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「根底にHIPHOPの考えがある。周りの仲間たちと成り上がる」MEIALUAメンバーインタビュー④島村 海翔

株式会社MEIALUAは、デザイン・ブランディングからアーティスト活動まで幅広く活動しているアーティストカンパニーです。
本記事は、そんな株式会社MEIALUAのDesigner兼Artistを務める島村 海翔について掘り下げていきます。

現在はデザイナーを軸にグラフィックアーティスト、ペインター、バリスタなど、幅広く活動する島村(以下、こげ)がどのようなきっかけでMEIALUAを生み出し、現在に至るのか。
ぜひ最後までお付き合いください!

プロフィール
島村 海翔(かいと)(26)
株式会社MEIALUA Designer / Artist。
幼い頃から絵を描くことに情熱を注ぎ、書道・漫画・音楽・ストリートカルチャーなど、多様なジャンルに影響を受け、それらをデザインに落とし込んだ独特な世界観を表現することが得意。
Chief Designer兼Artistのなべと同じデザイン専門学校に入学し、卒業後は就職せずにアーティスト・バリスタとしての活動を経験。
Artistとして、個性と自由をコンセプトに「ポペロッチくん」というオリジナルキャラクターを通じて日常をコミカルに表現。
デザイナーとしては、企業のロゴデザインやパッケージ、サービスビジュアルなど、幅広い分野で活動。
現在はブランディングの会社に務めながら、なべと共に立ち上げたMEIALUAに関わっている。

想いを伝える表現方法として、絵を描いたりラップをしていた

ーまず、こげがデザインやアートに目覚めたきっかけを教えてもらってもいい?

幼稚園の頃からずっと絵が好きで、たまに賞をとったりしてたんだよね。
そこから小中高と、本当に毎日机や教科書の空いてるスペースに絵を描いてたね(笑)。
漫画家になりたいと思っていた時期もありました。

ーそうなの!?

バクマンという二人の少年が漫画家を目指す漫画がきっかけなんだけど、小6の頃にストーリーを作るのが得意な近所に住むイタリア人の友達と絵を描くのが得意な自分でオリジナルの漫画を描いてました。

でも出来上がったのは本当に中二病臭い、変な漫画で(笑)。
それ以降は漫画を描かなくなってしまったんだけど、その後も相変わらず絵は描き続けていたよ。
正直、サッカー部だったけど、サッカーよりも絵を描くことのほうが好きだったね。

高校卒業後の進路について考えるときも絵を描き続けたかったから、芸術系の芸大か、デザイン系の専門学校か、の2択で迷った。
どちらの説明会にも行ってみて、結果どちらも学ぶことが出来そうな専門学校の方に進みました。
(この専門学校で、後にMEIALUAを一緒に立ち上げることになる「なべ」と出会う)

ーデザイナーになりたいと思ったきっかけは何かある?

当時、友人と地元の河川敷や公園で頻繁にサイファー*をしていたから、その友人経由でジャケットのデザインを頼まれたりと、ちょくちょくデザインの仕事をしていたんだよね。
だから、デザインの楽しさは知っていたし、このままデザインの仕事につくんだろうなと思ってた。

*サイファーとは?
アメリカ合衆国のヒップホップ文化から派生したもので、公園や広場などでラッパーが集まり、円になりフリースタイルラップをし合うというもの。 
参考:Wikipedia

ーそうなんだね。アートといえば、こげの代名詞と言ってもいい「ポペロッチくん」についても教えてほしい。

ありがとう(笑)。

まず「ポペロッチくん」は、自分がもともとHIPHOPを始めとしたカウンターカルチャーに興味があって、日常で感じたことや社会に対しての想いをコミカルに表現するために、専門学生3年生のときに生み出したキャラクター。

「ポペロッチくん」は平和と自由のシンボルで、「ポペロッチくん」を通じて表現することは可愛いもの、グロテスクなもの、ふざけてるもの、社会風刺的なものなど様々です。

ーアートという手段を通じて、自分の感情や想いを伝えたいと思ったきっかけはあるの?

そうだね、HIPHOPミュージックやストリートアートなどで表現されているものに対してすごくかっこよさや自由さを感じたからだと思う。

ー先ほどからちょくちょく話に出ているラップとかHIPHOPにハマったのはいつからなの?

高校生の時に同じクラスや部活の人、近くの高校の人達で集まってサイファーをしていたことがきっかけだね。
この頃はラップバトル全盛期で仲の良い友達は大体遊び感覚でやってた。

ーここまでのこげの話を聞いていると、自分で何かを生み出したり、表現することは昔から好きだったんだね。

そうだね。
もともと絵を描くことは好きだったし、明るいキャラだった小中学校の時代から、段々と物静かになり、表現方法が「話す」よりも「描く」や「創る」を選ぶようになっていった感覚があるな。

暗黒時代からのMEIALUA発足

ーその後、専門学校を卒業して企業に就職しなかったのはこげにとって大きな決断だったと思うけど、どうしてその選択をしたの?

卒業間近の頃は毎日ポペロッチくんを描いていて、SNSで海外のアーティスト・スケーター、国内ギャラリーのキュレーターからも自分の作品に対する反応が少しずつ増えてきた事もあって、「これで飯食っていけるかも?」と思ってた(笑)。
年齢も20そこらだし挑戦しようかな、と。

この選択によって暗黒時代が始まるけど、、、。

ー暗黒時代、、。詳しく聞いてもいい?

卒業後、2年から3年くらいは知り合いを中心にデザインの仕事をもらいながら絵を描くことができていたんだよね。
ただ、グラフィックデザインの仕事は安定して案件をもらうことが難しくて、不安定になり始めたことによって、絵を描く気力もどんどん無くなっていった。

この頃は生活資金を作るために深夜の派遣労働で日本語の通じない外国人たちとひたすら単純作業を繰り返してたよ。
その一方で、なべを含む専門時代の友人たちはデザインの仕事をバリバリとやっていて、「オレ、マジで何やってるんだろう、、」と負のループ。

不眠が続き、今思い返すとよく分からないけど、幻覚が見えたり急に吐き気がしたり、、。
症状的に鬱の一歩手前の状態で、人生で一番落ちていた時期だった。

半年ほどこの暗黒時代を過ごした後に、高校の友達5〜6人で一軒家を借りてシェアハウスを始めることになってから、状況は改善していって、仕事も徐々に増えて、絵もまた描き始めるようになった。

ーそんなにしんどい時期があったんだね、、。このあとMEIALUAを立ち上げることになったと思うのけど、どのような流れだったの?

暗黒時代真っ盛りのときになべと電話をしていて、「なんかやろうぜ」という軽いノリからMEIALUA(当時はこげとなべが主催する展示会の名前だった)が生まれた。
当時の自分にとって、この展示会を開催するという挑戦は「希望」だったんだよね。

本気で悩んだ決断。そしてこれからのMEIALUAとの関わり方

ー去年、なべの親友であったリョウセイがMEIALUAの代表になったり、なべが地元の福岡に戻ることになったりと、大きな変化があったと思うけど、こげ自身はこの変化をどう感じていたの?

リョウセイも福岡にいたので、なべと一緒に福岡に引っ越すか、本気で悩んだ。
普段悩んでも誰かに相談することはないんだけど、この頃は色んな人に相談したよ。

最終的には行かないことにしたけど、その理由としてはリョウセイ・なべと比べたときの自分の経験の無さ。
なべはデザイン、リョウセイは営業の経験がある中で、自分は卒業後、一度挑戦はしたものの、順調にいかず、当時はバリスタとしてバイト生活だった

だからまずは経験を積むという修行の場として現在のWebデザインの会社に就職することにしました。

ーそんな中で現在も本業の傍ら、MEIALUAに関わってくれていると思うけど、今後どのようにMEIALUAに関わっていきたいなどの展望はある?

数年間修行してから本格的に合流したいと思ってる。
自分の根底に、周りの近い仲間と上がっていくというHIPHOP的な考え方があるから、MEIALUA含め、周りの親しい人達と成り上がっていきたい。

ーありがとう。最後にこのインタビュー記事を読んでくれている読者の皆さんにメッセージをお願いします。

「人生なんとかなります」かな(笑)。
まだ若造だけど、人生のドン底に落ちて何もかも上手く行かなかった時期もありました。
でも今は何とかなっています。
だから自分自身の今までの経験をもって、「人生何とかなります」を伝えたいです。



(取材・文=金子 新太郎)

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最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。
島村の紆余曲折の人生とこれからの無限の可能性を感じていただけましたでしょうか?
ぜひこれからも応援をよろしくお願いします。

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