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1995年のバックパッカー16 中国6 広州ー桂林ー阻朔 列車に揺られどこまでも

1995年の6月。僕はさまざまな思い出と共に香港を去った。そして次の目的地は桂林だった。

桂林を選んだのは単純な理由だった。あの世界的に有名な山水画のような絶景を見てみたかった。のどかな田園風景から突如そそり立つ山々の凸凹は、調和というよりも神様が不機嫌な時に適当にこさえたかのようだった。そしてそのへんてこりんな風景の中に自分を立たせてみたかったのだ。

最初の大きな中継地は広州で、もちろん初めてだった。前知識も情報も興味もないままに香港の九龍を出発して2時間半後に広州駅に到着した。


駅は大きく、空港のようにさえ思えた。全体的に無愛想な感じで、よそよそしかった。香港から乗車した桂林行きの列車は、この広州で半日ほど停車して、再び出発するのは18時だった。

僕は駅構内にいてもしょうがないと思い、外へ出た。だが、目の前には大雑把で広大な区画と、やはり無愛想な街並みがあるだけで、半日観光できるとはとうて思えない駅前の風景だった。もし僕が用意周到に広州を楽しむつもりだったら、数時間ほどの暇つぶしになる半日ツアーもできただろうが、陽射しの強さと気温の高さに出鼻をくじかれた。

好奇心の強い僕でも、コンクリートの巨大な塊のような駅舎と、1ブロックが100メートルもあるような新興地の風景には、まあパスでいいかな、となった。

僕は駅構内のベンチで昼寝を楽しむことにした。同じ様に昼寝をしている中国人も多く、周囲から特に浮くこともなかった。現在の広州は東京よりも人口の多い大都市で、1995年の時点でもかなりの規模だったはずだ。広東省の省都であり、香港から一番近い大都会となる。だが、当時の僕にとっては昼寝をした場所でしかなく、おそらく今後の再訪もないだろうから、退屈な駅前の風景のある大きく間延びした街としてしか記憶に残らないだろう。

今ならグーグルマップで手頃な食堂を徒歩圏に見つけて、食べ歩きなどもするだろうが、1995年は紙と口コミしか情報源はなかった。つまり見えているものだけがほぼ全てであった。僕だけでなく、人々は顔をあげていた。他人の表情もよく見えていた。

桂林行きの列車は、意外にも予定通り18時2分に出発した。なぜ18時きっかりでないのか不思議だったが、世界はそんなふうにぶれているのだろう。桂林行きの列車は重々しい音をたてて広州のホームから出て行った。ちょうど降り始めた強い雨が、今日という日を洗い流してくれるかのようで、美しく思えた。

桂林到着予定は、翌朝の9時ぐらいだった。北京ー烏魯木斉以来の夜行列車だ。僕はそれだけで楽しくなった。あの時はリイリイという女の子にお世話になったなあなどと懐かしんでいたら、アランという女の子が近くの寝台にいて、話しているうちに仲良くなった。夜行列車というのは人との出会いがあるのだと僕に刻まれた。

夕食に配られた弁当は日本円で50円ほどだったが美味しかった。駅弁ならぬ列車弁。だいたいぶっかけ丼だが、十分に美味しい。消灯は22時。

翌朝9時頃に、広州からの列車は桂林北駅に到着した。

アランには弟がいて、僕を含めた3人でホテル探しが始まった。烏魯木斉駅でリイリイと彼女の弟でホテルを探した時と全く同じことが繰り返された。

しばらくしてアランがここはいいと選んだホテルは、外国人は宿泊できないホテルだった。しかたなく別のホテルを探すことになったが、思いの外労せず見つかった。一泊1500円ほどだった。付き添ってくれたアランは僕の宿が決まるとほっとした様子で、今夜は自宅の夕食に招待するから18時に迎えに来ると言い残して帰って行った。


この頃になると、旅というのは「日常の中にある非日常」だと僕も理解し始めていた。たまたま列車で出会っただけでの僕たちだったが、翌日には実家に招待されてしまうのだから、特別な時間が流れているとしか思えない。もし僕がお互いに定住者同士だったら、こんな速度で事は進まないだろう。おそらく「今だけだから」「今を逃したら次はない」という感情が、言葉になる前に人に行動を促すのだろう。そういう意味では、旅は直感によって誘われていると言える。それはトラベラー本人だけではなく、関わる人にも影響を及ぼすのだ。僕はその後の長い旅の中で、このことを何度も深く確認することになる。


ホテルに荷物を下ろすと、僕は外を歩くことにした。あいにく雨だったが、七星公園へ行った。その広大な公園には僕の大好きな動物園もあり、それが目当てだった。

動物園自体は質素なものだった。ライオンと虎が一頭ずついたが、他にめぼしい展示はなく、田舎の動物園そのものだった。もちろんこれは批判ではなく、田舎の動物園にしかない良さを僕は好きだった。ライオンと虎は、日に4回あるサーカス的な小さなイベントに駆り出されている様で、人慣れしている目をしていた。


桂林北駅で、阻朔行きのバスがあるのを確認してからホテルに戻り昼寝をした。

18時ごろ、約束通りにアランが迎えに来た。

僕は、明日の阻朔行きの計画をアランに伝えた。行きはバスで、そして帰りは船で戻るつもりだという件で、アランはどうしたのか強い口調で行きはバスではなく船にした方がいいと訴えた。それはアドバイスというよりも、もはや命令に近い強い口調だった。僕でさえ少しあっけに取られるほどに。そして、その理由をうまく説明し合えるほどの英語力は僕らにはなく、うまく説明できないことにストレスが溜まったのか、アランの口調は益々強くなり、もはや喧嘩しているかのようであった。僕も船にするのはやぶさかではないが、行きと帰りでは別の風景を楽しみたいとするのは、僕の幼少時からの癖でもあり、小学生の頃はわざわざ遠回りしてまで、新たな帰宅路を開拓するのを楽しんでいたくらいだ。

だが、アランからはうまく理由を引き出せず、彼女の表情も険しくなって行った。

初めは、なんとか理解しようとしていた僕だったが、彼女の態度があまりにも高圧的だったので、素直に聞く耳もなくなり、ついには僕の機嫌も悪くなった。なぜアランはこんなにも上から命令するように捲し立てるのだろう?そして、僕はこんな感じで彼女の実家に行ってもナイスにできないだろうと確信し、今夜は行きたくないとアランに伝えた。僕も大人気なかったとはいえ、正直なところだった。

そしてここが肝心なのだが、この一連の出来事は当時の日記をベースに書いたものだが、今の僕はどうしてもアランの顔すら思い出せないのだ。つまりは、列車の中の彼女の様子から、この口論めいた会話まで、一切彼女のことが思い出せない。とても残念に思うが、忘却というのはこういうことだ。日記に残されているような印象的なエピソードでさえなのである。

僕はつくづくこの「1995年のバックパッカー」を2024年に書く意味を感じている。1995年に世界中をうろうろする暮らしがどうだったかを残しておかないと、こういう民俗があったことが未来の人々は理解できないだろう。話が少し大袈裟かもしれないが、未来における過去の民話のようなものを僕は今記している自負がある。

日記というのは、神話の小さな小さな種子だ。

その夜、僕は一人で麻婆豆腐、青椒肉絲、ナスの炒めを食べた。

次の日、僕は荷物をまとめて桂林を去り、バスに1時間ほど揺られて阻朔へと移動した。観光地かされ過ぎた桂林よりも、同じ様な風景ながら素朴な昔ながらの中国を残していると言われる阻朔に興味を持ったからだ。そしてこの選択は正解だった。広州の発展する新興地の仰々しさと

よそよそしさとは真逆で、人情味と懐かしさが阻朔にはあった。


前時代的な阻朔のバスターミナルで下車した僕は、宿の客引きに素直について行き、阻朔ユースホステルに投宿した。一泊なんと120円である。昨日の十分の一だった。

さっそく昼食をとることにして、すぐに目についたハードロックカフェ(もちろん本物ではない)で炒麺を注文した。その店で見覚えのあるドイツ人カップルに会った。広州から桂林の夜行で寝台が近くだったカップルだった。点と点が隣り合うことはもはや偶然とは呼べなかった。

ただの地方都市にしか見えなくなっていた桂林とは違い、阻朔は小さな町だった。外国人向けの看板や飲食店は、この町なりになんとか観光客も招きたいとする現れだが、それ以外は小さな小さな中国の町だった。主な所はぐるっと歩けるほどで、そこも僕は気にいった。この阻朔での滞在中は、この旅ではじめて短パンで通した。それが似合うリラックスできる場所なのだった。


一旦昼寝をしてから、夕方になって再び外出し、没有(メイヨウ)カフェへ。没有とは、中国人が接客する時に横柄な態度で口にする言葉で「無い!」を意味する。外国人のトラベラーにとっては中国で体験する苦々しい数々の思い出を象徴する様な言葉だ。たとえば、カフェでアイスコーヒーがあるかと店員に聞くとして、その返答が没有(めいよう)なのであり、また駅で軟臥のシートはあるかと聞けば、没有なのだ。彼らの接客態度は客を常に見下しているような視線と態度を伴い、それが昇華したのが没有だ。敢えて和訳するなら「ねえよ!」みたいな感じだ。そんな没有を店名にするとはなかなかいいセンスだった。

僕はそこでここまでの旅を原稿にしていると、スコールが降り出した。窓の外で暴れる水の景色は、ヤカンをひっくり返すというよりも、神聖なものに感じられた。僕は強く降る雨は神事のように思う。

夕食は再びハードロックカフェへ。僕が食事を済ませ、ビールを飲んでのんびりしていると、リービンとスイヨウという名の店の女の子がやってきて僕の隣に座り、気ままに話していく。ずっといるわけではなく、暇になると僕のところへやってくる感じだった。

これは阻朔のカフェでは普通なことで、娼婦とかではなく、ただ英語を練習したいのが主な理由らしい。現にスイヨウは店のオーナーの恋人だった。スイヨウに言わせると、そのオーナーは商売っけがなく、商売もうまくないとのことだった。いつもぶらぶら遊んでいて、経営も適当で損ばかりしているのだとか。僕はそういうようなローカル話を沢山彼女たちから聞きながらビールを飲んでいた。僕も暇だったが、彼女たちも暇そうだった。

その頃は雨季だったのか、雨がちな日々が続いた。今でも阻朔の思い出のほとんどは雨で湿っている。

6月6日の火曜日。覚えやすさもあって、母の誕生日は忘れたことがない。その日も、誰かに今日は僕の母の誕生日だと伝えていたことだろう。


珍しく天気も良かったので、僕は朝から自転車を借りて郊外の月亮山へでかけた。片道40分ほどを田んぼと急峻な山の風景を楽しみつつ、片道40分ほどをのんびりと走った。平和だった。

昼過ぎから月亮山を登り始めたのだが、久しぶりの太陽光線はかなり強烈で、湿度もひどく、望んでいなかった歯応えのある登山となった。

頂上を目の前にした所で水を売ってたお爺さんが面白い顔をしていたので写真を撮らせてもらおうとしたが、水を買わなければだめだと云う。そこに居合わせたデンマーク人のマイケルも苦笑いしている。僕は彼と一緒に頂上へ登った。それは素晴らしい風景だった。眼下に広がる岩と田園の風景は、おそらく地球上でもここにしかないものだ。頂近くには、岩が丸くくり抜かれたように侵食された場所があり、月亮山の名の由来になっているのが想像できた。

帰りにお爺さんから水を買い、写真を撮った。その笑顔と風貌は1000年以上前からここにいる人のようだった。




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