シングルタスクへの道 その3
シングルタスクを意識するようになって、はや1週間。
ちょっと禁断症状が現れ始めた。
それは、歩きながら、音楽を聴きたい! と何度か思ってしまったことである。
もちろん、音楽プレーヤーは持っていないし、スマホはイヤホンがなければ聞けないので、聴きようがない。
なので、記憶の中にある曲を歌いながら、家路を歩いた。
そして、金曜日の夜、憂鬱に襲われた。
残業したので、普段より疲れていたし、肩と背中に痛みがあったので、それも原因の一つだと思われるが、久々に厭世的な気分になり、落ち込んだ。
だらだらスマホの時間は、だいぶ短くなってきたので、さらに減らしたい。
最近、よく考えることは、人間の出来事のすべては脳の中で起きていて、主観に過ぎない、ということ。そして、主観でしか生きられない、ということだ。
わたしは「暇」なとき、孤独感に苛まれる。
友達もいないし、彼氏もいないし、家族とも縁を切りたい状態で、職場にしか居場所がないようなヤバい状態で、ダメ人間。
しかし、夢中で本を読んだり、外を歩いて運動したりしていると、そんなことすっかり忘れてしまう。
脳は満足を覚え、不安など感じない。
集中すると心地よい。
新たなことを知ることで、脳みそは喜ぶ。運動することで、脳みそは変化する。
孤独感やさみしさは、ただ「暇」な時間に入り込んでくる魔物、わたしの思考の悪癖、というだけなのかもしれない。
それがわかっているのなら、行動をすればよい。
去った者を呼び止めることはできないし、呼び寄せても、うまくはいかないことはわかっている。破綻したものの修復は困難だ。
だから、新しい人に会いに行き、自分も新しい人になるしかない。
わたしの主観はわたしにしかコントロールできないし、誰かにコントロールされるとまずい領域だ。
自分で決めれられる、自己決定権があるのだ、と感じられる人間は、結局のところ、強いのだとどこかで読んだことがある。
やはり、誰かに委ねられないからこそ、孤独なのである。
誰かに委ねてしまうと、さみしさの総量は多少は減っても、コントロールできない部分が出てきて、それがフラストレーションになる。
わたしも人間なので、社会や人の群れなのかでしか、生きられないことはわかっている。
けれども、人間関係や人の心の機微に振り回され、打ちのめされ続ける人生を選択する勇気がない。
わたしは、自分の傷つきやすさを知っているし、そのことで乱高下する感情とうまく付き合えない。
わたしは「孤独」を選んでいるのだから、そのことを思い悩むのは、本当にもうやめたい。
(そうは言っても、また堂々巡りしてしまうのだろうな)