わたしのマルチバースがあるのなら
先日、わたしがやりたかった仕事をそのままやっている人を見つけてしまった。知らなければ良かったのだが、その事実にズドーンとショックを受けてしまった。妬ましいという気持ちもゼロではなかったが、それよりも、この二十年ぐらいの努力が適切ではなかった自分、頑張り続けることができなかった自分の不甲斐なさについて考え、いわゆる後悔に襲われた。一つのことを続けられる人、続けている人は偉い。その仕事の依頼元はわたしのことなど何一つ知らないのだから、自分はスタートラインにすら立っていない。お声がかかる可能性はゼロだったという事実にうちのめされた。よしんば立っていたところで、依頼する価値がある取引先として扱われていたかどうかという別の問題もある。
わたしの脳内には『Everything Everywhere All at Once』のウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が現れ、「君はあらゆるマルチバースの中で最も成功していない君だ」と言われた。そう、どこかの並行世界では大活躍している自分がいて、今の自分は運がなく不遇なのだと思うと、何となく慰められるような気がしたが、そのマルチバースにわたしが行くことはないので、どうしようもない妄想でもある。(物理学者ミチオ・カクさんのマルチバース解説は面白かった)
やり切ったと思えるぐらい全力を尽くしていたら、また別の道にいたと思う。うじうじ考えるのは、「まだ本気出していないだけ」と言いわけをしているからなのだ。言いわけだけで、大長編が書けそうだが、ドストエフスキーの『地下室の手記』みたいになりそうだ。(大学生のときに読んで「これはもしやおじさんの愚痴がずっと続くだけなのでは?」という危惧が見事に的中した作品である)
自分のいたかった場所にいる人に対して、若い頃はルサンチマンを抱え、呪詛にまみれていたが、今はそのエネルギーがなくなってきて、「はあ、自分の人生はうまくいかなかった」と雑な総括をし始めている。これはこれでまずい。努力しろ、と自分でも思う。
努力するのは大変だから、うまくいかなかった自分で済ませようとしているのかもしれない。そのような自画像で満足したいわけではなく、これ以上、傷つきたくない、といった防衛本能が働いているのだろう。これまでいろんな人の成功を目の当たりにして、小さく傷ついてきた。もちろん、勝手に傷ついて、勝手にやる気を失う、というセルフ鞭打ちの刑で何の生産性もない。いやはや、奮起ってなかなかできないものね。
人間は自分が持っているものには無頓着だ。持っている人は、持っていない人を歯牙にもかけないし、持っていることに対して無自覚なケースもある。一方、持っていない、という感覚は、無駄にくっきりはっきり4Kクオリティなので奪われたような感覚に陥る。でも、誰も何も奪っていないし、奪われてもいないこともわかっている。(おまえがちゃんと這い上がらなかったから、こうなっているのだよ)
もうルサンチマンにも飽きたし、無駄に自己評価が高い自分にも辟易している。プライドの高さが邪魔をして直線ではなく、謎の迂回をし続ける自分も鬱陶しい。noteに愚痴を書くのが本職のようになっているのは由々しき事態でもある。(ただ、これはセルフケアの一環なのよね)
一心不乱に無鉄砲に頑張る気力と体力はないのだけれど、まだあきらめきれないという確かな未練がある。創作などのアウトプットは細く長く続けながらも、生活と人生を充実させる。やめる宣言はしなくてもよい。宣言せずとも、続けられていないのだから、実際問題、やめているようなものなのだ。趣味の一つ、人生の作業の一つとして充実させればいい。そうすることが、人生と生活、生命を充実させることにつながる。英語なら「Life(ライフ)」の一言で済むのだが、さまざまな側面から言及したくなってしまうのは言語の問題か。
むちむちでみっちしりした、でっぷりとした人生を送りたい。がりがりでスカスカの骨と皮だけの人生は嫌なのだ。そこは欲深く、野心を持っても良しとしたい。へとへとに疲れて寝落ちするように死にたいものだ。