映画『愛と闇の物語』(2015)の感想
ナタリー・ポートマンが監督・脚本・主演の『愛と闇の物語』を2月中旬頃、映画館で観てきた。舞台はイスラエルである。そして、本作は2015年公開ということで、日本では6年後に公開されたことになる。
私は彼女のことを勝手にフランス人だと思っていた。この作品で彼女がイスラエル人であることを遅ればせながら知った。
"ブラックスワンのナタリー・ポートマン"と映画の宣伝文句にはあるが、私にとっての彼女は、リュック・ベッソン監督の『レオン』での存在感が今も鮮烈である。
(しかしながら、彼女にとって、あの作品での経験は苦い思い出であるようだ。それを口に出せるようになったのは、社会の変化であり、彼女が自立した大人になったいうことであり、よかったなと率直に思う)
この物語は序盤から中盤までは、ある家族とイスラエル建国までの過程が描かれる。
中盤以降は、妻であり、母親であるナタリー・ポートマンの抑鬱が描かれる。なぜ、彼女が病んでしまったのか、その理由はわからない。
夫は完璧ではないが悪い人ではなかったし、息子も人づきあいがそれほど上手というわけでではないが、素直でかわいい子どもだった。
それでも、彼女は「幸福」を感じることができなかった。
絶望と崩壊、死のイメージに憑りつかれている母親を作家となった息子が回想する。
物語の最後に、作家である息子(アモス・オズ)は、
「夢を叶えようとするな。夢を叶えたところで、失望が待っている。空虚さが癒えることはない。夢を追っているうちが花だ」
というような趣旨のことを述べる。
確かに、自死した母親は食うに困っていたわけではない。ただ、内戦のなかで、生きるか死ぬかの非常時には自死することなど考えないが、平時に戻れば、思考の癖のようなものが出てきてしまう。そして、絶望を反芻してしまう。
孤独な独身女は他者を求めて街を彷徨えばいいのかもしれない。
しかし、夫と子どものいる専業主婦にそれは許されない。行き場がないのは同じなのに、自由がない。いや、彼女が欲しかったのは、他者や自由ですらなかったのかもしれない。
この映画は特殊な国家であるイスラエルを描きつつも、普遍的な女性の絶望を描いている。
この映画を作ってしまったナタリー・ポートマンの闇もかなり深いのではないだろうか。