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最近よく聞く『個性』や『多様性』について

先に言っておくが、私はどうしても流行りものが好きになれない。
もちろん流行りものには世間受けするような内容や個性、心に刺さる何かがあるのは間違いないのだとは思うが、そもそも流行りというのは人が意識的に作り出せるものである。
つまり何が言いたいのかというと、そこら辺にいる一般庶民が作り出しているというよりは、社会や仕事、上の立場の人間が裏で仕込んでいる場合が結構ある。
私はそんな流行りものには、裏があるということが常に念頭にあるため、心から純粋に楽しめないのだ。

流行りものが好きなら好きでそれで構わないとも思う。本当に本人がそれを心から好きであって、それが自分の人生に必要なものなのであれば止める理由もない。
ただ最近の世の中に対しては「なんか違う、そうじゃない」と言いたい感がある。
周りに同調して空気を読もうとする、日本人古来の性質を極端に忌み嫌い、それに反発するかのように真逆のことをすることで『私はあなたとは違う』、『私は個性を持ちたい』とばかりに主張しているようにも感じる。
確かに昔の人は昔の人でおかしい部分もあった。
戦争をしたり結婚を強要したり、視野範囲も狭かったとも思う。
ただ、それは極端なだけであって、その真反対を選べばいいかと言うとそういうことでもないのだ。
今の人はみんな個性があることや多様性があることを極端に良しとしすぎている。
そもそも個性とはなんだろうか、最初からみんな生まれ持っているものじゃないのか。
ここまで世間一体となって『個性や個人』を強調しているのは、逆に個性が無いからなのだろうか。

北欧地域には、ラーゴムという言葉が存在する。
ちょうどよい、ほどほどにという意味である。
北欧地域の価値観としては、極端ではなく何事もバランスが大事だと、便利なものや私欲で満たされすぎるのも良くないと、そういう考え方が根付いている。日本も見習うべきだと思った。

個性はみんな持っているもの、それでいいじゃないか。
多様性なんて今までむしろ分からなかったほうが正直どうかと思う、今更感がある。
何故わざとらしく強要してくるのか、その裏には今の日本の極端な考え方や、ストレス社会によって失わざるを得なかった自分という魂を取り戻したいが故に流行っている言葉なのだ。
本当の自分というものを認識したいのであれば、そもそもそこに気づくことが大事である。
個性が欲しい、多様性が大事だと謳っている時点で、自分自身の軸の無さが原因だということに目をそらしてはいけないと思う。

私ははっき言うが、
『推し』や『才能』、『コロナ』という言葉をニュースやYouTubeで見る度に反吐が出そうになる。
すべて流行り言葉であり、日本の極端な考え方を感じずにはいられないからだ。

『推し』とはなにか。私も好きなアニメキャラはいるが、人に対して尊敬するところがないからか3次元の人を好きになったことがない。
私が人として冷たいのだろうか、分からない。
ただ言えることは、私は大切な家族と友人、恋人がいれば満足だ。
他人に自分の心の穴を埋めてもらおうとは思いたくない。
結局推しという概念は、本当にそれが好きならいいのだが、自分の心の穴を埋めるためのものだったり、人と繋がっていると錯覚している状態ともいえる。

『才能』に関しても同じことが言える。
どうしてこうも能力主義なのか。
大事なのは心だ。精神病になる人が増えてるのも自殺する人が増えてるのもそれを気づかせるためなのではないか。
能力で生きれるならAIに任せればいい、人の最大の利点は能力ではなく、心にこそあると思う。
そもそも何百年~何億年もの時間をかけて生き物は進化してゆく。
人間だって自然現象の一部であるということを忘れてはいけない。
そんな短期間で人間が、特に日本人が進化できるわけがないのだ。
もしそこのあなたが自分には才能がある、自分は周りとは違い自分一人で生きてけるレベルの能力があるのだと心から思っているのなら、それは錯覚にすぎない、これは忠告だ。
人間はひとりでは生きていけないのだ。

『コロナ』に関しては言うまでもない。
みんなコロナのせいにして真実から目を背けているだけだ。
たぶんコロナがなくても、コロナじゃない別の何かが流行ってたとしても、きっと日本の状況は大して変わっていないだろう。
地球温暖化についてもそうだが、問題を先延ばしにすると後で自分たちに返ってくる。
地球に多額の借金をしているんだから当然だ。

たくさん文を書いて疲れたからここまでにしておこう。
人類、特に日本人は危機感を持った方がいいと思う。
あなたを救えるのはあなたしかいない。


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