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1995年のバックパッカー10 中国5 上海
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烏魯木斉空港では出発ゲートでうとうと寝てしまい、8時40分発便に乗り遅れそうになった。スピーカーからの大きなアナウンスもなく、静かな搭乗だったに違いない。
いや、中国で静かな搭乗などありえない。がやがやとした喧騒の中、それでも眠っていた僕は、案外疲れていたのかもしれない。
機内では朝食にカップラメーメンが配られたが、まずかった。床には唾が吐かれ、ゴミが散乱し、人々は大声で会話し、隣の女性は嘔吐するわで、混沌としていた。まあまあひどいものだった。
2024年の今では、床に唾を吐くことはさすがに咎められるだろうが、当時はまかり通った。
時間をおいて配られた機内食もまずかった。なんだか文句ばかり並べてしまったが、わざわざ日記に残してあるぐらいだから、インパクトはあったのだろう。当時の中国の現実に一面に浸った4時間10分であった。
日本からそれだけの時間を飛行機に乗ったら外国に行ってしまう。あらためて中国の広さを知った。
上海には13時頃に到着。気温は20度。湿度は高く蒸している。国際便が出入りする空港にしては、小さく感じた。
市内への安いアクセスはないかと、ツーリストインフォメーションや総合案内所を探したが見つからなかった。仕方なくタクシーで上海駅近くの安い外国人用宿に向かってもらったが、いざ到着してみると20階建ての立派なホテルだった。とりあえず1泊してみることにした。移動日は安宿探しが面倒になりがちだ。
空港から街へとタクシーで移動しつつ眺め見つめた上海の街は、とにかく広大であった。二子玉川から新宿方向を眺めると、東京はのっぺりと広く、人がぎっしりと詰まった姿に眩暈を感じるが、フラットにどこまでも広がっているという点では上海は東京の比ではなかった。運転手によれば人口は東京を優に超えているらしい。
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当時の上海を歩いて感じたことは、急激な発展と昔からの生活との大きなギャップだった。
例えば、石門二路と南京西路に架かる歩道橋からは、二股に分かれる二筋の道が見られる。股の部分は大工事中で、左方の道の両脇には庶民的な生活が残り建物も古い。一方、右方を見れば近代的な巨大ビルが立ち並ぶ商業街だった。並行する道の新旧の様相があまりにも露骨で、貧民街の上に近代的新興の街が立つような近未来を描いたデストピア映画的だった。富裕層と貧困層に引き裂かれる巨大都市を思わせる風景はその頃の上海の至る所で散見でき、全体としてバブル期の日本の姿とも重なった。
これからは、中国のターンなのだということを目の当たりにし、そのエネルギーの巨大さが一層世界中の人とマネーを惹きつけていくのも感じた。まさに巨大な龍の初動を目撃している気になった。
日本は大丈夫なのだろうか?
ふとこれまで考えたこともないようなことが心に浮かんだ。政治経済に疎く、興味もないままに生きてきたが、貧富の差が形となって現れている生々しい風景を前にして、何も感じないわけにはいかなかった。
日本は大丈夫なのだろうか?
それは愛国心からというよりも、地球上のあらゆるレイヤーに存在している弱肉強食的な世界そのものへの関心からきていた。強さというのは何かとの比較上に存在する以上、弱き者たちがいる。パワーゲームの勝者は順番に巡るものだから、日本の繁栄は決して未来永劫約束されていない。そんな、日本は大丈夫だろうか?だった。ターンはいずれ誰かに渡って行く。
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旅の中で、僕は日記を万年筆でつけていた。
烏魯木斉あたりで、万年筆にインクを注入しようとしたが、そのために回転させなくてはいけない部分が固まってしまっていた。僕は上海の文房具店へ行ってどうにかしてもらうつもりでいた。今思えば、ボールペンではなく万年筆を持参しているのも、昔の旅人を演じてみたかっただけの稚拙さともいえるが、そのくらいは遊びとして許していたのだろう。
だが、巨大な上海の街で文房具店をわざわざ探すのも大変そうだった。だが、インクの前に、固まった箇所をどうにかしなくては。試しに街のあちこちにいる工事の作業員の1人にに声をかけて頼んでみたところ、ペットボトルのキャップを回す程度に簡単にやってくれた。僕は自分をひ弱だと思ったことはないが、この時ばかりは握力も鍛えようと決めた。
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上海は商都でもあるが、僕が買い足したのはカセットテープだけだった。烏魯木斉のホテルの部屋でよく見ていたVチャンネルで気になっていたアーティストをたまたま露天的な店で見つけ、2本買った。苗字は王といい、名前は読めなかった。
その2本は世界一周の旅の常なる友となり、さまざまな風景の中で僕の心に染み込んだ音楽となった。
中国といえば、ドアのないトイレというのがあると聞いていた。
そして意外にも近代化へ向かって全速力で進んでいる上海で「それ」に出くわすことになった。それはそれ、これはこれで、対応力には自信があったが、たまたま一人で使用するのでなかったら、感想も違っただろう。見られるよりも、見てしまう方がきついなとは予想していた。あとは音も。
現在では、そのようなドア無しトイレは、もはや存在していないだろうが、時代の転換点というのは、一般の暮らしの中にも現象として表れる。今となっては貴重な経験だ。若い世代の中国人は未経験者ばかりだろうから。
トイレの綺麗さにおいては、僕の知る限り日本は地球上でトップクラスなのは間違いない。ヴィム・ベンダース監督の「パーフェクトデイズ」に描かれた渋谷区の公衆トイレを見て外国人は驚くだろうが、日本人にとっては驚くとまではいかないだろう。あるね、あるだろうね、である。
中国の新疆自治区の都市・烏魯木斉から、中国を代表する大都会に移ってきたとはいえ、僕のやることはほぼ変わらない。
動物園へ行きぼんやりと過ごし、商店街やデパートをぶらつき、名跡などへも一応足を運んで見聞し、屋台やローカルフードを楽しみ、地元に人々とそれなりのコミュニケーションを取り、書店に入って読めもしない本の装丁や紙などをチェックし、時には写真集も手に取る。文房具屋もあるなら行くし、夜になれば、ビールも飲む。美術館や博物館だって時間があれば、行きたい。
こうして並べてみると、バックパッカーという名の旅行者と、パックツアーの一般旅行者も、たいしてやってることは変わらない。
だが、決定的に違うことが一点だけある。それはバックパッカーは怠惰だということ。僕は勤勉実直なバックパッカーに会ったことはない。いや、それは言い過ぎで、中にはそいういう目的意識が高い人もいただろう。何かの為に真面目に彷徨っているという人が。
だが、記憶には残っていない。つまりは、そういう真面目なバックパッカーは僕とは合わずに友人になれなかったということだ。
バックパッカーは基本的に暇で時間だけはたっぷりある場合が多い。だから時間がかかっても安く済ませることを選べる。安く済ませる物事の近くにいると、だいたい地元の庶民の視点を感じられる。それはその国の本当の顔の一部とちゃんと出くわせるということだ。これは実はお金では買えないものなのだ。ただ、ローカルフードを食べてバスに乗ればいいというわけでもなく、そこにかかる無駄のような膨大な時間の量も大きい。これは僕が実際2年もの間ふらふらして得た実感だ。
そして大都会というのは、多方から人が集まった末にできている。つまり地方出身者や上京間もない人も多い。
当時ロン毛の僕は、動物園や名所などの地方出身者が集まりやすい場所では、かなり露骨にじろじろ見られた。それが続くとさすがに疲れる程度に僕には繊細な面もあった。
韓国滞在中も、長い髪の男はモデルぐらいで希少です(当時)とソナさんに言われるぐらいだったから、アジアではまだまだ珍しかった。
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上海で最初に滞在したホテルの部屋からは上海駅の眺めがあり、その周辺は常に混んでいた。駅には、2階と3階に船と飛行機のチケット売り場があるのだが、列車を扱う1階以外は廃墟のように空いていた。この国では何よりも断然列車なのだ。
目を瞑ってしばらくすれば目的地に着いてしまう飛行機や、水平線に囲まれた船と違って、列車の車窓風景は、時に数日に渡る変化を帯びて続く。乗客は祖国の大きさに誇りを感じることもあるだろう。時には遥か遠い故郷との隔たりの巨きさに寂しさを感じもするだろう。
そんな旅のひとつひとつが上海駅からも人の数だけ生まれる。僕は賑わう駅を遠くに見ながら、乗客の物語が星のように散らばり、そこにある喜び、悲しみ、怒り、幸福を想像し、彼らに向けた小説をいつか書けないだろうかと夢想した。全ての乗客の、今と未来とを祝福するような物語を。
数日後、より安いホテルに変えると、この街への馴染み方が変わった。旅というものには、どうしても高みの見物っぽさが拭えないのだが、安宿に出入りし始めると、その土地の生活がぐっと近づき、目線の高さが低くなる。人々の生の言葉が聞こえてくる。初めは嫌悪を感じたその街特有の匂いが気にならなくなる。
そんなわけで大都市上海では、龍が動き始めたダイナミズムを目撃し、貧富の軋みも目の当たりにし、旧式のトイレを経験し、ちょっと変わったファストフードなどなど、それなりに楽しんだ。だが、やはりバックパッカーとしては、普通ならなかなかいけない土地へと進んでいくのが相応しい。ある種それが特権でもあるのだからと確認できた。
上海ならこの先の未来でもまた来れるだろう。だが、烏魯木斉や東仁川には再訪が約束されていない。そういう訪れることは二度とないだろう場所へと向かいたい。
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そして次の目的地にしたのは、香港だった。
中国の広大さは行く場所選びにも果てがない。興味ある土地は次回ということで、ざっとアウトラインだけ辿るとするなら香港に行くのは間違っていないと考えた。そこから内陸部へ行き、チベットへと向かう気になっていた。
だが、上海からの移動手段はまたしても迷うことなく船だった。今回は2泊3日になる。
チケット売り場で、この旅初めての個室をブッキングし、僕は上海を出ることになった。値段はそんなに高くなかったと思う。二等船室はすでに2回経験した。次は個室はどんなもんだろう、ということだ。
僕は個室なのをいいことに、上海で買ったカセットテープをウォークマンタイプのプレイヤーで飽きもせずに聞いていた。小さなスピーカーなので音量を上げるとどんな音楽でも割れた。だが、それで満足できた。十分に素晴らしい音楽だった。
静かな気分になりたい時に選んでいた曲は「天空」だった。ゆったりとした中国大陸の広大さを思わせる曲を、彼女は限りなく澄んだ声で朗々と歌っていた。旅の最中に、疲れ倦んだような時には「天空」を聞いていた。僕はその歌声に恋していたし、その想いは歌手フェイ・ウォンその人へのものだったかもしれない。
その時の、旅の最中の僕は、もちろんまだ知らずにいた。数年後にその歌手に会うことを。
彼女の名前は、フェイ・ウォン。中華文化圏では知らない人はいないほど有名で、ウォン・カーウァイ監督の「チュンキン・エクスプレス(邦題・恋する惑星)」で知った日本人は多いと思う。
そう、2年のバックパッカーの旅を終えて間もなく、彼女を北京で撮影する機会に恵まれたのだ。その時の僕の感動というか、感慨は察して然るべしである。
ここでは、このくらいにしておくが、フェイ・ウォンさんの音楽に出会ったのは上海で、そしてカセットテープでだった。あの音質でも、人々は深く感動できたのである。音楽というのはそいういうものなのだ。
船上は快適であった。