Guilty, Forgiveness
罪と赦しはセットでなくてはならないのではないかと思う。
どちらか片方だけではうまく行かないことが多いように見える。
まずは罪しかない場合について。
何か問題があったとき、「自分が悪かったのだ」「すべては自分のせいなのだ」と思ってしまうと自分を責め続けることばかり考えてしまう。
自分一人には誰かの心を左右できるような影響力があるはずもなく、あらゆる物事には様々な要因が絡み合って起こることなのだから、すべての責任が自分にあるというのは過大な自己評価であるのにも関わらず、渦中にいるとなかなか冷静になれないものである。
そしてその罪悪感ばかりにとらわれ続けると、その自分で自分を責める言葉に心が耐えられなくなってくる。やがてあまりにも苦しくて、辛くて、自分は不幸な存在なんだと思ったりして、そうでじゃないように見える人が許せなくなってくる。自分はこんなに痛い思いをしながら頑張っているのに、どうしてあの人は何も考えていないような顔で笑っていられるのだろう。どうして自分ばっかり。なんでなんでなんで。
そうして際限なく責める心が行き着く果ては過剰な被害者意識と正義感、そして幸せそうに見える人が憎くてたまらない嫉妬心。みんな自分と同じくらい荒めばいいのにという貧しい心。
最初は自分に向いていたはずの責めるベクトルがだんだん他者にも向いていく。そういう反応が心のなかで起きる気がする。
罪しかないと何もかもが苦しくなってくる。
一方で、赦ししかない場合。
これは炎上している人の言動を見ていればなんとなく分かると思う。
どうして色んな人に責められるような自体になるのか。もちろん問題となった出来事にはいろいろな種類があるだろうが、共通しているのはそれが自分勝手な言動であるということだと思う。みんなが自分勝手な振る舞いすれば社会として成り立たなくなるからルールがあるのであって、一人だけ良い思いすることがまかり通ってしまう事態をよく思わない人が多いから炎上するのだと思う。
しかし人気者な場合、炎上してしまうような責められることをしたとしてもそれまでの功績を元に「信じてる」「ずっと応援してる」と言い続ける、いわゆる"信者"のような人もいる。そして炎上してしまった側の人も、そういう耳障りの良い言葉を並べる人に依存して「自分は悪くない、間違ってない」と思い込むようになっているパターンも多いような気がする。そしてさらに炎上するなんてことも。
確かに正しさは人の数だけあって、その人の中では間違っていなかったこともあると思う。しかし様々な人と関わって生きていかなければならない以上、少しでも角の立たないような表現を選んでいくべきだし、自分はすごいことをしたのだからこれだけのことをしても許されるという思い上がりではいつか行き詰まってしまう。
自分を全肯定してくれる赦しの言葉しか受け入れない態度はその人自身の成長を阻害してしまう。
これらを踏まえて考えると、何か問題が起きた時「自分にも間違っていたことがあった」「正しくないわけではないが最善ではなかったのかもしれない」と認め、反省する。その上で「そうせずにはいられないほど余裕がない自分もいた」「それ以外の方法を知らなかった」「それが誰かを傷つけるとは思いもしていなかった」といったどうしようもない事情があったならばそれもまた認めて、ではこれから先に繰り返さないようにするにはどうしたらいいのか考えていく。
このことは端的に「罪はあったし、なかった」とも言えるのではないかと思う。一見矛盾しているが、罪と赦しの両方を自分の中で理解することで、その問題を完結させて次に繋げていけると思う。
人間は誰しも間違える生き物だし、完璧な存在ならそもそも生まれてきた意味がなくなってしまう気がする。自分は間違えていた、でもそれがしょうがない面もあったし、これからは気をつけていけばいいんだ、と生きていくのが一番気楽にやっていける方法だと私は思う。