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日記とは、話を聞いてくれるお母さん

「日記とは、話を聞いてくれるお母さんのようなものだ」と津村記久子さんが書いていた。webちくまで「苦手から始める作文教室」の連載が公開されていたのだが、単行本になったようで、webでは読めなくなっている。(そりゃそうだ)

子どもの頃は、母親に起きた出来事を話し、同じことを繰り返し話し、未来のことをああでもないこうでもないと話していた。そのような経験の有無にかかわらず、人は誰かに何かを話したい。意味のあることも、ないことも、どうでもいいことも、どうでもよくないことも、思いつくままに話したいという欲求がある。とはいえ、いつまでも、母親にばかり話しているわけにもいなくなり、話せないことも増えていく。その欲求を満たすため、友人、恋人、配偶者を求める人も少なくないだろう、と思う。

ただ、話しかける相手が「人」である必要はないのだ。頭の中にあるごちゃごちゃしたものを外に出すだけですっきりする。それが日記であるし、読まれてもいい日記がブログ(note)である。

津村記久子さんの比喩は圧倒的に正しい、と今強く思う。紙の日記に書き留めたり、noteに吐き出していると、いちいち生身の誰かに伝えなくてもよくなっていく。

日記の最大の利点は、遡れるところにあると思う。たった数年前の自分のことも、書き留めておかなければ、記憶に残らない。先週、三年前ぐらいの紙の日記を捨てる前に一度読み返そうと手に取った。当時の人間関係の面倒くささなども書かれていたが、「首が痛い」「肩が痛い」「背中が痛い」と痛みを訴える文がとても多いことに驚いた。

そうそう、当時は休日残業などをして、土日もパソコンとにらめっこしていたので、常に上半身に痛みがあった。人間は忘れっぽい。今は全然痛みを感じていないので、そんな数年のことをすっかり忘れていた。痛みを解消するために、銭湯通い、マッサージ、リングフィットアドベンチャーといろいろと試したのだが、平日残業、休日残業がなければ、別に全然痛くならない、という普通の結論に落ち着いてしまった。

ちなみに持ち帰り残業で過労死しても労災認定はされないらしい。未払い残業代を請求しても、持ち帰り残業(自宅作業)だと支払われない(これはわたしの実体験)。

つまり、終わらない仕事は、終わらない仕事を設定する経営者が悪いわけで、仕事が終わらないことを気に病んで残業をする必要などない、ということだ。能力不足などと言われても、人員補充しないとできないと主張し、会社が解雇をちらつかせてきたら、労働者側も裁判をちらつかせるしかない。厚生労働省が労働者の心身を守る気がないなら、就業時間内で働くことを徹底するしかない。代わりになる労働者はいくらでもいるが、「あなた」はあなたしかいないので、労働に身を捧げなくてもよい。

ちょっと話が脱線してしまったが、日記(note)を書き続けることは、頭の中を整理し、ちょっとした承認欲求も満たしてくれる。

ただ、毎日の更新を自分に課すと大変だ。ストックはあっという間になくなる。別に原稿料がもらえるわけではないし、読まれているのかどうかはよくわからない。Amazonのリンクを貼っているが、アフェリエイトも毎月0円であることがほとんど。(そもそもアクセス数が少ないからね)稼ぐにはほど遠いのだが、続けていくことで、何かに繋がればいいかなと思っている。

わたしはデザインフィルのA5の横罫線のノートに日記をつけていた。ページが開きやすく書きやすい。裏にもうつりにくいのでおすすめである。少し大きな文具店では取り扱いもあると思う。今は定期的に頭を整理するために、ノートに書き出したりはするが、日記的なものはnoteで事足りるかな、という気がしている。

いかに自分とうまく付き合っていくか。そこをクリアできないと、他人とうまくつながれない、ということも実感としてわかってきた。

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佐藤芽衣
チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!