退屈の後ろには孤独がくっついてくる
寂しさに襲われたり、孤独感に苛まれるのは、たいてい暇なときだと教えてくれたのは、精神科医のTomyである。暇な時間とは退屈な時間で、その隙間に悪魔が忍び込んでくる。
わたしは失業して、メンタルがまいっていたとき、毎日、TomyのVoicyを聴きながら料理をしていた。当時のVoicyは無料でいろいろ聴けたのだが、現在、バックナンバーは有料になっていた。だから、どの回で話していたのかはわからない。すんません。
無職の時間はあっという間に過ぎていくのに心は回復しない。しかし、貯金残高は確実に減っていく。その焦燥感のせいで余計に疲れていたことを思い出す。そんなときに聴いていたTomyの語りは穏やかで、それでいて説教くさくはなかったので、ささくれだった心にしみわたる何かがあった。
当時を振り返ると、孤独を紛らわすには、運動や料理が効果てきめんだった。運動することで心拍数を上げ疲れると睡眠の質は高まる。野菜を刻むことに集中すれば、ほかのことは考えずに済む。何かに集中したり、夢中になっていれば、自分が孤独であることをその瞬間は忘れられるし、社会からの疎外感からも解放される。
近頃は、コロナ後遺症のせいか、体力が低下しており、すぐに眠くなってしまうので、苛立ったりするエネルギーもなく、孤独感に襲われることもなく、すぐ寝てしまう。孤独と向き合う体力がないおかげで、メンタルが守られている不思議。
孤独と対峙するのではなく、孤独に対処できる人間のほうが、周囲にも迷惑をかけずに済む。壮大な野望や野心があればそれに突き進めばいいのだが、目標が高ければ高いほど、初志貫徹もなかなか難しくなる。現実的には、日々のささやかな楽しみやスモールステップのほうが、自分自身を励ましてくれているような気がする。
わたしにとってはnoteを書く作業は、書くまでは億劫だが、書き始めたら、結構楽しい。公開後、誰かに読んでもらえたことがわかったら、それだけで承認欲求もそこそこ満たされ、次の記事を書こう、という意欲がわいてくる。
Duolingoの英語学習は、まさに牛歩ではあるものの、続けられている。これも、若干ではあるが、自己肯定感を上げてくれている。
自分のためだけに時間を使うとき、そこに「退屈」を居座らせないために先手を打つことが大事。人間は退屈すると、ろくなことをしない。嫌な思い出を反芻したり、他人に攻撃的になったり、自罰的になったりする。いや、退屈が人間に悪さをするのだと考えたほうがいい。
自分だけの時間を過ごすとき、あらかじめ、自分のために楽しみを準備しておく。それは作業であったり、おやつであったり、好きな映画であったりする。退屈なのに忙しいとかは、本当に最悪なのだ。自分を退屈させない工夫を惜しんではいけない。そんなことを最近、実感している。