compliment

褒めるにはエネルギーがいるから褒めなくてもいいですか。


褒めなさい、良いものにはすかさずポジティブな言葉を言ってあげないとだめで、創作している人はそれが必要だからしてあげなくちゃいけないみたいな論調を見かけて、あー私もそうしなくちゃいけないのかなと思っていたんだけど、別に自分はそんなに褒めてもらわなくても勝手に描きたいものを描いていたような気がするし、そういう正論布教人間の言葉によって"絶対に"私も褒めなくちゃいけないんだ、と思わされていたと気づいた。

お世辞による心労も分かっていたつもりだったけど、それでも「褒めなくちゃいけない」という呪いが心のどこかに潜んでいて、自分でも気づかないうちに疲れていた。なにかしら発言する作品は選んでいたし絞っていたつもりだけど、それでも「今の私にとってあまり必要な作品ではないけど素晴らしいのには間違いないからやっぱり何か一言でも言わなくちゃ」と思い込まされてほんの少しずつ、でも確実に無理をしていた。


褒めちゃだめだし私も褒めないというつもりではなくて、褒める発言をすることが正しいからと言って自分にとって重要性の低いものにまで褒めて回らなくても大丈夫だという話。

私も、あぁ本当に素敵だな、心が動かされたなと感じたら伝えるようにしているし、言ってもらえて嬉しかったらその分だけ心と言葉を使ってちゃんとお返ししようと決めているけど、変な義理や義務感で発言しなければみたいな、あまり心は動かされなかったけどでも褒める行為は"絶対的に正しい"から何か言わなくちゃという焦燥に急かされていたのは、頑張る方向性が少しズレていたと思う。そしてちょっとずつ嫌になって、界隈からだんだん遠のいていた。



そしてこの「褒めて創作者のモチベーションあげましょう」という"正論"は感想の発信側をコントロールする言葉なんだけど、それだけでなく同時に感想の受信側(創作者)の思考も縛っていて、「褒めてもらえないから意味がない」(もしくは「褒めてもらえたから絶対に正しい」)に繋がってしまうと思う。

褒められるという行為に価値基準をおいてしまうと、他人に称賛の言葉をもらうために作品を作るというの状況に陥ってしまう危うさがあるのではないか。それは他人に褒めてもらえなかったらもう価値がなくなってしまうというか、知らず知らずのうちに自分以外のところに評価軸が移ってしまうというか。


もちろん、自分のやりたいことをやろうとは思っていたけど、それでもこの思想のせいで本当にこれでいいのだろうかと惑わされてきた気がする。

自分のために描こうという信条と、他人からの称賛や評価を糧にすることを両立させるのはかなり難しいと思う。それが出来る人は素晴らしいことだし、そのまま突き進んで欲しいと思うけど、自分の場合はダメだった。自分のやりたいことと他人に求められていることが合致していれば問題はないんだろうけど、自分の価値観は世の中の大多数と分かり合えないという実感があるし、やりたいことも沢山の人と共感で繋がることはできないテーマが多くて、自分の中で自然に湧き上がってきたものを信じるには他人を無視しないとやっていけないみたいなところがあったのかなと思った。

だから、まだまだ未熟だし上手くもなくてすごく評価してもらえる方でもないけど、それでも良いのだ、これが自分なんだと受け入れていくことが私には必要なんだと感じる。その上で自分が納得できる作品をどう作っていこうかと試行錯誤していけたらなと思う。


「褒めることが正しい」というのは正論なんだけど、正論だから欠点がないなんてことはなく、その正しすぎるまでの正しさは、その正しさが重要でない場面にまで干渉してくるので、言葉の発信側としても受け手側としても本心を見失ってしまうことに繋がるのだと思う。そして自分の心の感度が鈍くなっていく。今この思想を必要とする人もいると思うけど、私には必要のない思想だったと思う。

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