『サブスク彼女』エモい恋愛の真理に気付いた彼女たちの恋愛群像劇
この音楽エモい、この文章エモい、この風景エモい。「エモい」という言葉はここ数年の間にSNSで火が点きあっという間に私たちの日常に浸透した。
そもそも「エモい」とは、英語の「emotional = 感情が動かされた / 感情が高まっている状態」を由来としたネットスラングであり若者言葉だ。可愛い!かっこいい!というものに対して使う言葉ではなく、例えば雨の中で光り輝くネオンや手振れした恋人たちの写真など、そこはかとない情緒や味わいを感じるものに対して「エモい」という言葉が使われているように見受けられる。
そんな「エモい」という言葉は恋愛にも使われる。恋愛映画や恋愛小説の感想を眺めていると、大体報われなかったり複雑な恋愛に対して「エモい」という言葉が添えてあったりする。
なるほど人は自分によっては心地よい、でも言語化しにくい複雑なものに対して「エモい」という表現を使うのだろうか。
エモい恋愛の真理に気付いてしまった
このまさに「エモい」恋愛の真理に辿り着いてしまった女性が主人公のマンガがある。その名も山本中学先生の『サブスク彼女』。
なぜかいつも「実は彼女がいるんだ...。でも君のことが好きなんだ。(もちろん彼女と別れる気はない)」という彼女のいる男性にばかり好かれてしまう主人公・トモ。
自分から別れを切り出そうとすると「捨てないで...」と言わんばかりの切ない顔をして「好き」と「ごめん」を繰り返す男性たちを見て、彼女は彼らを「エモい(感傷的な)恋」に浸っているからそんなことができるのだと悟る。そんな男性たちはもちろん、彼らをすっぱり切れない自分にも嫌気が差していたある日、彼女は自分のことを「サブスク」みたいだと実感する。好きな時に呼び出すけど彼女にはなれない。その姿はまるでCDは持たないけど好きな時に音楽を聴くサブスクサービスのようだと...。
ならば、自分から所有されないように「サブスク彼女」になってやると決意した彼女はSNSで同士を探す。そして集まった2人の女性たちと「サブスク彼女」をスタートさせるのだが、そんな時に主人公・トモの前に現れたのは地元の男友達・コースケだった。
本作では、そんな「サブスク彼女」を始めた3人の女性と男性たちの歪んだ恋愛群像劇を描いている。
そこにあるのは、ままならない苦しさ
「サブスク彼女」という新しい恋愛設定が本作の見どころだ。けれど、私が一番注目したいのはこの「サブスク彼女」という特異な設定を用いても、なお恋愛がままならないという苦しさだ。
主人公・ナオは「サブスク彼女」という関係性を用いて、相手に対する好きという感情をコントロールすることで自分が傷付かないように予防線を張っているように見受けられる。けれど、ナオのことを本当に好きだと思ってくれる男性がすぐ側にいるのにも関わらず、ナオは自分が張ったこの予防線によってその本当の恋愛に気付くことができないのだ。
「サブスク彼女」は本当に自分が傷付かないための予防線になっているのだろうか。本作を読んでいると、ナオ自身が自分を「ダメな奴」と強烈に認定しているが故に自ら進んで「ダメな奴」を演じているような、そんな心苦しさを感じてしまう。
エモい恋愛の真理に気付いた彼女たちが繰り広げる、歪んだ恋愛群像劇『サブスク彼女』。エモさを真っ向から否定した清々しさがありながらも、どう足掻いてもままならない恋愛しかできない不器用な彼女たちの姿をぜひ見てほしい。
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