1995年のバックパッカー#31 カンボジア2 シェムリアップープノンペン たまにはちゃんと考えた。
アンコール遺跡群からの帰り道、森の道が終わり、シェムリアップの町に入ってすぐの広場で、ムエタイの野試合が開催されていた。夕暮れの空の下、その素っ気ない四角いリングは、日本の盆踊りの櫓と重なった。
シェムリアップの、屋根もない広場でのムエタイは、本場バンコクのルンピニースタジアムとは規模も内容も雲泥の差があるが、そこにはメコンの田舎興行の長閑さがあって、別物として十分楽しめた。
選手は概ね小柄であり、少年選手の姿もあった。
僕はリングサイドや主催者席などを、自由にうろついて写真を撮った。もともとこの旅の目的は撮影ではなかったが、そういう滅多に経験できない状況では、やはり自然と体が動くのだった。
日没後はアンコール遺跡群ですら治安が保証されず、地元の人も行きたがらない。そのムエタイの野試合は旅行者の夕方以降の暇つぶしにもなっていて、まあまあの集客だった。
田舎町の興行とは言え、リング上では真剣な闘いが繰り広げられている。一方で視線をリングから公園の外、周囲の先へと外してしまえば、そこには夕刻の蝙蝠が飛び交う東南アジアの田園の美しさが広がっていた。
その自然は湿度をたっぷりと湛え、深く息を吸い込めば、肺ごと水気にむせてしまいそうだった。かつては、この一帯も巨きな深い森の中だったことだろう。そこに忽然とアンコールの都市が興ったのだ。
やがて時代は下り、そこは戦場になり、地雷が埋められ、多くの命が犠牲になった。そして戦いは終わり、今では人間たちが商売としての闘いを楽しんでいる一角もある。僕はそんなことを思い巡らして、小さく身慄いした。大きな時代の変遷や自然の歩みに比べて、人の世と人の一生の途方も無い小ささを直感し、眩暈がした。
僕たちが抱える日々の何かは、僕らにとってはそれなりの質量がある。だが、悠久のメコンの森の中では、落ち葉一枚が擦れ合う微かな音程度に過ぎない。
僕たちは、なんというささやかな一瞬に生きているのだろう。僕はそんな思いが、深い場所へと繋がっている道への入り口のような気がしたが、それ以上は考えが伸びなかった。
しばらくの間、心を田園の中に泳がせてから、再びリングへと戻すと、どちらが自分の本当の場所なのかという揺らぎが生まれていた。リングを中心とした興行場の喧騒に高揚する自分、そして田園の精霊たちが漂うジャングルへと続く世界に誘われる自分。
なんでも2つに割ってしまうのはどうか?なのだが、それでもその問いは、地面から、足元から、または夕刻の空からやって来た。だから、本当の問いに違いなかった。
おそらく僕はその間を生きる者なのだろう。森と人間の世界を繋ぐ者。もしくはただ行き交う者。その間で揺れる者。
写真を撮るというのは、その間に生まれる揺らぎを形に残すことなのかもしれない。
そして僕は最後まで見ずに、ムエタイの賑わいから離れて宿へと向かった。祭りは中ほどで十分な性分なのだ。
当時は、街灯も薄暗く、ぽつりぽつりだった。
その分、ゲストハウスや、家々の灯りは、夜空の星のようにとは言い過ぎだが、そこへ帰ること自体が哀愁と安堵を覚えさせるのだった。
260のリビングスペースのテーブルには、いつもガンジャが山盛りだった。その乾燥した植物が、旅人たちにお帰りと言っているのだった。一服つけば、誰もが優しさを思い出し、それはすぐ近くにあり、もしかしたら自分自身の本当の姿のようにさせ思わせるのだった。集まった旅人たちは、ゆったりと語り合い、微笑みを浮かべ、漠然とした明日を許す気になった。
僕のカンボジア、シェムリアップの夜たちは、そんな優しさの思い出に包まれている。誰かがこれらの夜を歌にすればいいのにと思ったが、今に至るまで、そういう歌を聞いたことがない。歌はもう少し別の感情がある所から生まれるのかもしれない。もしくは僕が出会っていないだけで、世界にはシェムリアップの夜のような歌が溢れているのかもしれない。どうせなら、そうだったらいいなと思う。
そして、僕はやはり夜はディスコみたいな所へも出かけた。
そこは大きな掘立て小屋みたいな場所で、足元は土だった。民謡みたいな音楽と、聴き慣れないロックなどが流れていた。それでもそこに居合わせた人たちは、それなりに楽しんでいた。
ほとんどが地元に人たちで、そこで女の子と仲良くなったり、いつものようにその土地の夜を楽しんだ。
飲んで、食べて、踊って、歩いて、見物して、眠る。
結局どこへ行っても、やっていることは一緒なのだ。ただ、その前後に移動が付いてくるのが旅なのだろう。
シェムリアップ2日目も、アンコール遺跡群巡りをした。
日記には、タ・ブローム、パンテアイ・クティ、スラ・スラン、タ・ケオの名が並ぶ。いずれもアンコールーを象徴するような場所だ。
27歳でロン毛だった私は、バイタクのドライバーを各所に待たせながら、思う存分に歩いたことだろう。
そして日没後に行く場所は、昨日と同じ野ムエタイであった。気づけば、昨日見た顔が多く見られる。夕方になると手持ち無沙汰になってその広場に立ち寄るのだ。昨日と同じような選手たちが闘い、それを見上げる者たちも昨日の顔が多く、おそらく明日も明後日もそれが続くのだ。そして僕もその一部だった。
田舎の日常は、きっと同じことのループの中で季節が巡り、やがて一生が過ぎていくのだろう。そしてかつて僕たちはそれを平和と呼んだのだ。
都会に住むと、同じ毎日のループがストレスに変わり、常に新しい刺激を求めるようになる。車や服や、音楽、そして暮らし方さえもが、誰かの笛を待っている。それを批判するつもりはさらさらないけれど、淡々と過ぎていく東南アジアの田舎町で、つまりは、その場所の流れ次第だと感想を浮かべるのだった。
子供の頃から憧れ続けたアンコールワットをはじめとする遺跡群は、最初の2日で十分とした。それこそ飽きるまで見続けたら数年は費やせるだろうと確信したが、2日で切り上げられる踏ん切りは意外と簡単についた。
3日目は、ゲストハウス260で、だらだらと過ごした。
昼間から開いている置き屋を覗きに行ったり、部屋に戻って昼寝三昧したり、ガンジャを楽しみながら過ごした。1日は長くも短くもあった。つまり時間は有って無いようなものだった。
そして、夕刻ともなれば町はずれの広場へ行き、野ムエタイを見物し、夜はローカルディスコへと、同じことの繰り返しを楽しんだ。
ディスコにいた女の子の写真をコニカのビッグミニで撮らしてもらった。当然フィルムでだ。ストロボが発光し、その子の姿が浮かび上がり、何かがフィルムに感光する。だけれど、その場では結果は見えない。デジタルではないからだ。本当に写っているかすら分からないのに、撮れた気に、そして撮られた気になって、その場の二人の空気が変わる。すぐにチェックできないのが、なんだか秘密を未来に預けたようでロマンチックだったなあと今は思う。
結局憧れのアンコールワット見物の地・シェムリアップには、たったの3泊だけで去ることにした。急ぐ旅でもないのに、僕は世界の広さに急かされていた。わんこ蕎麦を前にしているような旅だったのだ。
シェムリアップ出発の朝は5時半に起床し、船着場までの料金でバイタクの兄さんと軽くもめ、トンレサップ湖を往きよりはましなボートで6時間かけて下り、緊張感の高い街、プノンペンへと舞い戻った。
宿は前回泊まったキャピトール1にした。部屋番号は228。
4日前の初プノンペン時は、緊張と警戒であまり出歩けなかったが、まだ日も高かったので、その日は十分散策を楽しめた。
中心地にあるセントラルマーケットで「地雷に気をつけろ」と英語で書かれたTシャツを記念に2枚買った。このTシャツは、アジアを旅するバックパッカーの間で密かに流行っていたようで、着ていることでカンボジアに入った証のようになっていた。
空港近くにある軍モノ品を扱う店に行ったが収穫なし。その足で、ベトナム大使館へビザの申請をしに行った。倹約が常のバックパッカーにとって、ビザ代は高額で50ドルもした。プノンペンなら1週間は生活できる金額だったが、こればかりは仕方がない。
夕方になって情報ノートをキャピトールホテルの食堂で見ていると、福田くんと中村さんが現れた。シェムリアップのゲストハウスで同宿だった人たちで、僕より一足早くプノンペンに戻っていた。せっかくなので夕食を一緒にしようと彼らと近くの中華へ行った。そこは中山美穂似の店員がいると有名だったが、あいにくそれらしき女の子はいなかった。僕たちはラーメンやマントウを食べながら、しばし情報交換をした。
彼らはこの後帰国するらしく、僕の旅がベトナムへと続くことを羨ましがった。僕の旅はベトナム以後もずっと続くのだが、そのことは彼らには話さなかった。世界一周無期限の旅などと口にしたら、なんだか別の世界の人に思われそうだったからだ。妙な遠慮だった。
食後は彼らの情報に従って、セントラルマーケット北東の煙草屋で、ガンジャタバコを一箱買った。1ドル半だった。
夜になってマタニティディスコへ行くが、客は少なかった。木曜日だった。
翌日は、内戦の跡地巡りをした。
ツールスレーン、キリングフィールドだ。どちらも人が沢山殺された場所だ。なぜそんな場所が観光地化されているのかは不思議だが、カンボジア政府としても、手っ取り早く外貨を稼ぐには、負の遺産の引力を利用するのに躊躇いはなかったのだろう。
実際僕も怖いもの見たさで出かけて行った観光客の一人である。もちろん事実を見ておくという大義もあるだろうが、当時のプノンペンには観光客が行くような場所が他にはまだ整っていなかったのかもしれない。
死刑囚が拷問された場所としてのツールスレーンは、一見廃墟の高校でしかないのだが、刑務所として使われていた痕跡は、拷問道具やベッドなどの陳列物や、死刑直前のポートレイトが壁一面に貼ってある部屋の凄さは、陳腐な言い方だが、かなりの衝撃だった。死を前にした人々の目が僕を見つめているというのは、他では体験できない。
キリングフィールドは、多くの人々が虐殺されて埋められた場所だ。無数の髑髏が積み上げられている姿が観光スポットになっている。地面にはおそらく犠牲者の物と思われる衣服の断片が土から露出していた。多くの訪問者たちは、思考停止状態になり口をぽかんと開けてしまうか、苦痛や悲しみを耐え忍ぶような皺を眉間に作るのだった。僕はどちらかと言えば思考停止組で、ただ写真だけは淡々と数枚撮った。
ツールスレーンにも、キリングフィールドにも風は吹いていて、目の前の出来事が絵空事ではないのだと、現実と繋がっていることを教えていた。
#32へと、つづく。