掃除。「ただ」と「ちゃんと」のあいだに。
掃除をしながら思い出した。ある落語家さんが見習い期間中に師匠の家を掃除していたときのエピソードトーク。「ただ掃除をすればいいってもんじゃない」「ちゃんと掃除をするんだ」と言われたのだという。
うわっ、それ、絶対困るな、と思ったのでよく覚えている。
好きでお願いして通り一遍じゃない関わりを持たせてもらってるんだから、その師匠のことぜんぶ理解したいに決まってる。でもリスペクトしてるそのひとは言語化をしてくれない。
理解できてないから「ただ」やってしまって「ちゃんと」できてないのに。師匠が求めるなら「ちゃんと」したいけど、何が「ちゃんと」なのか知らない。だから、手取り足取りは無理でも、せめて補助線をくださいよぉ。そう歯痒くなるに決まっている。
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私自身は落語の弟子になったことは無いのだけど、そういえば華道の弟子をやっていたことがあったのを思い出した。ただの習い事だったけど、週に30〜40時間くらい師匠のところで花を活けていた。
いまはどうか知らないけど、当時私が所属していた流派の生け花には、大まかにいえば2系統あった。型があるものと、自由型のものだ。
型のあるものは、型があるのに、同じ花材を使って同じ型で活けても良し悪しがあったんですよね。それに、型はあるけど、たとえば素材のボリューム感によって、型の解釈が変わってくるというようなこともあった。
前回のは〇〇な感じだったから、ああいうふうにしたけど、今回はこういう状態だから、こうしたほうがいいんじゃない? ということがよくあった。前回までの理解は容易く吹き飛ばされて、毎回、ゼロ日から今日までの経験から新たな理解を抽出しなおすという、コスパもタイパもないような稽古だった。
結局、ひとつの型を幾つかの花材で反復練習して、とりわけよい作品・それほどでもない作品を見比べたりもして、言われてる型は目安のようなもので、どう使うかは「感じ」のものなのだな、と私は理解した。楽譜とかレシピのように、その場で調整していくというか。
理屈ではこうなるけど、この場合はこういうふうにしたほうが心惹かれる。今日の花と型とだったら、こういう「感じ」を表現したいなあ、というようなことを考え始めたとき、師匠から「次はどんな感じにしたい?」と訊かれるようになった。最初は、私のしたい「感じ」なんか、伝統と歴史の前では全然意味がなかったのですけどね。
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掃除は、結果は好きだけど、作業は好きじゃない。整理整頓もわからない。そういうことができるのが、まっとうな大人だ、と思っても、どうしてもそれになりたいのか確信が持てなくて継続できなかった。今は、やりたいとき、身体が動くとき、こころが動くときにやる。
今してる掃除で、自分の満足度高くなるのはどんなクオリティ? 寝転がりたいカーペットに、ヘアドライヤーが吹き飛ばした髪の毛が落ちてるのは嫌だな。できるだけ面倒くさくなくやれる方法って何かなあ。GROWモデルは、私には合っていた。
G: GOAL 目標・期待する結果
R: REALITY 現状
O: OPTION 選択肢
W: WILL 自分の意志
人生唯一の弟子時代にやっていた華道も、日々の掃除も、抽象化すれば、自分にとってリアリティがあって「もっといい感じ」になれるゴールに行くプロセスだとすれば、華道をやらなくなった今も同じことをしているような気がしてきました。
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