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老後のためのコレクションを老後の自分は見向きもしない

わたしは中学から大学卒業までの10年ぐらい、とあるラジオ番組を毎週カセットテープ(途中からMD)に録音していた。それを社会人になる前に、実家から新居である狭いアパートに持っていくか、捨てるかの選択をする必要に迫られた。物理的にもかさばり、運送費用がばかにならない。少し悩んだが、思い切って全部捨てた。十代から二十代まで、ずっと同じものを好きでいることも難しく、その番組に新鮮味が感じられず、飽きてもいた。だから、気分的にはすっきりした。その当時も、持って行ったとしても、聞き直す時間はないと予測できていた。

今でもときどき、段ボールにびっしり詰められた大量のカセットテープの光景を思い出す。もし、持っていたら音源をデジタル化していたはずだ。しかし、カセットテープを再生しながら録音してデータ変換するには、ものすごく時間がかかる。だから、やはり捨ててよかったのだと思うのだが、老後のためにとっておくべきだったかなと考えたりもする。後悔はしていないのだが、十代の多感な時期の思い出がそこに詰まっていたのも事実で、後ろ髪を引かれるのだ。(もう可燃ごみで燃やされちゃって存在しないのだけれど)

新しい作品が優れているわけではないのだが、やはり、過去のものは優先順位が低くなる。時代性や今とのつながりが強いものに、より重要性を感じてしまう。別に今が進歩的なわけでも、大事な話をしているわけでもないのだが、同時代性や即時性に価値が置かれる。それが「群れ(社会)」の情報を共有していたいという人間の特性なのか、わたしが薄情であるからなのかはわからない。

この世は諸行無常かつ盛者必衰なので、あの人がいなくなったら、また別の新しい人が出てくる。同じ水準の魅力がなかったとしても、何となく、いつのまにやら代替されている。老後のためのコレクションとして取っておいたとして、七十を過ぎたとき、十代の頃に夢中になったラジオ番組を聴くかどうか。おそらく聴かないと思う。七十になったら、また趣味嗜好は変わっていて、新しい何かから情報を得たいと思うはずだ。それに生きているかどうかも定かではないのだから、不確かな未来の暇つぶしの準備をすること自体、どうかしている。

「いつかやろう」「明日やろう」という先送りはせず、楽しめるものはそのときに楽しむ。楽しめなくなった郷愁込みの思い出に振り回されないようにする。「今」を蔑ろにしないことは、結果的に未来の自分を大事にすることに確実につながるのだが、「今」を雑に扱ってしまうのはなぜなのか。いずれ死ぬことを知っているのに、本質的なところを理解できていないのだろう。

今の自分の身体をいたわりつつ、それだけでは味気ないので、良質なインプットと何かを創造(アウトプット)できる余力を一日一時間でもいいので残せる毎日にしていきたい。老後の自分が何をしているかは想像もつかないのだが、「今」に集中することができていたら、そこそこ幸せな日々だと言えると思う。


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佐藤芽衣
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