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映画『この世の果て、数多の終焉』(2018)の感想

ギョーム・二クール監督・脚本の『この世の果て、数多の終焉』を映画館で見てきた。

すんごい映画だった。何でもない日常的なやりとりが続いたかと思うと、随所にグロテスクな描写が挿入される。何度も、目を背けてしまった。戦場であることがこれでもかというくらい強調される。

戦争映画ではあるが、それが主題ではない。絶望と対峙し、行き場を失った人間の物語である。支配者であるフランス、被支配者であるベトナムの葛藤がさらりと描かれ、侵略者(闖入者)である日本も、少しだけ出てくる。

どこまで意図的に撮影されたのかはわからないが、ベトナムの風景は美しい。青空、雨、夜、亜熱帯気候の木々、草、蔦などの自然がそれだけで美しい。日本と似ているが、少し違う。うだるような暑さが伝わってくる。その中にいる、山中を歩くフランス人に段々違和感を覚える。ベトナムの風景に決して馴染まない、溶け込むことのないロベール(ギャスパー・ウリエル)、それはゲリラ戦で勝つことができないフランス人を象徴しているようにも思えた。

これは、ベトナム戦争の中で描かれるアメリカ人に対しても感じることだ。地の利がない者が勝てるはずなどない、と。

途中、ロベールの同僚であるギョームが「地下鉄が恋しい」と話すシーンがある。フランス人というより、都市の人間の脆弱性が露わになる。そう、地下鉄を懐かしむような都市生活者が、ゲリラ戦で勝てるわけがない。それが、植民地主義の矛盾でもある。収奪が目的の劣っているはずの植民地が、いつのまにか制御不能になる。植民地支配は、結局のところ、行き止まりなのだ。未来はない。物語の終盤で、ロベールは「おまえも猿だ」とベトナム人に言われ、立ち尽くす。フランスの植民地支配には先がないことが示唆される。

そして、この映画で描かれる愛は痛々しい。ロベールはマイに執着しながらも、拒絶される。それは、痛みをもたらすが、その感情は彼自身の手に負えないものなのだ。彼は何かを確信しているわけではない。彼女がほかの男と寝るのは嫌だ。彼女を支配したい、所有したい。しかし、その先に何があるのか、未来が欲しいのか、彼自身もよくわかっていない。

登場人物の全員が、内通者に見えるのも、これまた一興であり、誰も信用できない世界、それが戦場であるのだとつくづく思う。野蛮なのはお互い様だろ、といった描写が延々と続く。

そして、フランス語を流暢に話すベトナム人に、簡単に気を許してしまうフランス人が何とも間抜けに見えた。宗主国の傲慢さと、生き馬の目を抜くベトナム人の悪賢さをまざまざと見せられる。

「ベトナムに勝てるわけがないでしょう」と対ベトナムの戦争映画を見るたびに思うのは私だけではないと思う。

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佐藤芽衣
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