想像していなかった未来
人生を振り返り、一番の『想像していなかった未来』は、アメリカで暮らすことになったことだった。
暮らすことになった理由は、夫の仕事で海外転勤に伴う引越しだった。
当時、私は夫と同じ職場に勤めていた。
最初は一緒に行くかも迷った、家を購入して3年目、そして2匹の猫もいた。
でも、何年の滞在になるか分からず、考えた末一緒に帯同することにした。
夫より半年遅れで職場を退職し、持ち家は人に貸し、猫2匹と共にアメリカへの旅立ちであった。
アメリカ生活、私の暮らすことになった地域は車の運転をしなければどこにも行けない場所であった。
日本でペーパードライバーであった私は運転する勇気を持つまで時間がかかったが、ペーパードライバーであったことが功を奏したのか、車道が右側通行、左ハンドルのアメリカの車社会にもすぐに慣れることができた。
当時、子供のいなかった私には、自由になる時間が多くでき、何をしようか迷った時にせっかくアメリカにいるのだから、英語が学べる学校へ通おうと思い立った。
通った学校は、英語を母国語に持たずに、アメリカで仕事を目指すための人が通う無料の英語学校だった。
誰でも入れる訳ではなくて、持っているアメリカ滞在VISAの確認、そしてテストがあり、学力が振り分けられてのクラスであった。
テストの結果で1から5までに振り分けられたクラス、レベル1のクラスははじめて英語に触れるような国の人が多かった。
私はレベル3からのスタートでした。先生は陽気なドイツ系アメリカ人
キリスト教徒が多いアメリカの中で、ユダヤ教徒。
12月にはユダヤ教徒の方々はクリスマスは祝わずに、ハヌカというお祭りを祝うことを教わった。
教室では、いろいろな国の人がおり、その国のことを英語で説明することもあった。
自国を離れて、アメリカで仕事を見つけてがんばろうという人が多くて、私のように夫の仕事の帯同で英語を学ばせていただいていることは、大変恵まれていることだと痛感した。
2年学校へ通い、クラスも4へ進級はしたが、クラス内、文法などの紙の作業は得意であったが、英会話という部分はとても苦手でクラス内では積極性が求められ、発言を積極的に行わなければ、英語を話すという機会はあまり得ることはできなかった。
そんな中、友達から、場所も少し遠くなるが、先生もアメリカ人ではないが、とても少人数でアットホームで楽しい英語学校があるという話を聞いた。
私は、そちらも試してみても良いかなと思った。幸い英語学校は毎日ではなくて曜日を選べたので、週の半分、半分で各々の学校へ行くことにしてみた。
アメリカ人でない先生は、プエルトリコ出身でアメリカの大学に入学して、アメリカ人の旦那さんと知り合い、アメリカで生活していて、3人のお子さんをもつ先生だった。
自分も母国語はスペイン語であり、英語は第2言語、先生の授業は発音のレッスンはアメリカ人のボランティアの人が教えてくれた。先生の知り合いの方々のようでとても良い人ばかりだった。
先生はご自身もアメリカに来て、人種の違いなどから、いろいろとご苦労されているので、私達のように他の国からアメリカへ来て英語を学んでがんばろうと言う人の気持ちをとても理解してくれた。
先生と出会った時、私は英語を話すことが苦手で、授業中も先生と目が合うのを恐れてわざと視線を外したりしていた。当時を振り返り先生は言う。
メイは私と目を合わせようとせず、下を向いていることが多かったので、私の授業が退屈なのか、それとも嫌いなのかと思いあぐねていたと。
この話ができるようになったのは、先生のクラスに6年間滞在させてもらって英会話もそうだが、先生と交流を深めて行ってできたことだった。
私は、想像していなかった未来の2つ目に、子供をアメリカで妊娠出産したこともあげられる。
なかなか子供に恵まれずに、年も40代手前となっていた私でしたが、ご縁があり、病院を紹介してもらい、子供を授かることができた。
私の出産前に先生は、元気に子供が生まれてくるように、Baby Showerというパーティをご自宅で開いてくれた。
私と出産月が近かったロシア人のお友達と二人。そして出産後、私の入院した病院へも唯一、駆けつけてくれた人とクラスを離れてもとても忘れられない思い出がたくさんある。
私の人生の中の出逢いで、とても大切な人、英会話でコミュニーケーションが取れるようになった時に、先生とスペイン語でも会話をしてみたくなり、近所の図書館で週1回無料で開講されていた、スペイン語のクラスにも参加してみた。
英会話ができるようになったと言っても、流暢にビジネスなどで通用するレベルではなくて、カフェで2,3時間世間話をする程度でしたが、全ての生徒が地元のアメリカ人で先生はメキシコ人で全て英語で行われるクラスに1年間参加できたことも私にとってはとても忘れられない出来事でした。
英語があまり話せないので、電話や受付の人に説明するのは苦手で、その時も授業が始まる前に飛び込みでドアをノックして部屋へ入って行った瞬間は今でも鮮明に覚えている。
メキシコ人の先生には私の話す英語は理解してもらえず、アメリカ人の生徒の方がフォローしてくれたことを思い出す。
その日からスペイン語の授業を一緒に参加することになり、フォロしてくれた人の横に座った時に「私には貴方が話す英語はわかったから大丈夫」と言ってもらえたことを今でも思い出す。
思い返してみると、私のアメリカ生活はいつも自分の直感を信じて前に向かって行っていたと思う、立ち止まる日もあったけれど、英語の学校へ通ったりして人脈も広がり、日本にいたのでは経験できなかったことがたくさんあり、困っている私に対して、たくさんの人々が手を差し伸べてくれた日々でもあった。
アメリカから日本に戻り5年という歳月が過ぎた今、すべてのことが夢だったのかと思うほど、英語にもスペイン語にも触れていないが、最近生活に少しゆとりがでてきた今、私が経験したことを生かした何かをしたいと思っている。
まだ、具体的にははっきりとした未来はないが、過去の経験を振り返り、未来へ繋げていきたいと思っている。
そこには、また「想像しなかった未来」が広がっているかもしれないと思うから。
この記事は現在行われている企画
『#想像していなかった未来』というお題で書きました。
トップのアメリカと日本の国旗と真ん中に亀は私の子供が作成して、ずっとアメリカ生活中に部屋に飾られていました。
私はありがたいことに子供がいなかった5年間、そして子供を出産して日本に帰国そして、その5年後に再び子供と一緒に3年間という月日をアメリで生活しました。
これからは、その時の経験談なども、この私のnoteのベージで投稿して行きたいと思っています。
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