藤代雑記。 #4 「羽について」
求める時には出てこないくせに、ふとした拍子に現れることがある。
私が鳥の羽を探していたのは、初夏の頃だっただろうか。
探すといっても、オンラインショップや東急ハンズなどの実店舗に行くのではない。家の近所や、道中そこらへんをうろうろ歩いて、落ちているのを見つけようとしていた。
そういう初夏の頃だった。
私は拾うのが好きだ。
とはいっても、100円玉を探しているわけでもなく、なぜこんなところに!という驚きと共に何かを見つけるのが好きだ。
たとえば、鳥の巣。
私は過去に数度鳥の巣をアスファルトの上で見つけている。実際東京に引っ越してからの2年間で、2つ拾った。どちらも家の近所、住宅地でだ。
あとは、たとえば、ねじ。
その錆びた大きなネジを手にすると、かなり酸化が進んで鉄の重さはなく、木の枝のように軽かった。枝のようなネジ。これは貴重だと持ち帰った。
こんな感じで、胸騒ぎを覚えるかどうかだけが基準の物拾いを私は日頃から楽しんでいる。
いつもなら、それは出会い頭の楽しみなのだが、そこ頃はなぜか鳥の羽を拾いたいという思いが強かった。理由はあったのかもしれないが、忘れてしまった。
とにかく、よく歩く私のことだから、羽なんて朝飯前だとふんでいた。
だが、季節のせいだろうか、何かのせいだろうか、実際は全く見つからないのだった。
そして盛夏を過ぎ、朝夕に秋が濃くなった今日この頃になって、羽が落ちているのを目にするようになった。
初夏には全くなかったくせに、夏の終わりになって、やたらと目につくようになった。
おそらく求愛のシーズンとか、喧嘩が多いとか、単純に抜け替わる季節だとか、真っ当な理由があるのだろう。
私は、カラスや鳩だけでなく、他の野鳥のものと思われる羽をひとつひとつポケットに入れた。重さはほとんどないが、それは確実にここにあるという力があった。私は、生態系の小指に触れたような心持ちで嬉しく充実した。
物拾いの喜びは小さくて慎ましいものだが、米粒ほどの隕石のような異物感は、私の存在のズレを肯定してくれるような温かみがある。
さて、そうこうして手に入れた羽たちだが、拾ったその後は、家の中、そのへんに無造作に置かれている。下駄箱の上、テレビ台、本棚の余った部分。
拾った時の喜びほどには、扱われていないのが、羽としては不思議だろう。そして当たり前だが、私には不思議ではない。拾ったものは、大切なものに違いないが、美しくディスプレイして飾るなどといった面倒は好まないだけだ。素っ気なく、そのへんにあれば十分だ。
それでも、時々気が向けば、ああこれはオナガの羽だな、これは立派なカラスの羽だ、黒々した艶が美しいな、などと平凡な感想を喉あたりで述べつつ、愛でたりもする。
そして、時には趣味の合う来客に譲ったりして嬉しい気持ちになっている。
だが、渡してもなんだか困ったような雰囲気になる客もいる。そういう時は、気が合うと思い違いをした自分を恥じつつ、羽を引っ込めることになる。羽も私もどこを見ていいやらといった時間だ。
だが、このお客さんを、羽を愛でる嗜みもない資本主義者などと言って遮断することは全くない。好みが違うだけのことだ。
正直言うと、羽を拾ってくる者はマイノリティであるべきだと思う。みんながみんな、羽を拾ってうきうきしているような世の中は、それはそれで、付き合いづらそうだ。