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1995年のバックパッカー17  中国7 阻朔に輝く月 。そして、男と女の「行く、来る」物語。


阻朔(ヤンスウ)での相棒はデンマーク人のマイケルだった。いつもサッカーのシャツを着ていて、どこのチームかは聞かなかったが、おそらくデンマークのものだろう。

月亮山から戻り、ホテルで寝ているとそのマイケルが訪ねてきて、夕食に誘われた。いい店があると言う。連れて行かれた先はミッキー・マオス・カフェだった。ユーモアの効いたネーミングだが、政府に目をつけらていないことに感心した。マオは言わずと知れた毛沢東のマオだからだ。崇拝の対象をおちょくって大丈夫なほど中国も変わったのだろうか。


僕とマイケルが食事を済まし、ビールで寛いでいると、オーナーのムーンシャインと友人のマックが僕らのテーブルにやってきて、しばし雑談後、阻朔のディスコに行こうと誘われた。

僕はこの旅に出るまでは、東京中のクラブに連夜出没し、後にその時に撮ったものを「90nights」という写真集にまとめられるほど遊んでいた。クラブはディスコとは違うカルチャーがあって、正直ディスコやそこに集まる人々を今とは違って一段下に見ていた。こっちはファッションであり文化で、あっちは大量消費風俗だと。

それが今さらディスコに行くことになるとは、僕は逆に楽しくなった。ムーンシャインとマックが胸を張るようにして誘うディスコとやらで大いに楽しもうじゃないかという気になっていた。郷に入りては、である。


僕とマイケルは結構わくわくしながら雨の中を歩いた。1件目はあいにく閉まっていた。中国の田舎の小さな街の夜、雨の降るあの時間と景色を、なぜか今でも覚えている。他に忘れてはいけないことは沢山あっただろうに、あの雨の道すがらは、思いの外に素敵だったのだろう。

2件目に到着し、中へ入ると、そこは暗闇だった。薄暗い夜の街を歩いてきた目にもさらに暗くかんじるほどの闇だった。ようやく目が慣れてくると少しはフロアが見えてくるのだが、照明はほとんどなかった。僕とマイケルはお互い驚いていただろうが、視線を合わせることもできずに「なんじゃいこりゃ」であった。人々はその暗闇で社交ダンスを踊っている様子だった。もはやディスコですらない。社交ダンス・イン・ザ・ダークネスである。そしてそれはそれで良かったのだ。未体験だったからだ。僕は来て良かったと納得した。

さらに目が慣れてくると、テーブルがあることもわかり、そこにマイケルと座ってしばらくフロアを眺めていると、店の女の子らしき3人がついてくれた。

僕たちはビールで乾杯した。値段は83元。日本円で1000円ほど。激安なのだが、当時の僕たちには高く感じられた。一泊10元のドミトリーに泊まっているような僕たちにしては。


社交ダンス・イン・ザ・ダークネスを視察、堪能した僕たちは、そのディスコを出ると、一旦ミッキー・マオスに戻った。マイケルが女の子を買いに行こうと言ったからだ。つまり彼がいい店があるとその夜の始まりに僕を誘ったミッキーマオスには、それを斡旋してくれるムーンシャインがいたからだ。

無論断る理由はない。僕はマイケルとムーンシャインに従うこととなった。中国の田舎町、阻朔での忘れられない夜の始まりだった。

どこに行くべきか、実際店でどうすべきかをムーンシャインに教わり、すでに勝手知ったる様子のマイケルと夜の街のパトーロールに出かけた。

雨に濡れたアスファルトは、夜になっても営業している商店などから漏れる蛍光灯の光を反射して、情欲の揺らぎを映しているようだった。中国では理髪店が娼館を兼ねていることになっている。それらが、ただ散髪をしたり髭を剃ったりする所でないことは、初見の者にとっても明白だった。店の中では数人の女の子が薄着でソファにだらりと座り、することもなく、自分が何かを待っていることさえ忘れているようだった。

どこからかの男が店のドアを押してひょいと顔を見せても、一瞬ぽかんとした表情で、何をしにきたのかと言わんばかりの無表情で迎える女の子もいた。

僕とマイケルは、そういう理髪店をいくつか巡って、めぼしい子を見定め終えると再びミッキーマオスに戻り、どの店のどの子が気に入ったと伝えるのだった。


そこからがムーンシャインの仕事だった。彼が言うには外国人は一旦仲介者が必要で、それをしないと当局に捕まるのだとか。一介のトラベラーに過ぎない僕らは、勿論そんなことを望みはしない。僕はムーンシャインが間違えて別の子を連れて来ないように、念入りに女の子の着ている服の色や形、髪型、雰囲気(優しそうだったとか伝えた)を確認した。ムーンシャインは意味もない自信満々な表情を浮かべた。この僕たちの真剣さはまるでコメディだと客観視もできていたが、サインミスを避けようとする姿勢は、さながら野球のピッチャーとキャッチャーのサイン交換のようで、なんだか馬鹿馬鹿しくも純粋な感じがした。

マイケルはどうも値段のことが引っかかる様子だった。彼に言わせれば、この土地の平均日給は300元でに、日本円だと500円ほどになる。そして女の子の値段は300~600元、500~1000円だ。僕は妥当どころか安いのではないかと思ったが、彼はわずか40分ほどで1日分を稼ぐのはおかしいと言い張った。なのでマイケルは今夜はパスすると言った。もしかしたら、単純に好きな子が見つからなかっただけではないかと勘繰ったが、それは彼の問題だ。

ムーンシャインは15分ほどして戻ってきた。僕が気に入った子は、すでに他の客を取ってしまっていたらしい。そういうことなら仕方がない。


それから20分ほど待ってムーンシャインは別の子を連れてきてくれた。彼が言うには800元だと言う。帰らずに横にいたマイケルは小さく首を振っていた。僕はムーンシャインにその子にすると伝え、彼の案内で、トイレの脇を抜けて奥にある小部屋にその女の子と入った。

その子は自分が小太りなのを気にしている様子だったが、僕はそんなの大丈夫だよと身振りで伝えた。実際お腹に皺が3本あったが、事実僕にはそれがどうしたの?だった。

その部屋にはドアがなかった。そして店内向こうからのざわつきがそのまま聞こえてきた。僕は自分を繊細な男だと思ったことはなかったが、そのせいか集中できずに、彼女とはいい時間を過ごすことができなかった。するにはしたが、勃ちきれなかった。なんとなく情けない思いで、40分を使い切って店の中に戻ると、マイケルはまだいて、いたずらっぽい微笑みを浮かべていた。彼はいつものサッカーシャツを着ていて、ミスして交代させられたプレイヤーである僕を、ベンチにいたマイケルが迎える時はそんな顔をするのだろうなと思った。


僕は冗談でムーンシャインにドアもないし、騒音はあるし、集中できなかったと文句を言うと、彼は本気に受けてしまい、詫びてくれた。いやいや、別にいいんだと言っても、妙に彼には真面目なところがあるのだった。

と思いきや、詫びるのを済ませると、彼は僕の相手をしてくれた女の子がまだいるはずの奥の部屋へと消えていった。おそらく支払いのためだろうと思っていると、15分後にベルトを締め直しながら彼は戻ってきた。

彼が何をしてきたのかは明白だった。彼は仲介料として女の子から1回分の約束をしていたに違いないと想像したが、それは聞かなかった。マイケルは小さく頷きながら、こういうことだと言わんばかりの微笑みを浮かべていた。

おそらくムーンシャインは自分の1回分を上乗せしていたのかもしれない。だが、それがどうしたという感じだった。それはきっと当然のことのように思えた。僕がムーンシャインとして阻朔に暮らしていたら、それは当たり前のことだっただろう。

ムーンシャインは大切なことを内緒で教えてやろうといった雰囲気で、僕の耳元に寄り、小さな声で、同じ子で2回目、3回目となれば、50%オフになると言った。僕はそれはいいシステムだと妙に感心したように返した。茶番は茶番だからこそ楽しい。ただ、この2人の小芝居劇場を鑑賞する者は誰もいなかった。

僕とマイケルは2時ぐらいまでミッキー・マオス・カフェに居続けた。この地球上には、こんな風に更けていく夜が無数にあって、この瞬間にも無数の人たちが誰かと肌を合わせて、どこかに行こうとしたり、どこから来たりしていると相手に伝えている。つまり、「行く、来るの物語」だ。そのことを想像して、僕は一人ではないんだなと、変な一体感に浸っていた。



翌日は、船で桂林方面へと川下りをして、世界で唯一の山水画の風景を楽しむことにした。

瑠江を北上。楊堤まで。8時以降の出発だと政府に見つかるので値段も1100元以上になるが、それ以前だと80元で行ける。僕は20元を節約するために8時前の船に乗った。

長期間、人によっては無期限の旅をするバックパッカーには現地の金銭感覚で動くことが求められる。自国の通貨に換算することはもはや無意味だというのが彼らの共通感覚だ。

その朝、観光船上で一緒になったトラベラーは様々だった。NYから1年以上も旅をしている女の人。コロラドからの3人組。スウェーデン人、デンマーク人、ドイツ人。ほとんどが欧米人の中、僕だけが唯一のアジア人だった。


興平からの帰りのバスでちょっとしたことがあった。乗車前に聞いていた値は3元だったが、いざ乗ると5元だという。私1人ならその2元(日本円で30円ほど)構わずにいただろうが、 NYからの女の人が抗議し3元に戻った。2元をあれだけの労力を費やして値切るのはすごかった。こうでもしないといけないのかと疑問に思いつつ、他の乗客の様子からやはりそうしないといけないらしいと知った。

NYからの女の子にしてみれば、自国ではわずか30セントである。だが、ここは中国で平均日給が5ドルなのである。つまり自国の感覚換算では7ドルの差額に相当するということだ。

こういうのは、旅をする者の、その旅の性格と、懐次第ではないかと今は思う。

限られた予算内でできるだけ長く旅をしたいと思うなら、それは節約を徹底しなければならない。長く旅をするということが何よりも優先される。一方で限られた期間内のバカンスで、ある程度予算に余裕があるならば、チップのつもりで多少多く払ってもいい気がする。インドのバクシーシ(喜捨)は富める者はそうでない者に施すことが美徳とされる。つまりこの世で徳を積むことに当たる。つまり旅する者次第でいいのではないか。

当時の僕は、予算に限りがあり、それでもできるだけ長く旅をしたいという立場だったので、節約を徹底しなければいけないはずだったが、時にそのせいで自分の旅が短くなっても仕方ないなと思える時には、少し多めに払わされているのも良しとした。つまり気分次第であった。それは僕の生き方の表れであり、だいたいのことは、割とどうでもいいやという人間なのだった。

その夜は、行きの船で一緒だったコロラドからの3兄弟に誘われて夕食を一緒にすることになった。無期限で旅をしているという日本人の若造に興味を持ったらしい。


船上の、コロラド3兄弟。

彼らの名は、年長からポール、デビッド、ステーブンであり、ポールはやたらと瞬きを多くしながら話す癖があった。ポールは僕と正対したテーブルの向こうから、「これはジェネラル・クエスチョンなのだけど、どうして君はそんなに長い旅に出ようと思ったのかい?(フレンドリーで大らかなコロラド人風)」と投げかけてきた。そこに純粋な興味と、わずかなリスペクトを読み取った僕は、何か素敵な答えを返したはずだったが、覚えていない。ただ、彼ら3兄弟が、なるほど~みたいなリアクションを返してくれた雰囲気は覚えている。

この旅に出る前に、僕はコロラドに撮影仕事で訪れたことがあった。そこでビートジェネレーションのレジェンドたち、つまりアレン・ギンズバーグや、ゲイリー・スナイダーと同じモーテルに泊まり、彼らのポートレイトを撮影したことがあった。もしかしたら、その件を3兄弟に伝えたのかもしれない。アメリカのコロラドから中国の阻朔くだりまで来るような彼ら3兄弟は、おそらく旅行と旅の違いを知っているのだろう。そして彼らの中に流れるかつて北米大陸を旅して回った先祖の血が、僕を眩しく見せていたのかもしれない。

グッドラック!席を立つ時に、3兄弟は口々にそう言った。長兄は瞬きではなく、ウインクをくれた。

現在の彼らはいい歳のおじさんになっている。長兄のポールには孫さえいてもおかしくない。グッドラック。





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