他者を信頼することの難しさ
ここ最近、他者の弱さを受容できる人ほど、友達や恋人が多いのではないか、とよく思う。
わたしは他人の弱さも、自分の狡さも、一切許さないので、孤独に陥っている。そして、実のところ、そんな自分が好きでも嫌いでもない。孤独である反面、危険を遠ざけることができている。わたしが守りたい自分など、大した自分ではない。ただ、自分を「生かす」ことを優先しているといえば、そんな感じだ。自分に無理をさせず、甘やかす。刺激と興奮はないが、日々はつつがなく過ぎていく。
フィクションには感情を揺さぶられたいのに、現実ではまったく揺さぶられたくない。「普通」に生きることの難易度が上がっているのだから仕方がない。
他人はわたしを絶対に裏切る。だったら、裏切られる予兆があれば、裏切ってしまえ、というのがある種の「信念(ビリーフ)」のようになってしまっている。それを壊してくれる都合のよい「奇跡」を馬鹿みたいに口を開けて待っている自分がどこかにいる。でも、それでは駄目なのだ。そんな日は永遠にやって来ない。自分で自分にタスクを課さなければ、それは訪れない。「他者を信頼する」というのがわたしの課題。どこまで信頼していいのか。そして、どれだけ依存していいのか。どこまで甘えられるのか。それがいまだにわかっていないのは致命的な気がする。二十歳前後までで、体得しておくべきことだと思う。
映画のエンドロールを見るたびに、これだけ多くの人々を動かした映画監督やプロデューサーはすごいな、と毎回思う。それは、わたしが他人と何かができないからだ。ただ、わたしが一方的に人間不信なだけではなく、仕事であっても、頑なに頑張らない人、自分の仕事を極限まで減らそうとする人、信頼されなくても構わない人などがいるのも現実だ。
誰かに献身的であることも、時には不健康なものになる。いびつな関係性ではなく、まっとうに、ちょうどよい塩梅で人と関われないものか。
他者を信頼できる人は、社会資本の腰(根幹)がしっかりしている。無形文化遺産を持っているようなもので、それが「ない」人にとっては、まぶしいぐらいの資産家なのである。
わたしは他者を信頼していないので、自分が失敗したとき、うまくいかなかったときに、自暴自棄になってしまい、全部を捨ててしまう、という悪癖がある。やはり、足腰が弱い。そこに、とどまれない。それは自分を信じていない、ということでもある。自信がある人は、泰然自若としている。
でも、もう立派な中年なので、親や社会、世間を恨んで、責めたところで、それが手に入らないこともわかっている。いつまでも駄々をこねているわけにはいかない。それがわかっているのに、欠乏感は癒えず、奇跡を夢見ている。
一人だと、どうにもこうにもひとり言が多く、自分の声がうるさい。しょせん、すべてはわたしの「主観」に過ぎない。
まあ、他者を信頼できないのは、究極的には自分を信じていない、愛していない、ということなのだろう。
どうすればいいのだろう、と一進一退を繰り返して、いつのまにか死んじゃうのかな、という薄っすらとした絶望感もある。
身近な人で、自暴自棄にならない人を見ていると、良くも悪くも他人に興味がない。ほとんどのことを流してしまっているように見える。ちょっと攻撃的なことを言われても真に受けない。でも、物事は淡々と進めていく。だから、愛情深い人間には見えない。しかしながら、関係性を切らず、継続することができている。じわじわすごい人なのだ。
自分の中にある、どうしようもなく冷淡な部分で、自己防衛をしている。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。
でも、結局は「自立」と「自律」の両輪がしっかりしていることが大事なのかな、という気もする。アドラーが自分の課題と他人の課題を取り違えるな、と言ったように。
結局、死ぬまで、対峙し続けるのは、自らの主観なので、その眼鏡が曇らぬよう、歪まぬよう、矯正と調整を続けるぐらいしか道はないのかもしれない。他者からも、健康だと認めてもらえれば、そこにはきっと健全な人間関係が形成されているはずなのだ。
頭ばかりが先走らないよう、気を付けたい。