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1995年のバックパッカー #26 タイ1 バンコク1 カオサンロードのタトゥ屋とホテル88の女たち

ネパールのカトマンドゥからタイのバンコク、カオサンロードへ移動した翌日から、僕は意欲的に動き、歩いた。
日記には、マレーシアホテル周辺エリア、パッポンストリートを下見と記されている。ただの散歩ではなく、「下見」とあるからには、何か目的があったようだが、真意は今となっては分からない。

パッポンストリートは、言わばキャバクラを中心とした風俗街で、一つ隣の筋には、日本人の出張ビジネスマン御用達の歓楽街タニヤ通りもあった。
ネパール滞在中に、他のバックパッカーから得た情報なのか、またはガイドブックのロンプラ(ロンリープラネット)からなのかは分からないが、とにかくバンコク到着の翌日にはパッポンを下見していたのは事実で、バックパッカーの分際でキャバクラを目指していたのだろう。なかなか健気である。
日記によれば、僕はバンコクの暑さにすぐにばててしまい、下見は最低限のものになったようだ。


カオサンロード

カオサンロードに戻った僕は、夜になってタトゥー屋に出かけた。
現在のカオサンロードは、中級ホテルやお洒落なアパレル店や雑貨店が並ぶ観光地になっていて、当時の胡散臭さは微塵もないようだ。
95年のカオサンは、名前の由来となっている米の倉庫街だった頃の面影は薄れていたが、品の良くない下町の通りの一部に、なぜかお金のない外国人バックパッカーがたむろしているへんてこりんな通りで、妙に落ち着ける沈没街であった。
昼間の歓楽街の下見の疲れを長い昼寝によって癒した僕は、気分も良く、体も軽々としていた。タイパンツを値切って買ったり、シンハービールのロゴ入りTシャツ、海賊版カセットテープ、銀の安アクセサリーなどを品定めしながらぶらぶらしていた。

カオサンは端から端まで歩くと案外長い通りで、夜の優しい風が抜けていく中をぶらりぶらりと歩くのは、それだけで心地よく、世界中からの若いバックパッカーと知り合うには、最高の場所のように思えた。
国の数でいえば、韓国、中国、ネパールとわずか3カ国を3ヶ月かけて旅したに過ぎない僕であったが、すでに旅慣れた気がしていて、バンコクに到着したてらしき欧米の旅人たちが不安げに宿を探している様子を、先輩のような優しい目で追ったりしていた。
カトマンドゥにはない華やぎとグルーブをバンコクに感じていた僕は、ここなら沈没してもいいかもしれないと直感していた。カトマンドゥになくて、バンコクにあるもの。それはセクシーであった。普通に色気と言ってもいいのだが、やはりセクシーがいい。

カオサンロードを尚も軽々と歩いていると、ちょっと路地を入った所にタトゥー屋を見つけた。天井の低い小さな倉庫のようなその店のガラス窓には、同時プリントの写真がびっしりと貼ってあり、タトゥを入れたバックパッカーたちが彫りたての絵柄と共に誇らしげに写っていた。
その気もないままに、なんとなく店内に入ると、彫り師と思われる4人の男たちが出迎えてくれた。愛想がいいわけではないが、悪い感じはしなかった。むしろ毎日顔を合わせている友人に対するような素っ気なさに僕は親しみを覚えた。
彼らの名は、ヌイ、アレ、エディ、テシ。
ヌイは一人だけ中華系で、それ以外はタイであった。4人とも全身タトウだらけで、囲まれるとなかなか威圧感があった。中でもリーダーらしきエディは骨太筋肉質で落ち着いていてうっすらと危うさを感じさせた。彼以外は素朴な青年たちに思えた。


ヌイ

僕は彼らの間に座り、しばらく他愛もないことを話していた。地元の中学時代に戻ったような居心地の良さもあって、そうこうしているうちに自分も小さなタトゥを彫ってもらうことになった。
絵柄の見本帳から、トライバル柄をひとつ選び、場所は背中の右肩部分に指定した。担当となったのは中華系のヌイだった。
まさか27歳にもなってタトゥを入れることになるとは想像していなかった。結構な遅咲きだろう。
昨日までカトマンドゥにいて、翌日の夜にはバンコクで、バナナでも一房買うような気軽さでタトゥを入れてもらった。不思議な気もするが、どうってことはなかった。「親にもらった大切な体に」というのが心を横切ったが、結局それは歯止めにはならなかった。
後年、老いた父と温泉の浴場に一緒に入った時に、なんとなく距離を置いてしまったことを考えると、タトゥを入れなくても良かったとは思う。だが、27歳の僕は、やはり旅の熱の中にいたのだろう。
ヌイは、仲間と談笑を続けながら、ジリリジリリという機械音と共に、僕の肌を彫っていく。痛くはあったが想像の範疇で無理なく耐えられた。
小さなものだったので、初めてのタトゥ入れは30分ほどで終わった。傷が瘡蓋になるまで数日は濡らさないようにとだけ言われ、クリームを渡された。それで終わりだった。あっけないものだった。

初タトゥ

僕はその店にしばらく居残り、ヌイからもらったチャーンビールを飲みながら彼らと話し続けた。タトゥをいれてもらったことで、その店と彼らとの間には連帯感のような芽生えていて、さらに居心地のいい時間となった。
そのようにしてバンコク2日目は終わるはずだった。

だが、彫り師のヌイとテシと僕の夜はそこからが始まりになった。どういう話の流れでそうなったのかは分からない。日記にも記憶にもない。
ただ若い男が3人集まればそういうことになりがちではある。そこに国境はない。
テシがハンドルを握る小型のバイクに僕たち3人は重なるように乗り、女のいる場所へと向かった。ノーヘル、3人乗りというのは、バンコクではありなのだろうか。テシとヌイが醸し出す「いつも通り」という感じは安心感の欠片を与えてくれた。実際ノーヘルも3人乗りも、普通に路上で見かけていた。現在はどうなっているかは知らないが、当時のタイ王国では、バイクというものは、風と共に走るものであったし、家族全員を乗せて移動するためのものだったのだ。
そして、ヌイと僕とテシは、それぞれの青春の一瞬を共に分かち合い、夜の街を軽やかなエンジン音と共に、性欲とその他の欲を散りばめた軽い脳を移動させていた。

15分ほど走っただろうか。
僕たちは88ホテルという名の古びた大きなモーテルに到着すると、ヌイとテシについて、2階の部屋に勝手のずかずか上がっていった。どうやら話はついているらしい。
その部屋は割と広かった。大きなベッドがひとつある。まもなく、7、8人の女の子が案内人と共に入ってきた。彼女たちは媚びた表情を作ることもなく、スーパーのレジで順番を待っているかのようだった。自分が選ばれることに興味がないというよりは、媚びるということを知らないかのようだった。
ヌイやテシに聞くまでもなく、僕がすべきことは、その中から好みの子を選ぶことだけだった。テシとヌイが先に選ぶとばかり思っていたが、どうやらまず僕が選ばなくてはいけない空気で、そうか、さあどうしようと彼女たちひとりひとりに視線を送った。
こういう時に時間をかけ過ぎるのは好きではないので、さっと決めたかったが、うーん、選べないなということになってしまった。好みとか言っている場合ではないことくらい分かっていたが、それでも選べなかった。
お先のどうぞ?という感じで、ヌイとテシに顔を向けて、そそのかしてみたつもりが、彼らも一向に応じない。外見的にはごく普通の若い女の子といった7、8人なのだから、ヌイやテシにしてみたら選べないことはないはずだ。それでも彼ら2人は選ばないのだった。
とはいえ、僕の好奇心と性欲も閉店してしまっていたので、どうにもならない。誰かを選べないかと彼女たちに三度視線を送るのだが、このうちの誰かと別の部屋に行く気にはなれなかった。僕としてはヌイとテシが楽しんでいる間にその辺をぶらりと散歩していればよかったのだけど、彼らは僕が誰も選ばないのを察してからは、まるで他人事のようにその場にただ立っているだけだった。
結局、彼女たちは来た時と同じようにぞろぞろと部屋から出ていった。値段は350バーツだった。

モーテルの名前は88で、僕の誕生日と一緒だった。中華系の文化では8はラッキーナンバーだ。どうせなら8888と四桁にすればいいのにとどうでもいいことを考えた。
その88からの帰り道、僕たち3人はそれぞれ何を感じ考えていたのだろうか。
ほんの数時間前まで、僕の肌にはタトゥーはなく、まっさらだった。そしてさらに半日ほど遡れば、僕は歓楽街のパッポンストリートの下見をしてばてていた。そして前日はカトマンドゥで旅行記の原稿がうまく書けずに悩んでいた。
旅の中の数日内で起こることは、どこかに定住している時よりも加速的にめまぐるしく移ろいゆく。経験と成長が紐づいているとしたら、旅をする人は、そうでない人よりも、多くを学び、多くを得て、そして失うものも多い。ただ、この加速感にいったんは慣れると、その速度で生きることしか愛せなくなる時期があるのだろう。
実際この三ヶ月で見聞きしたものは、東京でいくら刺激的な日々を送っていたとしても届かない経験ではあった。

釜山、ソウル、仁川、南京、北京、ウルムチ、上海、香港、成都、チベット、カトマンドゥ。言葉も文化も食べ物も違う場所を渡ってきた三ヶ月。たかが三ヶ月で、僕は多くの経験と失敗を繰り返した。
僕はテシの運転するバイクの荷台に揺られながら、バンコクの夜景と
心地よい風の中で、この旅の濃密な日々を自然と振り返っていた。たかだか90日そこらで、思いもしなかったほど濃密な日々を過ごせてきたことが、自分でも不思議で信じがたかった。
テシの運転するバイクが、カオサンロードに差し掛かり、バックパッカーたちがそぞろ歩き、安カフェでビールを飲んでいる姿を見たときに、家に帰ってきたかのような気がした。
その日に関しては、その後の記憶も記録もない。
タトゥショップに戻った僕ら3人はさっさと解散したかもしれないし、誰も抱かずに終わった夜に、チャーンビールで乾杯したかもしれない。いずれにしても、僕たちの楽しい夜は終わったのだった。日付は変わり、7月7日七夕の金曜日を迎えた。


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