危険がないわけではなく、ただの確率の問題なのだった。船ですら岸から襲撃されることもあるという。
僕はその情報ノートから、なんて所を旅しているのだろうと、今さらひんやりと実感した。
陸路で行くと銃撃?強盗?
水路でも岸から銃撃?
日本だったら戦国時代のような言葉の羅列である。だが、紛れもなくこれが1995年のバックパッカーがカンボジアで経験した現実なのだ。
僕はキャピトールホテルで翌日のシェムリアプ行きのボートチケットを買い、その夜は大人しく早々と寝ることにした。
どのみち夜9時以降は外出を控えた方がいいとされていたし、翌日8時間以上の大移動に備えて、体調を万全にしておきたいというのもあった。
シェムリアプとプノンペンの間には、巨大なトンレサップ湖があり、その北端にシェムリアプが、そして南端から車で4時間あたりにプノンペンが位置する。
つまり、翌日は車で4時間、船で4時間の旅となる。おそらく車は悪路の埃り道を行くだろう。船は快適な船内の持ち合わせがないだろうし、エンジン音はやかましく、僕の苦手なガソリンの匂いと煙にやられるだろう。
それらの負荷に対抗するのは体力だけだ。いずれまたプノンペンには戻ることになっていたので、今は首都への好奇心に蓋をして、ともかく体力を満たしておこう。僕が考えられるのはその程度だった。
僕は囚人部屋のような個室にすら、安堵を覚えつつ眠りについた。思えば朝にはまだカオサンロードにいて、マッキーとアヤに偶然あったりしていたのだ。それが夜になると、治安の悪いプノンペンにいて、わずかだが緊張と不安の夜の中にいる。だが、僕はそういう時にこそ、自分が旅の中にいることをしっかりと実感するのだった。
温かい馴染んだあの東京のベッドから離れて、日毎違うベッドに眠っているというのが、旅をするということであり、寝心地は良くはなかったが、生き心地は、おそらく最高なのだった。