一年後の自分(2021年と2022年)
去年2021年5月4日の自分のnoteを読んでみた。
今日は、ちょうど、その一年後の2022年5月4日だ。
そうそう、2021年は、胃と腸の検査を受け、療養期間として、GWを過ごしていた。体も重く、あまり動けなかった。
ゴールデンウィークの終わりに、怖いもの見たさで、天下一品のこってりラーメンにチャレンジした。あまりの脂の重さに食べている最中から悶えたことを覚えている。もう二度と食べてはいけない、と思った。そういえば、ここ一年、食べていない。今も、胃腸が弱っているので、行けそうにない。
それはともかく、365日を生き抜いた自分、おめでとう!
まあ、ここから、前の職場で、いろいろなことが起こる。そもそも、春の時点で、ストレス性の胃腸炎を患っており、ポリープもあり、毎日、全然楽しくなくて、どことなく憂鬱で、常に死にたい病にかかっていた。
不幸だとは言えないが、仕事は義務感だけでやっていた。後輩も入社していたのだが、彼らのサポートも、ほどほどでいい、と思っていた。離職率が高いので、いつくじけても、おかしくない。彼らに情熱を注げないほど、醒めてもいた。
今は憂鬱から離れて、淡々と生活ができている。でも、noteで苦しんでいる人の文章を読んだりすると、いつ自分に「あの感覚」が戻ってきてもおかしくない、と思って、少し怖くなる。出口のない思考のループをぐるぐるして、自分を痛めつけ、心のうちを罵詈雑言が渦巻いている状態。
人間とは現金なもので、自分の調子がよくなると、途端に心身の不調時の感覚を忘れてしまう。それは想像力の欠如と呼んでもいいかもしれない。
憂鬱と倦怠感に支配され、毎日がどうしようもなく繰り返され、少しずつ後退しており、ただ老いていく、変化のない日々に閉じ込められ、不機嫌で、イライラしている。それが常態化しており、スーパー銭湯などに物理的に日常と違う空間に行って、やっと少し気分転換できる感じだった。しかし、そこでもリラックスはできていなかった。リラックスしようと自分に言い聞かせていた。サウナや水風呂には、思考を強制停止させるような機能があったので、ありがたかった。いろんな銭湯に足を運んでいたのも、そのような理由からだ。正直、今は、自宅の狭い風呂でも、満足度は高かったりする。
2021年
1月~9月 フルタイムの正社員
10月 有給休暇の消化
11月~12月 無職
2022年
1月~3月 無職
4月~5月 契約社員
半年の無職期間は、やりたいことをやる、というよりは、心と体を回復させ、健康になるための努力をしていた。だから、何かすごいことを経験したり、冒険したりする余裕はなかった。集中力が続かず、苛立つことも多かった。
無職期間の半年で、ウォーキングや運動の気持ちよさを実感できたのは収穫だった。運動するとエンドルフィンが出る。エンドルフィンが出ないと続けられない、というのは本当だ。運動の習慣化に成功している人たちは、「気持ちいいから、運動する」という脳に変化しているのだという。わたしも、それが実感として理解できた。運動のあとの気持ちよさが、今はわかっている。
この一年で転職して大きな変化はあったものの、あまり感慨深いとは思っていない。わたし自身は、それほど大きく変化していない。習慣も、体型も、体調も、大きくは変わっていない。(年収が大幅ダウンしたのはヤバい! 笑)
ただ、物事や出来事に対する折り合いの付け方は、確実に学べたと思う。自分の潔癖さと他人に対する厳しさは、誰のためにもならない。自分と他者の弱さを受け容れ、時には流されることも必要。疲れていたら、無理をしない。考え方は確実に変化した。
結局、わたしがわたしの人生に満足していればよい。自己満足度を高められれば、それでよい。他人は、わたしの失敗にも成功にも、それほど興味がないのだから。わたしだって、誰かの失敗や成功の話を聞いたところで、「ふーん」で終わってしまうではないか。
今のわたしには、チームとして数字で結果を出すとか、現場の責任者であるとか、組織の立て直しとか、そういったものは、まだ重たい。できなくはないが、そこで緊張して疲れる準備は、できていない。
それに、主体的になんか生きられないのだと、つくづく思う。GWになれば、夜更かしをして、昼近くまで寝て、お菓子を食べたりして、ダラダラしている。我ながら、暦や社会の動きに連動しすぎ(笑)
本当に意志の強い人であれば、自分の生活設計を世の中の動きとは別の軸で作れるのではないか。できないわたしは、良くも悪くも、社会の中で暮らしている市民なのだな、と思う。
フリーランスで生きていたら、休んでいる正社員にイライラする自分も目に見える。立場が変われば考え方などいくらでも変わる。ただ、それを深く考えず、適当に流して、やり過ごすことも大事。
イライラしても、ダラダラしても、遊び狂っても、時間は進んでいく。わたしが自堕落に過ごしても、フルマラソンに挑戦していても、誰も気にしない。他人は自分のことで忙しいから、安心して、自分の人生を生きればよい。
まだ、前の職場のことを思い出して、ときどき、イラっとしたり、殺意にかられたりするが、これも回数がどんどん減っていくのだろう、と思う。
この一年のわたしの変化は確かに小さい。
しかし、地球温暖化(気候変動)による影響は確実に受けている。感染症もそうだし、食品の価格は上がっている。それだけでなく、独裁者が戦争を始めてしまい、それが激化していくという観測もある。わたしが世界に及ぼせる影響は微々たるものだが、世界はわたしに多大な影響を与えることができる。この非対称性の度合いが高くなる可能性は否めない。
だから、一日一日を生きていくしかないのだな、と思う。