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藤代雑記 #3「ツミについて思うこと、二、三」

高麗の人が住んだ江という意味を持つ狛江で下車した。北口降りてすぐには鬱蒼とした繁みがあり、梅雨の最中の曇天もあって、縁に沿って歩くと重々しさに滅入ってくるのだった。

最初の目当てであった泉龍寺の左手前に弁天池を見つけ、まずは福徳弁財天に参拝した。

その境内には、住宅地に隣接しているとは思えない暗所があり、吉か不吉か判然としないままに暗さに惹かれた。怖がりな性分なのに、すぐには立ち去れず、思いのほか澄んだ水を湛える弁天池の水面などを撮っていると、頭上を数羽の鳥たちが騒々しい叫び声をあげて通り過ぎ、目と鼻の福徳弁財天左脇の水溜まりに着地した。10メートルもない先だ。


随分激しい喧嘩だなと、見物心のみで歩み寄っていくと1羽の鳩が水溜まりに這いつくばり、頭上の枝で喚くカラスとオナガドリを見上げては牽制している。カラスとオナガドリは、特にオナガの方は殺気を含んだ剣幕である。尋常ではなかった。

普段からグワーッ、グワーッという大きなダミ声を四方に喚き散らかしているが、目の前の彼らは、明らかな憎しみを込めて眼下の鳩を牽制していた。鳩は水面で羽をいっぱいに広げ溺れないように浮力を得ようとしてるようでもあり、その不自然な姿勢は、怪我を負っているようにも見えた。

カラスやオナガが鳩を捕食しようとしているのだろうか。カラスはともかく、オナガも肉を食べるのだろうか、まさかな、などと思い巡らしていると、水中から数メートル先の岸へと鳩は低く飛んで着地した。その時になって初めて僕はことの全貌を理解した。

まず鳩は鳩ではなく、猛禽であった。ツミである。その鳩ほどの大きさしかない小型の猛禽は、水中で既に窒息死したオナガを鋭い爪を引っ掛けて、岸へと上げたのだった。

なるほど、鳩に見えていたツミは、鉤爪で捉えた一羽のオナガを水中に押さえつけて窒息死させたに違いなかった。

枝上にぐるりと囲んで一部始終を見下ろしていたオナガたちは、持てる力の限り騒ぎ立てた。ある一羽は降下してツミに一撃を加えて飛び去ったが、実際にはツミには触れられずに、いまさら役に立たない至近距離の威嚇になっただけだった。

一瞬僕はオナガドリに加勢しようかと思った。だがツミの爪に引っかかったオナガは首をぐったりと折り、絶命はほぼ間違いないようだった。ここは自然の側に委ねよう、そう思い直した。

カラスは人間が近くにいることを嫌ったのか、すでに飛び去った。残されたオナガたちの叫びはもはや悲痛であった。仲間が連れ去られ餌食になってしまったのだ。

驚きは、残されたツミが尚も威嚇を続けていることだった。それは絆とか愛とかに属するのだろうか。無感情な保存本能の運動に過ぎないのだろうか。よくわからないが、僕の心は打たれた。


オナガの悲痛な声、命の儚さ、突然の生と死。並べると並な言葉の羅列になるが、その一部始終にでくわしたことの奇妙さにも、動揺した。

三陸の海岸を襲った津波の映像をライブテレビで見た恐山の住職南直哉さんは、被害を受けたのがなぜ自分ではなく彼らなのかが分からなかった、苦しかったと言った。なぜ我でなかったのかと。

それをなぞるなら、狛江の寺での始終に当たったのが、なぜ他の誰かではなく、私だったのかと不思議でもあった。ツミが狩り、オナガが死に、私が観察した。なぜ私のみが立ち会えたのだろう。

しばらくツミがオナガの毛をむしっているのを見つめてから、私は迷うことなく撮影をし始めた。映像を引き寄せるに足る望遠レンズの持ち合わせはなかったが、構わずに続けた。


その日、私が狛江を訪れたのは、渡来人が多くが移住した土地に、彼らの気配を得ようとするためだった。見えないはずの何かを撮る。僕に残されている写欲は、その辺をうろついているのだった。

ところが、その日の目的の前に思いがけない出来事に遭遇し、淡々と見えるものを撮っている。

まず、見えているものだよ、まだ、それだよ、と言われているようだ、などとは思わないが、なるほどね、くらいはあった。

いわゆる標準レンズなどと言われる50ミリで撮るツミは、画面の中央に小さかった。少し目を凝らさないと見えてこない狩りであった。





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