未だに『ただの石』です、ごめんなさい
好きな言葉
大切な言葉
誰かに伝えたい、贈りたい言葉
上記について問われたとき、真っ先に思い浮かぶ言葉がある。
あなたは大理石
磨かずば只の石
磨き上げれば日本の宝
時に及んで当(まさ)に勉勤すべし
これは私が小学生の頃、在籍していた小学校で教頭を務めていた先生から頂いた言葉だ。
私が6年生になる春に転出されたのだが、歓送迎会に出席した母が「娘に何かメッセージを」と色紙を持参し、そこに書いてくださったものである。
かれこれ、40年近く前の話だ。
その教頭とは、数年前にお亡くなりになるまで、年賀状のやり取りをしていた。
先日、とある場で上記の言葉と共にこの話をさせていただいた際、「教頭相手と、というのは珍しいですね」との反応があった。
……言われてみれば、そうかもしれない。
小規模校ならともかく、首都圏ベッドタウン、第二次ベビーブーム世代真っ只中の小学校、当時の全校生徒は千数百人。
一介の生徒と学校のNo.2たる教頭が、何十年も年賀状をやり取りするよようになるきっかけなど、そうそう転がっているものではない。
そういえば、何がきっかけだったっけ……?
そもそもの話は、2年生の春まで遡る。
私のクラスの体育の授業を、この教頭が受け持っていたのだ。
当時から子供心に疑問に思ってはいたのだが、後年、ご本人にお尋ねしたところでは「管理職の仕事だけじゃつまらない、ひと枠くらい何か授業を担当させろとゴネた」とのことである。
この授業が、とにかく楽しかった。
運動音痴で、学校体育に関する思い出は基本苦いものだらけの人生のなかで、唯一の例外年度だ。
はっきり記憶している場面は、二つ。
準備運動中、両手を広げて、その場でぐるぐる回って、「ほら、ヘリコプターだぞーっ!」なんて指示に、きゃっきゃ!とクラス全員はしゃぎながら従っているところ。
跳び箱にチョークで手を着くべき位置を示してくれ、その通りに跳んだら一発で成功したこと。
どちらも、満面の笑みを湛えた先生の顔と、セットで脳裏に焼き付いている。
その後は4年生の初夏頃まで、具体的な記憶はない。
ただ、当時の自分の性格上、校内で出くわせば元気に挨拶していただろうし、時には訊かれてもいないのに、自分の近況などをベラベラと話して聞かせていたのではないかと思う(今思えば、迷惑この上なしである)。
そんなある日、先生から絵画展の案内葉書 兼 無料招待券をいただいた。赤地に白抜きで『一期会展』と書いてあり、先生の在館日がわかるようになっているもの。
おそらく先生としては、たまたまポケットに入っていたものを、偶然廊下で出くわした私に、気まぐれに渡してくれたのだと思う。だが、両親は折角頂いたのだから…と会場へと連れて行ってくれ、結果、先生は大変喜んでくださった。
その日は特に来客の予定もなかったのか、先生は一緒に会場を回ってくれ、受賞作品や私が興味を持った作品等について、解説までしてくださった。
先生ご自身の作品は、確か美しく紅葉した那須の山を描いた油絵で、「黒の絵の具は使わないんだ」と仰られていたのを覚えている。
色を重ねることで黒に近い色を作り、自分はそれを使うのだ、黒は強すぎて全てを潰してしまうから…確かそんな言葉が後ろに続いたと記憶しているが、一言一句この通りであったかは定かではない。ただ、近くに展示してある人物画の、顔の陰影に黄緑色が使われている部分を指し示して、「影を表現するのに、安易に黒を使わない方が良い」と仰ったことは、割と記憶に鮮明だ。
葉書には、先生の住所と名前がスタンプで押されていた。なので、私が年賀状を送り始めたのは、その翌年の正月用からなのだと思う。
以後、先生からは正月に年賀状、初夏に絵画展の招待葉書が届くようになったのだ、確か。
勿論、毎年必ず観に行っていたわけではない。
中高生の6年間は、無訪問だった。
それでも先生は、招待状を送り続けてくれた。
今思えば、一度住所を登録したことで、機械的に送られてきただけなのかもしれない。でも当時の私は、先生がお元気でご活躍だと知るのが嬉しかったし、人間不信の真っ只中にいた時期だったから、「君を忘れていないよ」言われているようで、心強く思ったものだ。
高卒で就職して、たまたま仲良くなった同期が美術館や博物館に出かけるのが好きだったから、彼女たちを誘って再び観に行くようになった。
夫と二人で出かけたこともあるし、結婚後には長男と次男を連れて行ったこともある。
先生は相変わらずニコニコと出迎えてくださり、やはり時間のある時には一緒に会場を回って、解説をしてくださった。
我が家に娘が産まれたころ、先生も流石に寄る年波に勝てず出品ができなくなり、招待状が届かなくなった。それでも、年賀状のやり取りだけは続いていた。
話は前後するが、次男の誕生を知らせる写真葉書を送った際に、「現在、パソコンの勉強をしています」とのメッセージと共に、葉書の写真をスキャンし、大きく引き伸ばして印刷し、パウチされたものが送られてきたことがある。
まさに、生涯学習とはこういうことか…と、感嘆のため息をついたものだ。
私の記憶の中の先生は、あくまで生徒目線で見たものだから、色々フィルターはかかっていると思う。
同僚や部下だった先生たちに話を聞けば、また違った面が出てくるのだろう。
それでも頂いた冒頭の言葉は、死ぬまで私の心の中で、北極星や灯台のように、ひっそりと輝きつづけ、指針になっていくのだろう。
そして、何かの機会あるごとに、他の誰かへと伝えていくのだろうと思う。
先生に対して申し訳なく思うのは、私自身を顧みるに、未だに「只の石だよなぁ」と思ってしまうこと。
真に日本の宝と呼ばれるような、凄い人物になんぞなれるとは思っていない。
ただ、あの世で再会した時に、せめて「いただいた言葉に恥じないように、生きてきましたよ」と報告できるようにはなっていたいものだと思う。
ずらずらと、まとまりの無い話になってしまいました。
それでも、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。